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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

生ける神の印  デビット・カン講演27

2012年07月12日 | 日記



    ひまわりさんより(7月12日)

私は、ビンやプラスチックの資源利用のために、醤油やドレッシング、
ジャムなどのビンやプラスチックについているラベルをはがしてから資源回収に出すようにしています。
ところが、毎回困るのは、ラベルがきれいにはがせないことです。
こすっても削ってもきれいにとれず、ある時は、シールはがしでやってみましたが、
シールはがしでは、切手やシールはよくはがれるのですが、プラスチックのラベルははがせませんでした。
今日、専門店へ行って聞いたら、ちゃんとプラスチック用のシールはがしがあるのです。
それを買ってやってみたら、きれいに全部はがすことができて、とても感激しました。
それを見て私は、神様の救いも、正しい方法を知らないと、中途半端で自己満足的な信仰になってしまい、
心の改変とか、真の悔い改めまで行かないのではないかと思いました。

   イエス様を反映する(デビット・カン講演27)

この世界は、ものすごい、恐るべき悩みに突き落とされることでしょう。
特に、食べ物を買ったり売ったりすることが大変困難になってくるのです。
これは私たちの脳ですね。ここに額があります。ここに品性をつかさどる部分があるわけです。
『初代文集』93ページですけども、最後の部分だけお読みします。
「悩みの時の開始にあたって我々が出ていって、徹底的に安息日を述べ伝えた時、我々は聖霊に満たされた」。
 後の雨を受けたあと、私たちは出て行って、安息日をもっと徹底的に述べ伝えるわけです。
次に、『初代文集』149ページですけれど、「生ける神の印を受け、悩みの時に保護される人々は、
イエスの形を完全に反映していなければならない」。
安息日を、きよく完全に守るということは、イエス様の形、品性を完全に反映することなんです。
同じことを言っています。
神様のうちに安んじるということは、神様の創造の力にみずからをゆだねて、安じるということです。
そして、世から休むということは、罪から休むということ、自我から休むということ、
人間に頼るということから休む、ということです。その時、完全に神のうちに安んじることができるということです。
その時、私たちの品性は、イエス様の品性に似たものとなります。





生ける神の印  デビット・カン講演26

2012年07月11日 | 日記



  ひまわりさんより(7月11日) 
今日は、自宅で祈祷会を持ちました。ちょうど早く学校から帰ってきた二男と一緒に、聖歌を3曲歌い、
エレン・ホワイト著『各時代の大争闘』下巻の202ページから209ページまでを輪読しました。
この本の中に、「神の律法が、その正当な位置に回復されて初めて、神の民と称する人々の間に、
初代の信仰と敬虔のリバイバルが起こり得るのである」(209p)とありました。
「神の律法がその正当な位置に回復されて」という時に、それはどういう意味かを考えました。
そして、これは、「神の律法が私たちの心に書き記されたとき」という結論になりました。
私たちの心が神の宮になり、その至聖所に神の十戒が置かれたとき、
本当のリバイバルが起きるのだと思います。
逆に言うと、神の律法が心に書き記されないで起きるリバイバルは、単なる感情の興奮、
別の霊の働きによるものと言えるのではないかと思います。


  悩みのときの備え(デビット・カン講演26)
 
セブンスデー・アドベンチスト教会は、長年にわたって「田舎に住みなさい」という、
ホワイト夫人の勧告を無視してきました。軽視してきました。
そういう人たちは、獣の刻印を受けることでしょう。
恐ろしい悩みに突き落とされ、ひどい問題を抱えることになるでしょう。
そしてその時には、歯噛みをして、悔やしがるでしょう。でもその時では手遅れなのです。
一つの問題があります。セブンスデー・アドベンチストの人たちが田舎に住んでいたとしても、
自分で作物を育てることができないんですね。気候が合わないとか、土地が足りないとか、
そういう事情もあるかもしれません。そういう事情のある人にはどうしたらいいのか、私は教えています。
今は話せませんので、興味がある人は、休み時間にでも私のもとにきてください。
そういう、悩みの時がきたときに、どのようにしたらよいかという知恵を、教えたいと思います。食物を、
どのように備えたらよいのか、という事に関してお話しします。




生ける神の印  デビット・カン講演25

2012年07月10日 | 日記




    ひまわりさんより(7月10日)

今日の日課の中に、「私たちは神の光を担う者、天の安定した光線を他の人々に反映する者でなければならない」
とありました。私は、天の光線を他の人々にどうやって反映させたらいいのだろう、と思いました。
すると、その少し先に、答えがありました。「自分で神のみ言葉からの聖なる光源の光線を集めないかぎり、
光を注ぐことはできない」
光を輝かすとは、このようなことなのだということがわかり、感謝しました。
そして、もっともっと聖書を学ばなくてはいけないと思いました。


    安息日は生ける神の印(デビット・カン講演25)

神様の戒めを守るということは、思いのうちで経験することなのです。
安息日を清く守るということは、心の中で神様のすべての戒めに従っているということを外に出したものなのです。
表に現れたものなのです。ですから、最終時代に安息日を守ることは、生ける神の印だと言われているのです。
サタンはそれを、ことごとく憎みます。その結果サタンは、日曜休業令を持ってくるわけですね。
この世界の経済は、間もなく破綻します。間もなく、食べ物を買うことが困難になってきます。
悩みの時になると、この世界は恐ろしいほどの災害、災難を経験しなくてはならなくなります。
獣の刻印の命じることは何でしょう。獣の刻印を受けなくては、売り買いができなくなります。
自分たちが、畑で最低限の食べ物を得られることができるようになっていなければなりません。
セブンスデー・アドベンチスト教会は、長年にわたって「田舎に住みなさい」というホワイト夫人の勧告を無視してきました。
軽視してきました。そういう人たちは、獣の刻印を受けることでしょう。
恐ろしい悩みに突き落とされ、ひどい問題を抱えることになるでしょう。
そしてその時には、歯噛みをして、悔やしがるでしょう。でもその時では手遅れなのです




生ける神の印  デビット・カン講演24

2012年07月09日 | 日記



   ひまわりさんより(7月9日)

引越しの疲れなのか、ここ1週間何か、気が入らないというか、フワフワした感じで、
雲の上を歩いているような、今までにない感覚で過ごしていました。
「よし、やるぞ」という気力起きないのです。よく、私ぐらいの年代の人が、
「根気が続かないのよね」と言っていたのを思い出しました。本当に私も根気が入らなくて、
昨日の草取りも、以前だったら、やれるところまでどんどんやっていたのに、
あるところまで来たら、もうこれ以上はできないと思って、やめてしまいました。
たまたま昨夜、引越しでしばらく飲んでいなかった、ぶどうジュースを作って飲みました。
そうすると、今日は、俄然気が入ってきたのです。私が飲んでいるぶどうは、
アメリカン・レッド・グローブという種類のもので、あまり一般のお店には出ていないものです。
どうも、調子が良くなったのはこのせいではないかと思います。
イエス様は、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われました。
イエス様が、たとえで使われるぐらいですから、ぶどうは体にいいのではないかと思ったりしています。

   この世に心を置かない(デビット・カン講演24)

高級住宅街の通りを通ってみると、日本でもありますか、お金持ちだけが住んでいるような区域。
東京にありますかね。大きな高級住宅が並び建っている場所、アメリカに行くとそういう地域があって、
お城のような建物が並んでいます。15億円ぐらいの家も見たことがあります。巨大な家です。
お城のような・・・。そんな場所を通っても、うらやましいと全然思いません。なぜでしょうか。
そういった素晴らしい立派な建物を見るとき、私はこのように考えます。
「ああ、あの家が燃えるときはものすごい光景だろうな。派手に燃えるんだろうなー」と思うわけです。
あのぐらいの家が燃えるのは、ちょっと時間がかかるだろうな-。
全く、そんな家をむさぼる、欲しがるような気持ちにはなりません。
なぜなら、私の心は世の中にはないからです。いい家とか、立派な家とか車とか、全然うらやましいと思いません。
何年か前に娘に言われたことがあるんです。
「お父さん、私たち、本物の家に住んだことがないね」。「なに言ってるんだ。これは立派な家じゃないか」。
「これは本当の家ではないわよ。トレーラーみたいなものよ」と言われました。
その時にあらためて思ったわけですね、まあ自分は1度も、本物の家らしい家を所有したことがないなあと。
そんなことは、どうでもいいことです。いい家に住みたい、などという思いは全くありません。





生ける神の印  デビット・カン講演23

2012年07月08日 | 日記



   ひまわりさんより(7月8日)

今日は、朝から新しい家の外回りの掃除に追われました。私は裏庭の草取り。
夫は、職場の人から借りたジェット洗浄機で、駐車場や壁の汚れ落としをしました。
洗浄機で洗うと、今までの苔と泥の混じった駐車場が真っ白になっていきました。
私も少しやってみましたが、きれいにするのが楽しくて、あそこも、ここもと、どんどんやりたくなってしまいました。
その時、汚れを落とすのがこんなに楽しいのなら、本当は、自分の罪や欠点を正すのは、もっと楽しいことなのではないかと思いました。
今までは、罪を正すなんていやなことだと思っていたのですが、本当は、罪を正すことの方がよほど楽しいことに違いないと、
少しだけ思えるようになりました。

 戒めはまず心で守る(デビット・カン講演23)

では、安息日を清く守るというのは、どういう意味なのでしょうか。
それは、安息日を守る人が、十の戒め全部を守っているということを表しています。
誰かを殺していながら、安息日を清く守ることはできませんね。
姦淫を犯していながら、安息日を清く守ることなんかできません。
思いにおいて一瞬姦淫の思いが起きたとしても、もし信仰によって安息日を清く守るならば、
それが神様の律法すべてに従っているというしるしになるわけです。
サインなのです。多くのセブンスデー・アドベンチストが、
この安息日を守るということがどういうことなのかわからないでいます。
十戒の第10条は何でしょうか。最後の戒め、「むさぼってはならない」という戒めですね。
その振る舞いにおいてこの戒めに従おうとします。どうやってこの戒めを守りますか。
「むさぼらない」とは、どうやって守るのでしょうか。心で守るのですよね。
なぜこの「むさぼるな」という戒めを、最後に持ってきたのでしょうか。
それは本来、神様の戒めは、まず心で守るものだということを教えるためでした。
心の体験なのです。