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酬恩祭をささげた人は、自らいけにえの一部を食べ、残りは一緒に来た家族の者たちに分けた。さらに残った部分は翌日に食べてもよかったが、三日目以後に食べることは許されなかった。この儀式は、死後三日目によみがえられた、キリストの復活を指し示していた。家族全員で、自分たちのために死なれるメシヤ、すなわちイエス・キリストの肉を、象徴的に食べた。それは、彼らもキリストの犠牲にあずかるべきであることを、思い起こさせるものであった。酬恩祭は、自分たちが神から再び受け入れられた理由を理解させてくれた。
酬恩祭において、供え物の一部は祭司にあてがわれた。この祭式の場合だけ、三つの部分が儀式をつかさどった祭司に与えられた。胸部と右肩部と両頬である(レビ記7:28-32;民数記18:18参照)。これら三つの部位は、何を表していたのだろう?まず、胸部を祭司に差し出すことによって、罪人は、自分が悔い改めて神に立ちかえったとき、神がその人をご自分のふところに飛び込ませるために両腕を広げておられることを学んだ。いつでも私たちは、キリストの胸のうちにとどまっているべきである。「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに子羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ40:11)。
最後の晩餐の間、弟子のヨハネは、イエスの左側にすわり、自分の頭をイエスの胸によりかからせていた。弟子たちのうちの一人がご自分を裏切るだろうとイエスが明言なさったとき、「その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、『主よ、だれのことですか』とたずね」た(ヨハネ13:25)。質問をしたとき、彼は至近距離で、キリストのギラリと光る鋭い視線と目を合わせた。良心が潔白でなければ、誰がその視線に耐えられるだろうか? このような体勢で、なおも本音を隠して話すことのできる人がいるだろうか? 同様に、キリストの胸のうちにとどまるには、きれいな心を持たなくてはならない。