庭の馬酔木がたくさんの花をつけました。少し香りもします。
ひまわりさんより(3月18日)
今日の日課の言葉をご紹介いたします。「聖書のいう清めを経験する者は、謙遜の精神をあらわす。彼らは、モーセのように、聖なるおかたのおそるべき威光を眺め、無限のおかたの純潔と崇高な完全さとにくらべて自分たちの無価値なことを認めるのである。・・・
現在、宗教界において注目を集めている清めには、自己称揚の精神と神の律法の無視とが伴っており、このことは、それが聖書の宗教とは異なったものであることを示している。その主唱者たちは、清めは瞬間的な業で、信仰だけによって、完全な清めに到達すると教えるのである。彼らは、「ただ信じなさい。そうすれば、祝福が与えられる」と言う。・・・ それとともに、彼らは、神の律法の権威を拒否し、自分たちは戒めを守る義務から解放されたと主張する。しかし、神の性質とみ旨の表現であり、何が神のみこころにかなうかを示している原則に調和せずして、人間は、神のみこころと品性とに一致して清くなることができるであろうか」『各時代の大争闘』下巻198~200p
私たちは、地上のことでも、本当に尊敬する人に出会ったら、その人のようになりたいと思うようになります。そのように、神様を愛する心を頂いたら、神様のご品性を表したいと思うようになるのだと思いました。
イエス様は勝利の模範(デビット・カン講演13)
私たちが新しい契約のうちにあるとき、そういう人は罪に定められることがないのです。私たちが新しい契約のもとにあるならば、罪の奴隷とはなっていないわけです。イエス様は、アダムが堕落したあとの性質をとってこの世においでになりました。遺伝の法則によって、あらゆる弱さ、罪深さというものを、彼は背負ってこの世に生まれてこられました。しかしイエス様は聖霊に満たされていました。そしてご自分の罪深い肉を、常に聖霊に屈服させて歩まれたわけです。ですから彼は完全な勝利者として、一度も、ただの一度も罪を犯すことなく、生涯を全うされたわけです。