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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 28

2013年06月18日 | 日記

      

    福音の道しるべ 28

 神のご命令を聞いたアブラハムは、どんなに驚き悩んだことだろう。しかし、それでも彼は神を愛していた。神との親密な交わりを通して、彼は自らの不信と誤りを悔い改め、神に全く信頼しようと決心した。神のご命令がどれほど厳格、または理不尽に思われようと、彼は神に信頼を置く決意があり、完全に従う用意があった。神は、イサクから大いなる国家を興すと言っておられたのに、その子をいけにえとしてささげよとの命令は、きわめて不可解なものであった。愛する息子、すなわちこの世で最愛の人を殺さねばならないことを思うと、胸が張り裂けそうであった。しかも、殺した後で、わが子の遺体を切り開いて内臓を取り出し、それらを焼くこと以上につらい状況が果たしてあるだろうか? 戒めの中で「殺してはならない」と言われた神が、息子を殺すように命じられるとは! しかし、それでもアブラハムは神を知っていた。神には明確な理由と目的があると信じた。彼は神に信頼し、不可能な状況から息子をお創りになった神は、同じ息子を死からよみがえらせることができるという信仰を抱いた。

 アブラハムの信仰は行いを通して立証されていると、ヤコブは述べている(ヤコブ2:22)。それは、何ものをも捧げることを惜しまない信仰、自己を犠牲にして従う信仰であった。もしも、愛によって働く〔行う〕、このような信仰を持つならば、私たちはアブラハムの子孫となり、その信仰は、私たちを罪の征服者以上の者としてくれることだろう。このような信仰を体得した人たちは、キリストに従う者、神のイスラエル、すなわち神の教会と呼ばれるのである。


福音の道しるべ 27

2013年06月17日 | 日記

      

     27

 燔祭についての研究をしめくくるにあたり、モリア山におけるアブラハムとイサクの経験に目を向けよう。「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた。『アブラハムよ』。彼は言った、『ここにおります』。神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリアの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』」(創世記2212

神は本当に、ひとり息子のイサクを燔祭としてささげるようアブラハムに命じられたのだろうか?この出来事を記したモーセは、書き誤ったのだろうか?これまで学んできたように、燔祭をささげるときには、いけにえの腹部を切り開いてすべての内臓を取り除き、臓器を水で洗い、頭部と足を切り離し、すべての部位を祭壇の上において焼くことが求められた。誰かに向かって、その人の息子をいけにえとしてささげるように求めるとは、何とむごたらしいことではないか。

アブラハムは燔祭のささげ方を正確には分かっていなかったのだと、ある人は主張するかもしれない。しかしながら、創世記15章において、神の命を受けたアブラハムは、雄牛とヤギと雄羊とハト〔燔祭に用いられた生き物〕を連れてきて、腹部を切り開き、一つひとつの部位を地面に置いた。神はご自身の栄光の光をもって燔祭のいけにえの間を通り過ぎ、これらの動物を焼かれたのであった。こうして神は、アブラハムのいけにえをお受けになり、彼と契約を交わされた。アブラハムは、間違いなく燔祭の重要性を理解していたと言える。

 


福音の道しるべ 26

2013年06月16日 | 日記

  

  福音の道しるべ 26

マタイによる福音書25章にでてくる、思慮の浅い女たちによって代表されている種類の人々は、偽善者ではない。彼らは、真理に関心をもち、真理を擁護し、真理を信じる人々にひきつけられてはいるが、聖霊の働きに自分自身をゆだねていないのである。彼らは、岩なるキリスト・イエスの上に落ちて、彼らの古い性質がくだかれていない。この種の人々はまた、石地の聴衆とも言われている。彼らは喜んでみことばを受け入れるが、その原則をかみしめて自分のものとはしないのである。その感化が永続しない。聖霊は、人が心の中に新しい性質の植えつけられるのを望んで、同意するのに応じて、人の心にお働きになるのである。ところが、思慮の浅い女によって代表されている人々は、表面的な働きに満足している。彼らは、神を知らない。彼らは、神の品性を学んでいない。神と交わっていない。であるから、彼らはいかに神に信頼し、ながめ、生きるべきかを知らないのである。


福音の道しるべ 25

2013年06月15日 | 日記

       

  福音の道しるべ  25   庭に咲いていたトケイソウ

 私たちが自らをまったく神に明け渡し、罪を悔い改めて捨て去るとき、義認と聖化の両方を経験することになる。最近の神学は、私たちが真理を認めるか、あるいはイエスを信じるだけで義と認められると教える。つまり、私たちの罪は覆われるが、全的には聖化され〔清められ〕ないということである。これを説く人たちは、聖化とは、私たちの個々の罪が処理される間の長い過程のことであると言うのである。しかし、そうではない。罪の問題は義認の経験の間に解決され、この清められた状態は、神の恵みと聖霊の助けによって維持される。このように私たちは、この経験によって義と認められるのと同様に、清められるのである。

もちろん、人はそれでも間違ったり倒れたりするが、常に赦しと助けが提供されている。罪人が悔い改めるとき、神はその人を赦し、新しい心を与えて下さる。神は人の内面を義となさるので、その人を義人と呼ぶことがおできになるのである。再び義と認められた人は、同時に清められる。神は、不義な者を義人と呼ぶことはおできにならない。それは、嘘になるからである。ところが新神学は、そのあり得ないことが起こると主張する。それはちょうど、汚物の上にきれいな布をかけて、「これできれいになりました」と言っているようなものである。しかし私たちが、聖所について研究すればするほど、義認と聖化の経験に関する正しい理解が深められるのである。多くの人は、信仰による義について誤った観念をいだいている。偽りの教理をどれほどまじめに信じても、それが真理でない限り、私たちを救うことは決してできない。多くの人が、誤りを本気で信じ、自分たちは救いに至る道を歩んでいると確信している。これは恐るべき状態である。


福音の道しるべ 24

2013年06月14日 | 日記

    

   福音の道しるべ 24

それから、動物の皮がはがされた。その行為は、自我の化けの皮をはがし、キリストの義の衣を着て、もうひとたび彼と共に生きるという誓いを象徴する。次に、動物の体が上から下まで切断され、内臓がすべて取り出されて水で洗われた。これは、私たちの生涯を全面的に神に献身させることを象徴する。例えば、喫煙の習慣は肺臓に有害な影響を及ぼすが、神のために、喫煙という一つの側面を正す決心をすることで、清めの道が開かれることになり、実際に肺もきれいになっていく。神のために、不節制な食事を改めることで、これまで痛めつけられた胃腸も回復することだろう。一つひとつの臓器が水で洗われ、こうして燔祭は、象徴的に徹底的な服従の道を罪人にさし示すのである。聖書の中で、水は聖霊と神の言葉を表す。聖書によると、私たちは水と御霊によって生まれ変わらねばならない。この行為は、私たちが真理のみことばと聖霊の感化を通して罪から清められ、自由になれることを象徴した。それから、新しい心をいただくのである。

 いけにえとなった動物の頭と二本の足は、切り離された。頭を切断するという行為は、これまでの罪に凝り固まった思考[思想]や動機を根絶させ、神へと向けさせることを表す。二本の足は、他者から見た私たちの生活を象徴する。人目に付く悪習も、断ち切らねばならない。

 それから、すべての部位が祭壇の上に置かれて焼かれた。そのときに発せられるにおいは、主への香ばしい風味となると、聖書は記している。神が焼ける肉のにおいを好まれるからではなく、それが罪人の、神への全的服従と罪の放棄を象徴したからである。罪人が神に立ちかえることほど、神を喜ばせるものは他にない。