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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 23

2013年06月13日 | 日記

      

     福音の道しるべ 23

 燔祭は自己犠牲と神への献身を象徴するので、それは罪の赦しのためにささげられる犠牲〔いけにえ〕を表す。燔祭をささげるとき、罪人は、神が求められる悔い改めと服従とはどのようなものであるかについて理解した。燔祭をささげるとき、罪人は汚れのないいけにえを連れてきて、そのいけにえの頭に手を置いてすべての罪を告白し、それからその動物を自らの手で殺さねばならなかった。自らの罪の結果をはっきりと目の当たりにすることにより、罪なき神の小羊の死を、体験的に理解することができたのである。

 いけにえの子羊の血は、燔祭の祭壇の四隅に降りかけられた。そうすることで、キリストの血には、世界の隅々にまで及んでいる罪を清める力があることを思い起させた。さらに主の血は、私たちを贖うだけでなく、地球そのものを罪の呪いから救い出すのである。ローマ人への手紙8章の19節から21節には、被造物全体が、神のご品性を有する神の子らの出現を待ちわびているとある。つまり、人が罪を犯したために呪われた、地球そのものを含む被造物全体が、創造当初の状態に回復されるのを待っているということである。


福音の道しるべ 22

2013年06月12日 | 日記

      

     A.燔祭

 燔祭は、真心をこめた自己犠牲と、神への献身を表していた。燔祭は、レビ記1章に言及されている最初のささげ物である。このささげ物は、一日に二度、すなわち朝と夕に一回ずつ行うよう、神はお命じになった。同様に神は、私たちが全的に献身した生涯を送るように望んでおられ、燔祭は私たちに、思考と言葉と行為、さらに心の奥底の隠れた動機も純粋でなければならないことを教えている。また燔祭は、義認と聖化は同時に起こるものであり、聖化の経験は継続的なものでなければならないことをも示している。

 

もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。祭司アロンの子たちは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを並べ、アロンの子なる祭司たちはその切り分けたものを、頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。その内臓と足とは水で洗わなければならない。こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである(レビ記1:3-9)。


福音の道しるべ 21

2013年06月11日 | 日記

    

    福音の道しるべ 21           ユリ

子羊に手を置いて罪を告白し、そのいけにえを殺したら、罪人は赦されるのだろうか? この時点で、彼は平安な気持ちで家に帰れるのだろうか?

 祭司は子羊の血をたずさえて聖所に入り、それを幕の前にふりかけ、それから罪の贖いのために、とりなしの祈りをささげなければならない。「こうして、祭司が彼のためにその罪のあがないをするならば、彼はゆるされるであろう」(レビ記4:26;さらにレビ記4:35;5:1016;6:7も参照)。つまり贖いは、外庭で子羊を殺すことによって象徴されているところの、十字架では完結しなかったのである。贖いは十字架で始まったが、そこですべてが終わったわけではない。

 キリストが復活と昇天の後に始められたとりなしの働きは、十字架上の彼の死と同様に重要なものである。しかしこれも、贖いの働きの一局面にすぎない。このことについては後ほど詳しく学ぶことにする。

 祭司は、厳粛な責任を担っていた。もし彼が、どのように神に近づき、どのように罪の赦しを受け、どのように純潔を回復するかを正しく教えていなかったとしたら、罪人は赦されてもいないのに、赦されたと思い込んで家に帰ることになる。ここに、罪の問題の誤った解決法を教える、最近の神学の危険が潜んでいる。偽りの教えは致命的であり、魂の損失を伴うのである。


福音の道しるべ 20

2013年06月10日 | 日記

      

      福音の道しるべ 20           ユリ

 当時、布を紫に染めるためには、地中海でとられたカキを乾燥させたものを用いた。衣服を染めるために、数えきれないほどのカキが使われたので、染料は非常に高価であった。紫の衣服は、もっぱら王族、特権階級の人たちに限られていた。こういう訳で、紫は王家、王族を表す色となった。青と赤を混ぜ合わせて紫ができるように、服従の生涯がイエス・キリストの犠牲の血と混ぜ合わされて、私たちは天の王子、王女となるのである。

 また、幕を織るときの基本素材は、繊細により合わせられた亜麻の白糸を他の色の糸に織り合わせたものである。亜麻の白糸は、複雑な事情を抱えながらも純粋さを保たれた、イエス・キリストの義の生涯を表している。

 罪人と彼が連れてきた子羊を迎えるのは、いけにえ担当の祭司であるが、彼はまず罪人を促して、子羊に傷などの汚点がないかを調べさせる。これは、今日の牧師たちがしなければならない働きである。彼らは、悔い改めが真心からのものであるかどうかを調査しなければならない。子羊に汚点がないことを祭司が確かめた後、彼は罪人に、子羊の頭に手を置いてすべての罪を告白するように促す。この儀式を通して、祭司は罪人に、神が罪を赦して下さることを教えるだけでなく、罪を赦すためには、罪のない救い主が彼の代わりに罪を負って死ななければならないことも教える。神は罪をお赦しになるが、この赦しは代償を伴うものであり、それがカルバリーであった。罪のないお方が罪の価を支払われたために、赦しが可能なのである。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(Ⅱコリント5:21)。十字架は神の律法を廃止〔無効に〕しない。もしそうであったなら、神は単に、罪を見逃すことがおできになったはずである。律法は決して廃止されないことの最も強力な証拠は、律法の要求を満たすために、神がご自分の子を死に渡されたことである。


福音の道しるべ 18

2013年06月09日 | 日記

   

  福音の道しるべ 19 

聖所の入口にやってきた罪人は、紫や青や緋色といった美しい色彩と、白い亜麻糸で織られた、幅の広い、幕のような扉に当面する(出エジプト38:18)。こういった物にはどのような意味があるのかと考えていると、近くにいた一人の祭司が近づいてきて、「これらの色は、将来おいでになるメシア〔救世主〕の特徴を表しているのだ」と説明してくれる。  聖書の中で、青は常に服従をあらわす(民数記15:38-40参照)。それゆえに、神はイスラエル人らに、主の律法を思い出して従うようになるために、衣服のすその四隅を青く縁どりするよう命じられたのであった。この青色は、神の戒めを完璧に守られたイエス・キリストの生涯をも表している(ヨハネ14:30-31)。

 赤は、贖いのための犠牲として流された、救い主の血を象徴する。また当時、この赤い染料は、「アカタテハ(scarlet admiral―チョウの一種)」と呼ばれる昆虫から採られたものであった。この虫を乾燥させ、それが染料の主な材料となった。イエスは罪人のためにこの地上に来られ、卑しい身分の人間として生活なさった。それは、昆虫の生涯になぞらえることができるかもしれない。その一生の終わりに、私たちを贖うためにご自身の血を流されたのであった。詩篇の中で、彼は次のように言われた。「しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる」(詩篇22:6)。