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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されることがあるのか 第22回

2014年11月10日 | 日記

    

  救いは取り消されることがあるのか 第22回

3、救いは失うことがある!

別のキリストのたとえ話でも、信者たちに対する赦しは条件付きであるという事実が確認できます。それはマタイによる福音書18章21~35節の話です。この物語は、神様の赦しの性質について教えられたものです。ある王様が、自分の僕の哀願に応じて、莫大な借金を帳消しにしてあげました。ところがこの僕が、自分にわずかな借金のある同労者に会うと、自分から借りた金を返さないことを怒って、無慈悲にも彼を牢屋に閉じ込めてしまいました。このことを聞いた王様は怒りました。そして、以前その僕に対して行った巨額の借金の免除を取り消して、その僕がお金をすべて返すまで牢屋に閉じ込めたという話です。

誰であれ、このたとえ話が伝えようとしている明白な教えを否定することはできません。神様は赦しを求める全ての人をお赦しになりますが、その赦しは条件なしに与えられるものではありません。私たちが他人を無慈悲に扱うなら、すでに受けていた赦しを失うことがあるのです。これはエゼキエル書33章13節の言葉と一致する内容です。「わたしが義人に、彼は必ず生きると言っても、もし彼が自分の義をたのんで、罪を犯すなら、彼のすべての義は覚えられない。彼はみずから犯した罪のために死ぬ」。この原則は18節で再び繰り返されています。「義人がその義を離れて、罪を犯すならば、彼はこれがために死ぬ」。

    お約束を果たされた神様 第22回

しかし疑問が一つあります。AD31年1月14日午後3時、この時十字架で死んだ人が3人いましたね。この中の一人が過越しの羊、神のみ子であることは間違いありませんが、3人の中の誰が、本当に救い主なのか、どうやって決めればいいのでしょう。そこで、1400年前の過ぎ越しの記事に戻ってみましょう。この羊を屠る時、どうしなければならないと書いてありますか。何をしないようにと警告されていますか。「その骨を折ってはならない」(出エジプト記12:46)と書いてありますね。

イエス様は、金曜日の午後に亡くなられました。そしてその次の日が安息日だったので、祭司たちは、ピラトの所に行きました。「さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである。これらのことが起ったのは、『その骨はくだかれないであろう』との聖書の言葉が、成就するためである」(ヨハネ19:31~36)

ユダヤ人たちは、聖なる日に罪人を木にかけておくのはよくないので、罪人たちの足の脛の骨を折って、早く死なせようとしたのです。その時ローマ兵士がイエス様の所に来て、イエス様の脛を打とうとしたら、イエス様はすでに息を引き取られていました。イエス様は十字架にかけられて6時間ほどで死なれました。こんなに早く死ぬわけがないということで、確認するために脇腹を槍で刺しました。聖書を見てみると、その時、血と水が流れたと書いてあります。普通は、血だけが流れるはずですがなぜ血と水が流れたのでしょうか。これはイエス様は心臓が破裂して、すでに亡くなっておられたことを証明しています。そのために脛を打って、骨を折りませんでした。過越しの羊の骨を、折ってはいけないと言われた通りのことが起きたのです。骨を折ってはいけないと、この言葉はイエス様において正確に成就しました。