生きることの本質と言いますか、絶対の真実を掴みましたぞ!!!!
それは確実に死ぬであります
って、誰もが知って居るはずの真実なのに例えその日が迫って来てさえも信じようとせず、抗おうとする・・・。
言い換えて見ると現代の行き方は死ぬことに逆らうために人生を費やす・・・ナンテことを思うのであります。
どーせ死ぬんだから、と、思ったら、カブトムシやスズメやイノシシと同じように生殖行為を果たし子孫を残す本能のみに生き、時節が来たらすんなりと果てたら良いと思う訳であります・・・が、違うんですね、現代人は。
現代人は、死ぬまでの間をドー生きたか、なんて事に重きを置き、人生に目的を見出し、そこに最大の価値を置く・・・ように騙される、もしくは洗脳されて居る訳であります。
洗脳は誰が??? それは「社会」でありましょうか?
時には直接的に「国家」であったりもしますが、やっぱし広義の意味で言えば「社会」でありましょう。
その手段は巧妙ですが、まずは教育でありましょうか???
皆さま・・・社会の価値ってナンでありましょうか???
稼いだり溜め込んだ銭の高でありましょうか???
それとも、社会や国家に貢献し名を残す事でありましょうか???
戦争の時、たくさんの敵を殺したら勲章がもらえ、褒め称えられましたが、敗戦したら戦争裁判で死刑になっちまった人が日本人には居ましたね???
この時の価値観ってまるっきり逆さまであります・・・と、言う程度に社会の価値観なんていい加減なんですけれども、洗脳されて居ると気がつかないんでしょうね。
戦争だけじゃ無いです。
労働者・・・正社員だとか日雇いだとかの区別なく労働者は自分の時間の切り売りをして居る訳であります。
いや違うと言う人もいるかもしれませんが、全く自由に晴耕雨読で食べていくことが可能でありますか???
まっ、稀にそんな労働者の形があるのかも知れないので完全否定はできませぬが・・・。
もっとも旧社会主義国とアジアの国の一部くらいですか、労働者なんて言って許されるのは???
特にキリスト教の国では労働者とは言わない訳であります。
概念と言いますか、過去の怨念と言いますか、奴隷であった過去とつながる言葉として労働者は使えないのであります。
資本主義の中で労働者の立場は「消費者」と言い換えられた訳であります。
資本を持つ側に対して何も持たない労働者は自分の時間を提供し労働に勤しみ対価を得るんですけれども、資本主義社会では労働で得た対価を消費しないと生きられない社会が確立されて居るのであります。
なので労働と消費の連鎖から逃れることはできない仕組みであります。
これが資本主義のとても単純なカラクリなんですが、ここに、もう一つ付け加えないと資本主義は成り立たないのであります。
拡大再生産・・・と、言いますか、10の資本を10で回して居たんでは資本が拡大しない・・・要するに利益とか儲けが出ないので10を11でも12にでも増やさなければならないのであります。
まっ、付加価値という目くらましで10の物を12だと思わせたり15に見えるように仕掛けて売るのが資本主義でありまして、労働者は自分で作り出した付加価値でさらに自分の時間を多く切り売りしなくてはならなくなるのであります。
と、まぁ、最初の書き出しが生きることの本質、なんて事なんですけれども、現代社会で生きる目的とか価値を考え始めると労働と資本主義のカラクリに触れないでは話が進まないのであります。
有名な言葉なんですけれども、キリスト様が・・・人はパンのみに生きるに非らず、なんて語ったと言われてますが、これが真理であります。
パンは物質文明の「欲」のことを語ったと見ると言って居ることはお釈迦様と同じことであります。
仏様もキリスト様も、物に捕らわれあくせく生きるなよ、欲しがることをやめたら時間の切り売りもしなくて済むか、最小限で居られるよ、と語って居るのだろうと思う訳であります。
さて、落とし所を探し始める頃合いなんですけれども・・・表題が「生きることの本質」なのでその方向で決めたいと思うんですが、今日のところはイエス様に勝ちを譲って「人はパンのみに生きるに非らず」こそが人生の本質である、とさせて頂きたく思う訳であります。
本当は私は仏教に傾いた人なんでお釈迦様の言葉で締めても良いんですがあの人の例えは面倒臭いと言いますか、中々口語的に難しいと思うんであります。
なので、ちょっと何を言いたいのか分からないと言う意見は無視して、今夜の戯言はお終いであります。
いや、どれもこれも今更お前ごときに言われなくても、なのは百も承知なんであります。
が、しかし、私も含めて欲に絡め取られて忘れている訳です。
どーせ稼いでも貧乏でもお迎えが来たら逝くしか無いのを、まるで明日は永遠にくるかのように時を粗末にしていると思うのであります。
と、言うことで、色即是空 空即是色と言うことであります。
と、言いつつ、明日はプールの仕事で、労働者をする訳あります。
いや、パンも食べないと死んじまうのも事実でして、難しいですねぇ、人の道は。
では・・・おやすみなさい、と。
それは確実に死ぬであります
って、誰もが知って居るはずの真実なのに例えその日が迫って来てさえも信じようとせず、抗おうとする・・・。
言い換えて見ると現代の行き方は死ぬことに逆らうために人生を費やす・・・ナンテことを思うのであります。
どーせ死ぬんだから、と、思ったら、カブトムシやスズメやイノシシと同じように生殖行為を果たし子孫を残す本能のみに生き、時節が来たらすんなりと果てたら良いと思う訳であります・・・が、違うんですね、現代人は。
現代人は、死ぬまでの間をドー生きたか、なんて事に重きを置き、人生に目的を見出し、そこに最大の価値を置く・・・ように騙される、もしくは洗脳されて居る訳であります。
洗脳は誰が??? それは「社会」でありましょうか?
時には直接的に「国家」であったりもしますが、やっぱし広義の意味で言えば「社会」でありましょう。
その手段は巧妙ですが、まずは教育でありましょうか???
皆さま・・・社会の価値ってナンでありましょうか???
稼いだり溜め込んだ銭の高でありましょうか???
それとも、社会や国家に貢献し名を残す事でありましょうか???
戦争の時、たくさんの敵を殺したら勲章がもらえ、褒め称えられましたが、敗戦したら戦争裁判で死刑になっちまった人が日本人には居ましたね???
この時の価値観ってまるっきり逆さまであります・・・と、言う程度に社会の価値観なんていい加減なんですけれども、洗脳されて居ると気がつかないんでしょうね。
戦争だけじゃ無いです。
労働者・・・正社員だとか日雇いだとかの区別なく労働者は自分の時間の切り売りをして居る訳であります。
いや違うと言う人もいるかもしれませんが、全く自由に晴耕雨読で食べていくことが可能でありますか???
まっ、稀にそんな労働者の形があるのかも知れないので完全否定はできませぬが・・・。
もっとも旧社会主義国とアジアの国の一部くらいですか、労働者なんて言って許されるのは???
特にキリスト教の国では労働者とは言わない訳であります。
概念と言いますか、過去の怨念と言いますか、奴隷であった過去とつながる言葉として労働者は使えないのであります。
資本主義の中で労働者の立場は「消費者」と言い換えられた訳であります。
資本を持つ側に対して何も持たない労働者は自分の時間を提供し労働に勤しみ対価を得るんですけれども、資本主義社会では労働で得た対価を消費しないと生きられない社会が確立されて居るのであります。
なので労働と消費の連鎖から逃れることはできない仕組みであります。
これが資本主義のとても単純なカラクリなんですが、ここに、もう一つ付け加えないと資本主義は成り立たないのであります。
拡大再生産・・・と、言いますか、10の資本を10で回して居たんでは資本が拡大しない・・・要するに利益とか儲けが出ないので10を11でも12にでも増やさなければならないのであります。
まっ、付加価値という目くらましで10の物を12だと思わせたり15に見えるように仕掛けて売るのが資本主義でありまして、労働者は自分で作り出した付加価値でさらに自分の時間を多く切り売りしなくてはならなくなるのであります。
と、まぁ、最初の書き出しが生きることの本質、なんて事なんですけれども、現代社会で生きる目的とか価値を考え始めると労働と資本主義のカラクリに触れないでは話が進まないのであります。
有名な言葉なんですけれども、キリスト様が・・・人はパンのみに生きるに非らず、なんて語ったと言われてますが、これが真理であります。
パンは物質文明の「欲」のことを語ったと見ると言って居ることはお釈迦様と同じことであります。
仏様もキリスト様も、物に捕らわれあくせく生きるなよ、欲しがることをやめたら時間の切り売りもしなくて済むか、最小限で居られるよ、と語って居るのだろうと思う訳であります。
さて、落とし所を探し始める頃合いなんですけれども・・・表題が「生きることの本質」なのでその方向で決めたいと思うんですが、今日のところはイエス様に勝ちを譲って「人はパンのみに生きるに非らず」こそが人生の本質である、とさせて頂きたく思う訳であります。
本当は私は仏教に傾いた人なんでお釈迦様の言葉で締めても良いんですがあの人の例えは面倒臭いと言いますか、中々口語的に難しいと思うんであります。
なので、ちょっと何を言いたいのか分からないと言う意見は無視して、今夜の戯言はお終いであります。
いや、どれもこれも今更お前ごときに言われなくても、なのは百も承知なんであります。
が、しかし、私も含めて欲に絡め取られて忘れている訳です。
どーせ稼いでも貧乏でもお迎えが来たら逝くしか無いのを、まるで明日は永遠にくるかのように時を粗末にしていると思うのであります。
と、言うことで、色即是空 空即是色と言うことであります。
と、言いつつ、明日はプールの仕事で、労働者をする訳あります。
いや、パンも食べないと死んじまうのも事実でして、難しいですねぇ、人の道は。
では・・・おやすみなさい、と。