救いは取り消されることがあるのか 第14回
3、「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ6:11)。
「認むべきである」という言葉は、「信じること、または成し遂げられたこととして考えること」を意味します。つまり、自分自身を罪について「死んだ者」として見なされなければならないと言う意味です。死んだ者は怒りません。死んだ者は利己的なむさぼりを持ちません。
かりに皆さんが、罪に対して勝利を得たいと思うのであれば、皆さん自身を罪に対して死んだ者と見なさなければなりません!現在皆さんが抱えておられる、勝利できない問題は何でしょうか。皆さんは喫煙の習慣や、執拗につきまとう罪を克服したいと本当に望みますか?今キリストは語られます。「私はあなたに勝利を与えよう」。皆さんがこの約束を信じる限り、神様は勝利を与えて下さるのです。そしてこれから皆さんは、罪に対しては死んだ者として行動してください。勝利のための力を求める祈りをしてください。皆さんが勝利を求めた瞬間、勝利の力は天の補給所から皆さんの生活の中に、即座に下ることになるのです。たとえそれを感じることができなくても、それは間違いなく皆さんの生活の中に表れるようになります。皆さんがそれを信仰で受け入れる限り、いつもそこにあるでしょう。
ある人々は、この勝利を劇的に経験し、今まで好きだった罪を嫌悪するようになり、罪はその味を失ってしまいます。喫煙中毒だった人が、喫煙の要求から完全に解放されることがあります。けれども、このような方法は、神様が一般的にとられる方法ではありません。多くの人の場合、勝利の経験は与えられますが、心には罪の欲求と欲望が残っていて、機会をとらえて人を誘惑してきます。しかし、誘惑の瞬間ごとに、それを克服できる力が天から私たちの心に伝わってきて、力強く私たちを支配するようになります。
私たちの肉体と感覚が、私たちに罪を行うように激烈に要求したとしても、私たちの良心の中で語られる聖霊の静かな訴えが耳に響いて、私たちは自分自身をすでにキリストにあって死んだ者と見なして、聖霊のみ声に屈服するようになります。このような経験を通して、私たちの信仰は天に向かってぐんぐん成長していきます。
お約束を果たされた神様 第14回
弟子たちは、小さい時からイザヤ書の預言は聞かされてきていました。しかし彼らは、表面的にしか理解していませんでした。もし彼らが、本当に聖書を分かっていたならば、イエス様が捕えられ、悪しき者と共に死なれた時、彼らの信仰はもっと確実なものになったことでしょう。このイザヤの預言が成就した、この方こそメシヤだったと、むしろ彼らの信仰の確証となるべきでした。しかし彼らは、聖書の意味を正しく理解せず、信じる心も鈍いために、イエス様をメシヤと認めることが出来なくなってしまいました。
イエス様が復活なさった後、信仰と希望を失っていた弟子たちに、「なぜあなたはこんなに愚かで心がにぶいのか。パンを5千人に与えた時には、それを食べ、病気の人を癒した時には見物して、死人をよみがえらせた時にも、あなた方はそれを見たではないか。どうして信じられないのか」、とは言われませんでした。彼らの信仰が根本的に間違っていたことを気づかせるために、メシヤ預言から始めて、聖書全体にわたって、旧約聖書の預言が、ご自分のうちに成就していることを解きあかされました。そして、聖書の預言の成就という、この動かない土台の上に信仰を築き上げるように、彼らを教えられたのでした。
ですから皆さんの信仰も、聖書を土台として、聖書の約束が、全てイエス様の中に成就しているということの上に、築かれていってほしいと思います。これこそが信仰の基礎にならなければなりません。