福音の道しるべ 28
神のご命令を聞いたアブラハムは、どんなに驚き悩んだことだろう。しかし、それでも彼は神を愛していた。神との親密な交わりを通して、彼は自らの不信と誤りを悔い改め、神に全く信頼しようと決心した。神のご命令がどれほど厳格、または理不尽に思われようと、彼は神に信頼を置く決意があり、完全に従う用意があった。神は、イサクから大いなる国家を興すと言っておられたのに、その子をいけにえとしてささげよとの命令は、きわめて不可解なものであった。愛する息子、すなわちこの世で最愛の人を殺さねばならないことを思うと、胸が張り裂けそうであった。しかも、殺した後で、わが子の遺体を切り開いて内臓を取り出し、それらを焼くこと以上につらい状況が果たしてあるだろうか? 戒めの中で「殺してはならない」と言われた神が、息子を殺すように命じられるとは! しかし、それでもアブラハムは神を知っていた。神には明確な理由と目的があると信じた。彼は神に信頼し、不可能な状況から息子をお創りになった神は、同じ息子を死からよみがえらせることができるという信仰を抱いた。
アブラハムの信仰は行いを通して立証されていると、ヤコブは述べている(ヤコブ2:22)。それは、何ものをも捧げることを惜しまない信仰、自己を犠牲にして従う信仰であった。もしも、愛によって働く〔行う〕、このような信仰を持つならば、私たちはアブラハムの子孫となり、その信仰は、私たちを罪の征服者以上の者としてくれることだろう。このような信仰を体得した人たちは、キリストに従う者、神のイスラエル、すなわち神の教会と呼ばれるのである。