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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印  デビット・カン講演32

2012年07月17日 | 日記




    ひまわりさんより(7月17日)

梅雨明けの今日は、千葉もものすごい暑さで、外はクラクラするような日差しでした。あまり暑いので、
気になって、私の母の所へ電話をして様子を聞いてみました。
すると母は、ぼんやりした感じで、クーラーも扇風機もかけないで、あまり暑さも感じていない様子なのです。
水分をこまめにとることと、クーラーか扇風機を使うよう言いましたが、お年寄りが、暑さの感覚が鈍くなり、
熱中症にかかるということがわかるように思いました。
同じように、私たちの信仰も、霊的に鈍くなり、
何も感じなくなってしまうことがないように気をつけたいと思いました。

    ストラディバリウスを受け取る(デビット・カン講演32)

ものすごく高価なバイオリンなんですけど、ただでもらったのですね。
この物語を本で読みました。そして、あることに気づいたのです。『私は神様に属する者である。
私という人間は私のものではない、自分のために、自分を自分のものにしようとしている限り、
私がやることは、この世の中からほこりをかき集めるだけである、しかし、
私自身をイエス様にあけ渡して屈服するとき、イエス様が私を調律して下さって、イエス様の音楽をかなでて下さる。
私たちは、神様の御名を讃えるために造られた存在なのです。これが創造の目的なのです。
それゆえに神様は私たちをお造りになったのです。神様の御名を讃えて、神様に栄光を帰するために・・・。









生ける神の印  デビット・カン講演31

2012年07月16日 | 日記



        ひまわりさんより(7月16日)

新しい家には天井埋め込み型の大きなエアコンがついていました。
しかし、使ってみると、運転はするのですが、ピッ、ピッという大きな警告音が出て、
とてもうるさいので使うことができませんでした。
古い型なのでどうかと思ったのですが、M電気のサービスセンターへ連絡すると、修理する人が来てくれることになりました。
その人はこのピッピッという警告音を数えていました。後で聞いたのですが、
この警告音は、鳴る間隔でどの部分の故障かがわかるようになっているのだそうです。
修理屋さんは、部品を取り換えると何万円もするので、
何とか今ある部品を使って修理すると言って2時間ぐらいかけて修理してくれました。
私は、修理屋さんが音を聞いただけで修理個所がわかるという話を聞いて、
私たちも聖霊様が心に鳴らしてくださる警告音を敏感に聞き取って、自分の直さなければならない所を知り、
イエス様の義を頂くことによって、変えられていくものとなりたいと思いました。


       ストラディバリウス3(デビット・カン講演31)

「この音楽はどこから聞こえてくるんだろうか」「どこから流れてくるんだろうか。
ラジオじゃないし・・・。じゃあどこだ」 「あの老人の家だ。行ってみよう」いろんな人たちが押しかけてきました。
勝手に入ってきて、いすに座り始めました。家の外にも、立ち見客が増えてきました。
そして、一曲弾き終わったあと、ものすごい拍手、喝さいが起きました。
「もう一曲お願いします」「こんな美しい音楽、聞いたことがありません」「もう一曲お願いします」
 結局、五曲演奏しました。演奏し終わった後、バイオリンを注意深くケースにしまいました。
そして、その老人に戻したわけです。驚いたことに、その老人は目から涙を流していたのです。
「何か悪いことをしたのでしょうか」と尋ねました。「いや、何も悪いことをしてないよ。
あなたの音楽を聴いているうちに、一つのことに気づきました。
このバイオリンは、私に属すべきものではなくて、あなたに属すべきものであることがわかりました。
私がこのバイオリンを持っていた間、だだもうほこりをかぶせていただけでした。それでは何にもなりません。
ところがそれがあなたの手に渡った瞬間、バイオリンが本来の作られた目的を果たしてくれました。
バイオリンというのは、音楽で人の心を喜ばせ、慰めるために作られているのです。
そして、あなたの手の内にあった時、美しい音楽をかなでました。
だから、これをあなたに差し上げます」と言いました。「売ってくださるということですね。
お値段を言って下さい。お支払い致しますから」「これは売り物ではないと言ったでしょう。あなたにあげます」 





生ける神の印  デビット・カン講演30

2012年07月15日 | 日記



ひまわりさんより(7月15日)
昨日分は、書いていたのですが投稿していませんでした。申し訳ありませんでした。
さて、新しい家に来て3週間が過ぎましたが、実は、また、新しいことに挑戦しなければならなくなりました。
それは、すごく相手のためになる大切なことなのですが、今まで慣れていたことを置いて、
違うことをやるのは、大変だなーという気持ちが起きてきました。
その時,「ああ、自分には本当の意味で人のために何かやろうという心はないのだなあ」と思いました。
本来は相手の必要に応えることなので、うれしことなはずなのに、大変だなと思う気持ちが起きてきたのです。
自分には、本当の意味で、相手のために自分を犠牲にする心がなく、やったとしてもどこか自分の利益がないと面白くなる、
そんな自分の心が見えてきました。
人のために犠牲になることがうれしいことだと、思えるように、今、路線変更に入っているのだと思います。

  ストラディバリウス(デビット・カン講演30)
「わかった。では入りなさい」ということになりました。
それから、押し入れをあけまして、そこにバイオリンのケースがありましたが、その上にはホコリがたまっている状態でした。
それを下して、フッ フッとほこりを落として、そのバイオリン奏者に渡しました。
ケースを注意深く開けました。バイオリンを手に取って、「これ、見せていただきましたが、弦に触ってもよろしいですか」
「ああ、いいよ、急いでやりなさい」弦を触ってみたのですね。「弦を触ったついでに、これ弾いてもいいでしょうか」
 「まあ、ずうずうしいなあ」と言いました。「まあ、いいだろう」ほんとうに古いバイオリンでした。塗装も剥げている所がありました。
注意深く音を調律してから、バイオリンの弓を弦にあてて弾き始めたのです。
きれいな音楽を演奏しました。その音楽が家の外にも漏れていって、町の人たちに聞こえて行ったわけです。






生ける神の印  デビット・カン講演29

2012年07月14日 | 日記



    ひまわりさんより(7月14日)
今朝、犬と川べりを散歩をしている時、クローバーが群生しているところがあったので、四葉のクローバーがないかと探したら、何とすぐ目の前にあったのです。家へ帰って、夫の誕生祝にしようかと思って押し花にしておきました。礼拝の後、昼食の準備をしていたら、聖書研究グループの方たちから、電話がありました。私たちの家へ、見学がてら来たいということでした。私は本当にうれしく、感謝しました。神様が用意してくださった新しい家の最初のお客様が、信仰の同志と言える方たちで、こちらから声をかけたわけでもないのに、訪ねてくださるということで、ありがたいことだと思いました。1時過ぎに、3人の姉妹方が来られ、結局6時過ぎまで、楽しい交わりの時間を過ごすことができました。神様の恩愛をご配慮に、深く感謝いたしました。

   ストラディバリウス(デビット・カン講演29)
1940年代、50年代のことです。アメリカに有名なバイオリニストがいました。そのバイオリニストは、一流のバイオリンであると言われていたストラディバリウスというバイオリンが欲しかったのですね。ロンドンの郊外にいる老人がバイオリンを所有しているという情報を得ました。そのバイオリニストが、バイオリンを所有しているという老人に手紙を書きました。「私はバイオリン奏者であります。コンサートなどをいたします。ストラディバリウスというバイオリンを、ずっと探してきました。あなたの所有しているストラディバリウスを、私が買うことはできないでしょうか。その金額を教えて下さったら買いたいと思います」 1か月後に返事が返ってきまして、一言だけでした。「ノー、私のバイオリンは売り物ではない」と・・・。それだけでした。
しばらくして、バイオリニストが、リサイタルのために、ロンドンに行く機会がありました。リサイタルが終わり、時間が残っていたので、その老人の住所を尋ねてみることにしました。彼の家に着くと、太り気味の老人が出てきて、「何だ!」と言われました。「私は、こうこういうものです。あなたのバイオリンを買い求めたいという手紙を書いたことがあります」「私のバイオリンは売り物ではないと言ったではないか」「わかります、わかります。でも今回ロンドンに来る機会がありまして、そのついでに、足を伸ばして、あなたのバイオリンを見せていただきたいと思ったのですけれども、それはできますでしょうか」と尋ねました。






生ける神の印  デビット・カン講演28

2012年07月13日 | 日記


   ひまわりさんより(7月13日)

今日の日課の言葉は、本当に考えさせられるものでした。
「しばしば、なぜ教会にもっと力がないのか、なぜもっと生きた信心がないのかという問いがなされてきた。
その理由は神のみ言葉のご要求に、真実と真理において応じていないからである。
神が最高に愛されておらず、また私たちの隣人がわたしたち自身のように愛されていない。
これら二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている。これら二つの神のご要求にはっきりと従おう。
そうすれば教会の中に不一致はなく、家族の中に不協和音はない。多くの人にとって、働きがあまりに表面的である。
恵みの内なる働きが外面的な形式に取って変わられている。
…真理の理論は頭を改心させたが、魂の宮はその偶像から清められてこなかった」
私は、教会では女副執事長という立場にありましたが、教会では主に、受付とか、昼食の準備などを行っていました。
そういうことをやっていると、何か神様のために奉仕をしているような気持ちになってしまうのですが、
本当に人の魂の救いのためのかかわりは持ってこなかったのです。
何かおかしいと思いながら、表面的な働きで満足してしまいかけていました。
私たちにとって一番大切なことは、真理の理論だけでなく、魂が真の改心をするかどうかということでした。
神の宮がその偶像から清められることを、真に求めていきたいと思いました。

    救いの条件(デビット・カン講演28)

シナイ山で、モーセが、神様に(イエス様だったのですけれど)お会いした時、
神の栄光を彼の顔が反映するようになりました。
民は、「あなたの顔をまともに見ていられないので、ちょっと何かかぶり物をしてください」と言いましたね。
週ごとに安息日を守る経験というのは、イエス様がおいでになった後に、
永遠に神様のうちに休むということを予表しています。
『大争闘』下巻418ページをお読みします。「彼らは第4条の安息日が生ける神の印であることを知るが、しかしもう遅い」。
ノアの時代にも、神様を信じている人は大勢いました。
しかし、神様を信じていても、箱舟に入らなかったら、 神様によって刑罰を受けたのです。
救いには、条件があります。何でしょう。完全に屈服するということです。
完全に屈服するとはどういうことでしょう。神の戒めを守るという事です。
どんな困難、不都合があっても、どんなことがあっても、神様の戒めに従うという事です。