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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 33

2013年06月23日 | 日記

 

     33

 酬恩祭をささげた人は、自らいけにえの一部を食べ、残りは一緒に来た家族の者たちに分けた。さらに残った部分は翌日に食べてもよかったが、三日目以後に食べることは許されなかった。この儀式は、死後三日目によみがえられた、キリストの復活を指し示していた。家族全員で、自分たちのために死なれるメシヤ、すなわちイエス・キリストの肉を、象徴的に食べた。それは、彼らもキリストの犠牲にあずかるべきであることを、思い起こさせるものであった。酬恩祭は、自分たちが神から再び受け入れられた理由を理解させてくれた。

 酬恩祭において、供え物の一部は祭司にあてがわれた。この祭式の場合だけ、三つの部分が儀式をつかさどった祭司に与えられた。胸部と右肩部と両頬である(レビ記7:28-32;民数記18:18参照)。これら三つの部位は、何を表していたのだろう?まず、胸部を祭司に差し出すことによって、罪人は、自分が悔い改めて神に立ちかえったとき、神がその人をご自分のふところに飛び込ませるために両腕を広げておられることを学んだ。いつでも私たちは、キリストの胸のうちにとどまっているべきである。「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに子羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ4011)。

 最後の晩餐の間、弟子のヨハネは、イエスの左側にすわり、自分の頭をイエスの胸によりかからせていた。弟子たちのうちの一人がご自分を裏切るだろうとイエスが明言なさったとき、「その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、『主よ、だれのことですか』とたずね」た(ヨハネ13:25)。質問をしたとき、彼は至近距離で、キリストのギラリと光る鋭い視線と目を合わせた。良心が潔白でなければ、誰がその視線に耐えられるだろうか? このような体勢で、なおも本音を隠して話すことのできる人がいるだろうか? 同様に、キリストの胸のうちにとどまるには、きれいな心を持たなくてはならない。


福音の道しるべ 32

2013年06月22日 | 日記

 

    福音の道しるべ 32

B.酬恩祭

もし彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全きものを主の前にささげなければならない。彼はその供え物の頭に手を置き、会見の幕屋の入口で、これをほふらなければならない。そしてアロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。彼はまたその酬恩祭の犠牲のうちから火祭を主にささげなければならない。すなわち内臓をおおう脂肪と、内臓の上のすべての脂肪、二つの腎臓とその上の腰のあたりにある脂肪、ならびに腎臓と共にとられる肝臓の上の小葉である。そしてアロンの子たちは祭壇の上で、火の上のたきぎの上に置いた燔祭の上で、これを焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである(レビ記3:1-5)。

 

 レビ記に見いだされる、外庭でささげられた次の犠牲が、酬恩祭である。酬恩祭は、私たちがいかに神と和睦するかを示すものである。残りの聖所の儀式は、私たちがどのようにして神に立ちかえり、神がどのように私たちを元の状態に回復なさるかを説明している。私たちの仕える神は、なんと愛と恵みに富んでおられることか!

 酬恩祭は、神への個人的な誓約としてささげられた。燔祭とは異なり、その儀式に関わる全員が、聖餐式のように、いけにえの肉を食べた。燔祭では、いけにえの全体が祭壇に置かれ、主の前で焼かれた。一方、酬恩祭では、いけにえの一部だけが神に供えられ、祭壇で焼かれたのであった。いけにえの大部分は動物を連れてきた人に返され、胸部と右肩、両方の頬は祭司に与えられた(レビ記7章、申命記18章)。神にささげられるべき部分、すなわち脂肪と腎臓は、祭壇で焼かれた。聖所の儀式において、動物の脂肪は罪を表していた。「しかし、悪しき者は滅び、主の敵は子羊の脂肪のように消滅し、煙のように消えうせる」(詩篇3720―欽定訳)。


福音の道しるべ 31

2013年06月21日 | 日記

              

    31

アブラハムに要求された犠牲は、彼自身のためとその後の子孫のためばかりではなく、天と他の諸世界の罪のない者たちの教訓のためでもあった。キリストとサタンとの争闘の場、すなわち、贖罪の計画が行われるところは、宇宙の教科書である。アブラハムが神の約束に対する信仰の欠如をあらわしたために、サタンは、天使たちと神の前で彼を非難し、契約の条件を破ったので、祝福に値しないと言った。神は全天の前で、神のしもべの忠誠を試み、完全に服従すること以外は何物も受け入れられないことを実証して、彼らの前に救いの計画をさらに明らかに示そうとされた。

 天の住民たちは、アブラハムの信仰とイサクの服従が試みられた光景の目撃者であった。試練は、アダムに臨んだものよりははるかにきびしいものであった。アダムに課せられた禁令に従うことには苦痛はなかった。しかし、アブラハムに与えられた命令は、最も苦しい犠牲を要求した。全天は驚嘆と称賛をもって、アブラハムの断固とした服従を見守った。全天は彼の忠誠に賛嘆の声をあげた。サタンの非難は、偽りであることが示された。神はアブラハムに言われた。「あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを、〔サタンの非難にもかかわらず〕わたしは今知った」。他の諸世界の住民の前で、誓いをもってアブラハムに約束された神の契約は、服従が報われることを証明した。

 ・・・アブラハムに、その子をささげよという命令が与えられたときに、全天の関心がそれに注がれた。彼らは、緊張して、この命令が実行される段階を見守った。「燔祭の子羊はどこにありますか」とイサクがたずねたとき、アブラハムは、「神みずから燔祭の子羊を備えてくださるであろう」と答えた。父が今にもむすこを殺そうとしたとき、彼の手がとめられて、神が備えられた雄羊がイサクに代わってささげられたときに、贖罪の神秘が明らかに照らし出されて、人類のための神の驚くべき準備が、天使たちにさえ明瞭に理解されたのである。


福音の道しるべ 30

2013年06月20日 | 日記

              

     30

  アブラハムは、息子を殺すふりをしたわけではない。信仰の手によって、もう少しで息子の体に刃物を突き刺すところであった。が、ちょうどその時、彼は神の声を聞いた。「アブラハムよ、アブラハムよ、・・・わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを、わたしは今知った」(創世記221112)。

父と息子が涙を流して抱き合っていると、羊の鳴き声が聞こえてきた。見回すと、角をやぶに掛けている雄羊がいた。親子はその雄羊を引いてきて、喜びのうちにそれを燔祭としてささげた。聖書によると、後にこの地点そのものが、聖所の祭壇の位置となった。「ソロモンは、エルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた」(歴代志下3:1)。アブラハムの経験は、真の自己犠牲と信仰をさし示している。

 神が、アブラハムにその子を殺すように命じられたのは、アブラハムの信仰をためすとともに、彼の心に福音を現実的に強く印象づけるためでもあった。あの恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の贖罪のために払われた無限の神の大犠牲を、アブラハムが自分の体験によって学ぶために神が許されたのである。自分のむすこをささげることほど、アブラハムの心を苦しめた試練はなかった。

神は、苦悩と屈辱の死に、み子を渡された。神のみ子の屈辱と魂の苦悩を見た天使たちに、イサクの時のようには、介入することが許されなかった。「もうそれでよい」という声は聞かれなかった。堕落した人類を救うために、栄光の王はご自分の生命をおささげになった。神の無限のあわれみと愛の証拠として、これ以上の強力なものがあるだろうか。・・・


福音の道しるべ 29

2013年06月19日 | 日記

     

   29

出発の朝、妻のサラを起こさずにモリアへと旅立ったアブラハムの心情はどのようなものであったろう。父親である読者ならば、息子と共にモリア山へ向かったアブラハムの苦悩を察することができるかもしれない。イサクが尋ねた。「父よ、火とたきぎとはありますが、燔祭の子羊はどこにありますか?」アブラハムの答えは、信仰とはどのようなものかを例証している。「子よ、神みずから燔祭の子羊を備えてくださるであろう」。信仰は、「なぜ、どうして?」と問わない。信仰は、すべてを失う危険にあっても、神のお言葉に対して「はい」と答える。

ついに、モリア山の頂上にて、アブラハムは息子の手を取り、彼を燔祭としてささげるよう神から命じられたことを告げる。神に絶対的に従う父親を見て育ったイサクは、父親の生きざまを通して、神とはどのようなお方かを学んでいた。イサクは、震える父親を手伝って自らを縛り、祭壇の上に横たわった。イサクは、いかに自分自身を燔祭としてささげるべきかの、際立った模範となっている。神は私たちに、ここまで極端なものを求めることはないと、ある人たちは考えるかもしれない。しかし読者諸君、聖書の要求は、決してこれ以下ではない。「兄弟たちよ、そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12:1)。