気仙沼を歩いた続きです。
以前宿泊したことのある(といってもあやふやな記憶ですが)ホテルが湾を挟んで対岸に見えます。それを目印に歩いていきました。
このあたりが湾の一番奥に当たります。左手に猪狩神社、右手に丘の上のホテル、大島方面が見えていると思います。
市場の方をめざして進みます。堅牢なはずの銀行も大破しています。
小さな空き地に大漁旗が・・・・・・。復興を願っての広場となっているのでしょうか。
漁船が流れてきています。
火災があったことも思い起こされます。
石山修武さんの設計だったと思います。大漁旗などを掲げるモニュメントです。陸地の間が運河のようになっていますが、この部分はRCのPC版が流されてしまっています。
魚市場の一部は使えるj状態ではありません。
町名で言うと弁天町、南気仙沼駅の近くです。このあたりはホテルや水産加工業、お店などでにぎわっていたはずです。ほとんど何も残っていません。
たまに、蔵が残っています。日本の町は、表に町家・表店があり裏に蔵があるという構成でできていることが多いといえます。火事の多い市街地では大事なものは蔵に入れておくという習慣があったわけです。火事ではありませんが、津波に対しても蔵(だけ)が残っている風景を見ると、普段目にしている「表」というのが実は仮の姿で、本当の町や文化は「蔵」のある奥の部分で継承されてきているのではないかとも思えます。
実際に町家建築の系譜を遡ると表の店が、もともとは路上の市の固定化されてきたものという側面が浮かび上がります。すなわち表の店は移り変わりの激しい仮設の市の系譜をひいているということです。表店はその背後に済む人の貸しスペースというわけです。昨年羽黒手向の類例調査で伺った富士吉田のまち割がまさにそうでした。表の店はその背後に住む地主(富士吉田の場合は神官である御師)の奉公人などが住んでいたというのがそもそもの歴史的経緯であると御師の方から伺いました。
考えてみると武家屋敷の長屋門も表に面していますが、重要な主君の屋敷は奥に控えています。
このあたりのことはきちんと研究しておられる方がいるので私も少し勉強してみたいと思います。移り変わる表に対して、変わりにくいものがその背後にあるというまちの構成を、被災地の「残った蔵」の風景から思い起こしました。
帰りは裏道の方から、化粧坂という美しい名の切通しを通って駅に戻りました。列車の出発まで時間があったので駅前の食堂で定食を食べました。家内が「塩辛がおいしかった」と感想を述べると、「いつも仕入れていたところはみんな被災してひとつだけ残ったところなんですよ。おいしいといってもらって有難う」と大変ご丁寧に対応して下さいました。
また、地図を見ながらまちを歩いていると何人かの方にどこかお探しですかと声をかけてもらいました。ご親切に有難うございます。皆さんが普通の生活に戻る日が早く来ることを願ってやみません。