では、イエス様がバプテスマを受けて、公生涯を始められた西暦27年の秋から3年半後の西暦31年の春には、どのようなことが起ったのでしょうか?アダムとエバが罪を犯した後、メシヤの死を象徴していた犠牲制度と供え物を廃する事件が起きました。実に長い間、ユダヤ人たちは、傷のない小羊を聖所の祭壇上で焼くことによって、やがて来られるメシヤへの信仰を示し、身代わりの羊の死を通して、罪の赦しを受けてきました。
しかし、最後の70週目の中間である西暦31年の春、イエス・キリストが罪を取り除く神の小羊として十字架上で亡くなられたことによって、これ以後は羊を殺して焼く犠牲制度が必要でなくなりました。
“それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」”(ヘブル10:5-7)。また、「こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが・・・、しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、・・・罪のためのささげ物は、もはやあり得ない」(ヘブル10:11,12,18 )。どれほど明確な預言の成就でしょうか?
イエス様が十字架で亡くなられて、もはや羊を殺す犠牲制度が必要なくなったことを象徴する奇跡が聖所で起きました。
「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(マタイ27:50,51)。聖所の中にあった神殿の幕が突然裂けたことは、モーセが犠牲制度について記録していた儀式律法が定めている祭事とささげ物は、もはや必要がなくなったことを意味していました。「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた」(コロサイ2:14)。
5)正確な時に決定されたユダヤ民族の運命
ユダヤ民族は、メシヤを拒絶し、その方を殺しましたが、愛と慈悲に満ちた神様は、70週が終るそのときまで、ユダヤ民族が、イエス・キリストの死と犠牲の意味を理解するのを待ちわびておられました。しかし彼らは自分たちに与えられていた490年(70週)が完全に過ぎても、反逆と不従順の道を頑迷に歩み続けました。
最後の7年(1週)の半分である西暦31年に十字架が立てられ、残り半分の3年半が過ぎ去り、神様がユダヤ人に許された70週の預言が完全に終了しました。十字架後もしばらくの間、弟子たちはユダヤ人の救いのために働きました。そして、イエス様が亡くなられてから3年半後の西暦34年、新しい契約の福音を、最後まで拒否するユダヤ人の指導者たちに向かって、ステパノは警告と懇願の説教をしました。しかし彼を通して語られる聖霊の恵みの訴えに、あくまで反抗するサンヒドリン議会は、ステパノを石で打って殺害します。こうしてステパノはキリスト教会の最初の殉教者となりました(使徒行伝7:51-60参照)。これによりユダヤ人のための70週(490年)の恵みの猶予期間が、完全に終了しました。この事件後すぐに起こった迫害によって、異邦人に福音が伝え始められました。(使徒行伝8:1〜)。