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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印  デビット・カン講演37

2012年07月22日 | 日記



   ひまわりさんより(7月22日)

今日は遠くへ用があって出かける必要があり、お昼の準備ができなかったので、
セブンイレブンのおそばを買って食べました。食べようとして知ったのですが、
以前おそばは固まっていてほぐすのが大変で食べにくかったのですが、今はほぐすための水が入っていて、
すごく食べやすくなっていました。コンビニのお弁当はこんなに食べる人のことを考えて改善されているのに、
永遠の福音の真理を持っている私たちは、どれほど人の立場に立って真理を伝えようとしているだろうかと反省させられました。
 
  油を用意する(デビット・カン講演37)

マタイ25章のたとえ話を注意深く読みますと、そこに、賢い乙女と、愚かな乙女の違いが書かれています。
見かけは一緒です。全員神の言葉、聖書を持っています。
キリストの再臨を待っています。ところが、日曜休業令がやって来た時、全員が目を覚ますのです。
その時にあることに気がつきます。
賢い乙女たちは、脇に油を持っているのです。別の器を持っていて、そこに油を蓄えていたのです。
ランプの油が切れた時に、予備の油をつぎ足すことができたわけです。
すべてのセブンスデー・アドベンチストもランプを持っています。教師によって与えられています。
牧師から与えられています。
安息日学校の先生方から与えられたもの、教会の長老方から用意されたもの、しかし、
それだけでは十分ではないのです。自分で油を用意しなければいけません。
聖霊との個人的な経験であります。時がやって来たとき、自分で聖霊の油をつぎ足さなければなりません。
それはどういうことか、わかりますか。愚かな乙女たちは、「あなたの油を分けてください」と言いました。
賢い乙女たちは、「できません」と答えました。なぜでしょうか。これは、経験だからです。
自分の経験を他の人に与えることはできません。経験とは、ただの情報ではないからです。







生ける神の印  デビット・カン講演36

2012年07月21日 | 日記


    ひまわりさんより(7月21日)

今日の安息日は、ちょうど夫の誕生日で、初めて、新しい集会室で礼拝を行いました。
午後から、以前の教会で午後預言の研究をしていたKさんと、二人の小学生の娘さんが来てくれました。
若い人たちも預言の研究に来てくれて、聖書の学びをじっくりとしていました。
その間私は、子供たちと近くの川辺へ散歩をしに行きました。
子供たちは、この川辺の散歩コースが気に入ったらしく、
「神様が造ってくださった自然の中を散歩することができるっていいね。
私はこういう安息日が大好き」と言っていました。
こういう風に、純粋に安息日をとらえてる子供たちに、いい環境を整えてあげたいと思いました。

   10人の乙女のたとえ(デビット・カン講演36)

マタイ25章で、10人の乙女たちが、花婿の到着を待っていましたね。
これは、大事なことですから、よく聞いてください。10人が待っていましたが、
5人が賢くて、5人は愚かな乙女でした。全員手に明かりを持っていました。手には同じものを持っていたんです。
この明りは何を表しているのでしょうか? 神様のみ言葉です。ランプは神様の言葉を表していたんです。
愚かな乙女も、賢い乙女も、全員神の言葉を手に持っていたんです。
その明りを用意してくれたのは誰でしょうか。自分で用意したんですか。
違います。これは、結婚式の時に、用意されたもので、結婚式の当事者が、彼らに手渡して、
花婿を迎えさせようとしたのです。セブンスデー・アドベンチストであれば、誰であれ、聖書を手に持っています。
バプテスマを受けています。安息日学校の教課を勉強します。教理を理解しています。
全員聖書を手に持っているわけです。賢い人も、愚かな人も。しかし、この召しがやってくるときに、
「花婿だ、花婿がやってきた」と言われるときに、その時、全員目を覚まします。
ところが、ランプの中に、油が入っていないんです。




生ける神の印  デビット・カン講演35

2012年07月20日 | 日記



     ひまわりさんより(7月20日)

私は千葉へ引っ越してきた5年前から、神様を心から礼拝する場所が欲しいと願い続けてきました。
私は生まれた時から教会に行っていましたから、どこの教会へ行ってもそれらしく振る舞い、
表面的に話を合わせることはできるのですが、それではどうしても納得できませんでした。
本当に霊とまことの礼拝を捧げたいと思っていました。今回、不思議な導きで新しい家に引っ越すことになり、
そこにちょうど良い広さの集会室があったのです。これまでに、カーペットを敷き、ソファーを置いて、
集まりができるようにしていました。
そして今日、椅子が12脚、講壇代わりの指揮者用譜面台、ホワイトボードがまとめて入り、
集会の準備がすっかり整いました。すべて色と言い大きさと言い、ピタッと収まり、すばらしい所となりました。
これから神様がどのような方を導いてくださるのかわかりませんが、願いを起させ、
実現に至らせてくださる神様に、心から感謝をお捧げしたいと思います。


     神様だけを恐れてください(デビット・カン講演35)

多くのセブンスデー・アドベンチストの信者が、真理から出て行ってしまいました。
日曜休業令がやってくるとき、そのような人たちが、真理にとどまる私たちに対して、苦い敵となります。
本当の意味で、霊的に神様の安息日を守る人たちが、「残りの民」となるのです。
兄弟姉妹である皆様、もう一つ申し上げたいのは、肉である人間に、信頼を置かないでください。
いかなる教会であれ、人であれ、権威者に信頼を置かないでください。神様だけを恐れてください。
そして、真理を経験して下さい。その時、神様があなたを、「女の残りの子ら」の一員にしてくださいます。





生ける神の印  デビット・カン講演34

2012年07月19日 | 日記


    ひまわりさんより(7月19日)

以前に紹介しましたが、私は毎夕、赤ブドウのジュースを飲むようにしています。
これを飲むようになってから(?)元気さが違うように思えます。
ところで、この赤ブドウは、お店によって、種なしと種ありがあります。
私は種ありを丸ごとジューサーに入れて飲んでいるのですが、お店になくて、種なしを使うこともあります。
それで気づいたのですが、種なしはすごく早くいたむのに対して、種ありの方はいたみかたがずっと遅いのです。
人間が手を入れて作った種なしより、自然に近い種ありの方がはるかにパワーが違うのかなと思ったりしています。

    アブラハムの信仰(デビット・カン講演34)

ある日、神様がアブラハムの前に現れました。
そして、こう言われました。「あなたのひとり息子イサクを、生贄として捧げなさい」と。
「燔祭として捧げなさい」 アブラハムは理解できませんでした。なぜだかわかりません。
それでも、神様に信頼をおきました。息子を連れて、モリヤ山に行きました。
そして、今にも殺そうとしたときです。これは、見せかけではなく、本当にそうしようとしていたのです。
神様が、「わかった、わかった、やめなさい」と言われました。
「あなたが、私を恐れる者であることが、今、わかりました」
「第1天使の使命」とは何でしょう。「神を恐れ、神に栄光を帰せよ」とあります。
 それはどういうことですか。神様の戒めを守るということです。安息日を守るということはどういうことでしょう。
私たちが、神様のすべての戒めに従っていることの、外見に、外に現れたものなのです。




生ける神の印  デビット・カン講演33

2012年07月18日 | 日記


ひまわりさんより(7月18日)

   今日の日課にはこのように書いてありました。「キリストはご自身の義で罪を覆うようなことはなさらない。
しかしこのお方は罪を取り除かれる。そしてその代わりにこのお方はご自身の義をお与えになるのである。
あなたの罪が清められる時、キリストの義はあなたの前を行き、そして主の栄光があなたのしんがりとなる。
あなたの感化力はそのとき、決定的にキリストの側に立つ。なぜならあなたは、自己を中心とする代わりに、
キリストを中心とし、そして自分を聖なる委託物の保管者だと感じるようになるからである」。
キリストの義というと、罪に汚れたものを覆い隠すようなイメージを、長い間持っていましたが、
そうではなく、気付いた罪を取り除いてくださる恵みなのです。何というすばらしい恵みなのかと思います。
カン先生もこのことを強調しておられます。

 神様に従う(デビット・カン講演33)

私たちが、お互いに接するとき、そして、いろんなことを語ったり、行ったりするとき、私たちは、
イエス・キリストを反映すべきであります。それをする時、私たちは本当の意味での安息日遵守者となるのです。
これこそが、「生ける神の印」なのです。
私たちは、なぜ第7日安息日に、教会にやってくるのでしょうか。
神様がそうしなさいと言われたからです。私たちは、神様の云われるとおりに生きる者なのです。
時にはその理由がわからないこともあるでしょう。
しかし、神様に自らをあけ渡すとき、神様の言われることが何であれ、それに従うべきです。