救いは取り消されることがあるのか 第17回
第2部:一度救われたら決して滅びることはないのか?
1、序論
選択する能力は、神様から与えられた驚くべきの賜物です。ところが、人が自分で選択できないことが一つだけあります。それはどんな人であれ、堕落した利己的な本性を持って生まれるということです。人は例外なく誰でも、この生まれつきの利己的な本性を持っているのです。つまり、私たちの生涯で最も大きい影響を及ぼす、人の性質に関しては、すでに古い時代の私たちの先祖の失敗によってもたらされたのです。私たちが生まれながらに持っている利己的な性質については、どんな選択の余地もありません。その結果、私たちはすぐにこの性質に負け、あたかも水を飲むように罪を犯し、皆永遠の滅びに至る死を自ら選んでいくことになるのです。もしキリストのみ力を通して、この利己的な本性が変化されないのであれば、人はいつまでも、生まれては滅びてしまう人生を繰り返していたことでしょう。
このような堕落した性質を持って生まれてきた私たちですが、神様は私たちに、この性質に負けることのない強力な力を選択することが出来るようにして下さいました。これは誰にも奪われることの出来ない堂々たる権利であり特権です。この選択こそ、私たちが生きている間にするべき、最も重要な決定です。この選択によって私たちは、罪の本性に従って永遠に滅びるか、キリストを信じる信仰によって、新しい品性に創り変えられ永遠に生きるかを決定します。
お約束を果たされた神様 第17回
ゼカリヤ書の預言は、イエス様が誕生される5百年前に書かれたものですが、そのまま成就しました。
詩篇22篇には、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」(詩篇22:1)。「しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる」詩篇22:6)「わたしは水のように注ぎ出され、……かわき、わたしの舌はあごにつく……悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた」(詩篇22:14~16)。「彼らは互いにわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引きにする」(詩篇22:18)。
各国ごとに死刑の方法があります。日本はどのようにして罪人を殺したのですか。
ユダヤ人たちはどのようにして殺していましたか。彼らは石打ちで殺したのですね。姦淫を犯した女性が捕らわれてきた時、また、ステパノはどのようにして死んだのでしょうか。彼は石に打たれて死にました。そうであるなら、イエス様はユダヤ人であるから、石で打たれて死ぬべきでした。しかし詩篇を見てみますと、石で打たれて死ぬと書かれずに、手と足を刺し貫かれて殺されると書いてあります。十字架について死なれることが、千年前に書かれています。イエス様を十字架につけた時、ローマの兵士たちは、イエス様の衣服をくじ引きでわけようとしました(ヨハネ19:23、24)。イエス様の十字架の光景が、全て生々しく、預言された通りに起きたのです。