死にいたる罪
ヨハネ第1の手紙5章をご覧ください。ここにある興味深いことが書いてあります。ヨハネ第1の手紙5章16節です。お読みします。
「もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない」(1ヨハネ5:16)。
ここで皆さんと、単純な聖書研究をしたいと思います。今聖書は、2種類の罪があると言っています。一つは死に至る罪、もう一つは死に至らない罪、どういう意味でしょうか?犯しても大丈夫な罪があると言うことでしょうか。もう一方で、この罪を犯したなら、もうそこに救いはないということでしょうか。たいていの場合、私たちが真に生まれ変わりの経験をしたクリスチャンであるなら、そのあと犯す罪というのは、偶発的といいますか、私たちの弱さから出てくるものなんですね。必ずしもその罪を犯そうと計画したり、意図的にその方向に向かうようなことはしないのです。罪を犯してはいけないと知りながらも、弱さのゆえに、間違って犯してしまうことがあるわけです。そして、罪を犯した時にはそのことを心から悔いて改めるわけですね。それは必ずしも、罪がばれて面目を失って、人々から悪く言われる、そういった辱めを受けて悔い改めるのではなく、罪というものは、神様を悲しませるものであるという理由で、私たちは悔い改めをするわけです。
自分が犯した罪を、心から悔いるならば、悪かったと思うならば、そのような罪は赦されるのです。では、死に至る罪というのはどういうものでしょうか。死に至る罪というのは、私たちが掴んで離そうとしない類(たぐい)のものです。習慣的な罪と言いましょうか、悪いと知りながらも、その罪を抱き続けて捨てようとしないものです。「その罪を捨てよ」という聖霊の声に抵抗してしまうわけですね。それは、大事にしている罪と言いますか、非常に危険なものです。私たちが聖霊の声に抵抗するたびに、私たちの内にあるこの罪はますます強力になってきます。そしてその罪が、だんだん、ますます、凝り固まって固くなってしまうのです。
アメリカのカリフォルニアのある場所に行くと、たくさんの化石を見ることが出来ます。この化石というのは、かつては、生きた植物、木だったりするわけですね。この石が、昔は木だったわけですから、そこに年輪も見ることも出来ます。ある時には、この石が、かつては生き物だったということも分かります。生き物が化石になるように、長年の罪の習慣で、私たちの心が、化石のように固くなってしまうのですね。
今、私たちの心をきれいにしていただく、清めていただく時です。私たちが大事に抱き続けていた罪、悪習慣を捨て去るべき時です。私たちの品性の欠点を正す時です。これが今であり、印する時なのです。その働きを怠るならば、私たちのうちの罪、習慣的な罪はますます凝り固まって、化石のようになってしまいます。ついには、その罪に決して勝利することが出来ないようになってしまうのです。罪が、もう私たちの内に動かすことのできない品性の特徴となってしまいます。その時には、聖霊ですら私たちの心を変えることが出来なくなってしまいます。私たちには、常にそのような欠陥がまだ残っているわけですね。そのような罪は、捨て去らなければ、死に至ります。そういった類の罪に、もう赦しは与えられないんですね、なぜなら、もはや聖霊の声に応答することが出来なくなっているわけですから、その罪のうちに、私たちはもう凝り固まってしまうわけです。