森で見つけたセリ
ひまわりさんより(3月16日)
今日の午後は、お天気が良かったので、久しぶりに近くの県民の森へ散策に出かけました。静かな森の中を抜けて、今日はいつもと違う道を通ろうと、車が1台通れるぐらいの狭い林道を歩いていたら、小さな湿地がありました。私が、「こんなところにセリが生えてないかしら」と言ったら、夫も同じことを考えていたそうです。そしてよく見たら、本当に小さなセリがたくさん顔を出していました。さっそく夫と二人でせっせと摘みました。日当たりが悪いせいか、少し細身の華奢なセリでしたが、家に持って帰っておつゆの中に入れて少し苦みのある味を楽しみました。今までセリなど食べたことのない息子も、「春の味だね。おいしい」と言って食べてくれました。最近我が家では、だんだん加工食品よりも、自然の物をそのまま食べることが人気になってきました。もしかすると、神様を通して嗜好も変えられていくのかもしれません。食料危機の時代に備えさせられているようにも思います。
朝の散歩の途中にはカワズ桜が満開でした
罪に勝利する道は?(デビット・カン講演11)
ローマ人への手紙7章6節を読みます。「しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである」
私たちが死んで、古い文字によってではなく、新しい霊によって、とあります。ここでパウロは、古い契約と、新しい契約について述べているわけです。7章19節を読みます。「すなわち、私の欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている」 パウロは、自分は義人になりたいのに、なれないでいると叫んでいるのです。善を行いたいのに、自分が行いたくない悪を行ってしまう、24節で叫びをあげていますね。「わたしはなんというみじめな人間なのだろう、だれがこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」 わたしたちは、この死の体にとどまっていて、それを脱げないでいるわけです。解決は何でしょうか。このような問題に、どのように勝利できるでしょうか。