病気から学んだこと
たとえば、昨年私が心臓の大手術を受けて初めて目覚めた時、私の生涯はこれまでと全く異なったものとなっていました。なぜ自分は生き残ったのか、医者には、もうあなたは望みがない、死ぬでしょうと言われたのです。それでもなぜ生き残ったのか、この治療の過程を通っていた時は、非常に困難な状況でした。その回復段階にあって、指をこうやって上げる力もない時がありました。回復段階にあって、ものすごい痛みも経験しました。実際には望ましくない経験を通ったのですね。何もかも説明できませんけど、非常に困難な経験を通らせてもらいました。今皆さんの前に、こうして座っていて元気そうに見えるかもしれませんが、今では、何をするにも私は妻の助けが必要な状態です。まあ、火傷をしなければ、歩くことは出来たんですけど、通常はこういう状態ではありません。しかし、いずれにしても心臓手術の後、本当に体がガクンと弱りました。
以来、本当に家内にいろんな面で頼ってきました。家内はわたしを愛してくれますから。もう結婚して38年一緒に生きてまいりました。時々こういうことを言ってからかうことがあるんです。「今になって僕を捨てたいとは思わないだろう?」。こういう状態にある私を介護し続けることによって、彼女の真の愛が試されてきたわけです。彼女は真心から私の介護をしてくれました。時には、本当に悪いなあと思うことがあります。二人の子どもを育ててきたのですけれど、今ではもう二人とも大人になっています。二人の子どもを育てた経験はあっても、この体の大きな子どもの世話をするのは、初めての経験だったと思います。
心臓手術を受けて目覚めた後、あることについて考える時間がありました。心臓手術後、私は4日間眠り続けていたんですね、徐々に眠りから覚めた時、ああ、自分は生きているんだ、と思いました。この肉体の問題を抱えたまま、こういうことも考えました。あの時死んでいたほうが楽だっただろうなと。でも、歩き始めて、また食べることを始めて、そういったリハビリを頑張ってやりました。また再び二本の足で立ち上がるようになるまで、本当に大変な努力をいたしました。一日でパッと歩けるように、神様はして下さいませんでした。だとしたら、本当に楽でいいですよね。もうパッと全部癒されて、そして歩きも走りもする、何も痛まない。もしそうなっていたとしたら、「デビット・カンの命を、神様が本当に素晴らしく救って、癒してくださった。数日のうちに歩いて走っている、彼は神のしもべに違いない」、と人々は言うでしょう。「神様が共におられる、素晴らしい、彼の説教に耳を傾けよう」、こういう筋書きだったらどんなに良いでしょうね。そうはいきませんでした。他の心臓疾患を抱えた患者と同じですね。普通の回復の過程を私が通るのを、神様はお許しになったのです。
私たち誰もが、肉体的欠陥を抱えていますね。また、私たちの思いのうちに、汚れた部分があります。私たちはイエス・キリストの福音の力によって、心の大手術を受けなくてはならないのです。そして手術を受けた後も、神様の力によって、日に日に、徐々に成長を遂げなくてはならないのです。そうやって罪から脱する方法を学んでいかなければ、習得しなければいけないのです。適切な言葉を語るその方法を、習得していかなくてはなりません。いかに正しい考えを持つか、学ばなければいけません。そうする時に、私たちの生涯は、神様のために大きな力を発揮できるようになるのです。