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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第20回

2016年03月26日 | 日記

自己中心的で生まれ変わっていない人間の本性は、こういった過ちを歓迎して聖書の確かな真理は拒みます。いわゆる正統派と主張するプロテスタント教会の中にも、アウグスティヌスと彼の誤りを発展させた偽りの教理が、正しい教えとして選ばれている現状です。今日、ある特定の教派に所属することは、ほとんど意味を失いつつあります。自分がどの教派に属するかではなく、個人的なイエス様との関係、神様の真理を正しく信じ、毎日それによって生きているかどうかを確かめながら生きる時代になりました。

 予定論と、「一度救われたら永遠に救われる」という教え、また十字架によって律法は廃されたので十戒はもはやクリスチャンが守るべき道徳律ではないと主張する道徳律廃棄論、そしてキリストを心から信じているクリスチャンであっても、決して罪に打ち勝つことは出来ないという教えこそ、教会を世俗的にまた無力なものにしている張本人なのです。

 いったい誰が、救いについての神様の真理を倒そうとするのでしょうか?最後の時には、真理の上に堅く立っているクリスチャンだけが生き残るようになるでしょう。救いについての真理は、これもあり、あれもありといった教えではありません。人間を救いに至らせる真理は、ただ一つであるということを覚えておいてください。「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる」(Ⅱコリント13:5).

9 結論

真の福音とは、自己を否定し自分の十字架を背負って、日々イエス様に従う力を与えることのできる福音です。この福音は、イエス様を深く愛する思いから、クリスチャンとしての生き方をするので、罪の勢力そのものから救われる聖書の福音です。偽物の福音は十字架の教理だけを受け入れ、実際、罪の力からは救われていないにもかかわらず、まるで救われたかのように勘違いさせる安っぽい福音です。読者の皆さんはどのような福音を信じておられるでしょうか。

             


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第20回

2016年03月25日 | 日記

過ちから過ちへ

 

この原罪説はもうひとつの疑問を引き起こします。「どうすれば原罪に対する罪責感から逃れることができるか」という問題です。この質問に対する教会の答えは「『洗礼』と呼ばれる儀式によって原罪の定罪から逃れることができる」でした。この教会の答弁に対して、もうひとつの質問が起きます。「洗礼を受けない者たちの運命はどうなるのか?」ということです。これに対しての答弁は「洗礼を受けてない人は、永遠に燃える地獄の火の海に落ちる」でした。考えてみてください。洗礼を受ける前に亡くなってしまった子どもたちの親にとって、教会の答弁は大変衝撃的なものだったに違いありません。中世は幼児の死亡率がたいへん高かった時代でした。自分たちの子供が、永遠の地獄の火の海で苦しんでいることを想像する〔純粋ではあっても無知な〕親たちの苦悩は耐え難いものであったに違いありません。

 そのために教会は、さらに親たちの苦悩を取り除く、説得力のある解決策を用意しなければなりませんでした。そこで「煉獄」と「リンボ(Limbo):辺獄」という奇想天外な概念が作られました。煉獄は天国でもなく地獄でもありません。それは天国と地獄の中間に位置するところで、リンボは天国ではありませんが、錬獄や地獄のように燃え続ける苦痛はないところです。教会はこの錬獄とリンボを信徒に提示することで、彼らの心を慰めようと努めたのでした。

しかし教会の提示するこの解決策では、子供を亡くした親のつらい心境を完全に慰めることは出来ませんでした。そこでとうとう「幼児洗礼」という儀式が作り出されました。出産の苦痛の中で母子ともに死に瀕している中、神父が赤ちゃんと母親に水をまきながら、二人とも天国に行くことができると宣言する幼児洗礼は、信徒の要求を完全に満足させるものでした。このようにして、一人の神学者の間違った思想が、さらなる過ちに発展し、しまいにはその過ちが教会の正式な教理として採択されるに至りました。

 トマス・アクィナスなどの神学者によって、アウグスティヌスの理論はしばらく足踏み状態でした。そして16世紀に宗教改革が起こり、改革者たちが教会の腐敗と過ちに対抗しましたが、千年におよぶ根深い過ちを根こそぎ取り除くには限界がありました。カトリック教会に対抗して、宗教改革運動が展開されましたが、アウグスティヌスの理論は、プロテスタント教会の内部にまで居座ってしまったのです。

 ルターが亡くなった後、彼の同僚で宗教改革者であるメランヒトンが、ルター派教会を予定論の過ちから脱出させましたが、長老教会を作ったジャン・カルヴァンや、ジョン・ノックスは予定論を受け入れました。その後、メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーによって予定論は否定されることになりました。しかし「一度救われれば永遠に救われる」という教えが非聖書的であると言明されたにもかかわらず、依然として現代のキリスト教の中に影響を及ぼしています。


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第19回

2016年03月24日 | 日記

二つ目のジレンマ

アウグスティヌスは、イエス様が人間とは全く違う完全な肉体を持ってこられたという奇想天外な理論を立てましたが、彼はまたもうひとつのジレンマに陥りました。アウグスティヌスの理論のせいで、キリストは人類からはるかに遠ざかってしまったのです。キリストの肉体を人間の肉体よりずっと高い地位に置くことで、キリストは人間が試練や誘惑を受けるときに体験する苦しみを通ったことがない方になってしまいました。なぜならアウグスティヌスの見方からすると、キリストは私たち人間が経験する試練と誘惑の生涯とは全く別の、罪を犯す可能性のないまま生きられたという結論に達してしまうからです。同時にこの結論は、人間は決して罪に打ち勝つことが出来ないという、さらに致命的な理論につながるのです。

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」(ヘブル4:15)。アウグスティヌスが作り出した理論のせいで、キリストは全てにおいて人間の模範になることは出来なくなり、その結果人類のための仲保者としての地位を奪われることになりました。こうして教会は、イエス・キリストのほかに別の仲保者を作り出したのです。                                                                                                                                                       

教会はこの神学的論理を完成するために、私たちと同じように誘惑を感じるだけでなく、誘惑に屈して罪を犯す可能性を持った仲保者を作らざるを得なくなりました。聖書が「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(Ⅰテモテ手紙2:5)と宣言しているにもかかわらず、教会は、イエス様の母であるマリヤを人類の新しい仲保者として人々に紹介するようになったのです。後になるとさらに発展して、数多くの聖人(Saints)を制定するようになり、司祭と神父にも仲保者としての役割を任せることで、信者から罪の告白を受けて神様に取り次ぐようにしたのです。教会はアウグスティヌスの間違った思想と神学に基礎を置く教理の盲点を埋めようとして、過ちに過ちを増し加えました。人間は罪を持って生まれてくるという原罪説が、人間を永遠の命から引き離し、妊娠の瞬間から、胎児はすでに永遠の滅亡の裁きを受ける存在であり、性そのものが罪の起源となったのです


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第18回

2016年03月23日 | 日記

アウグスティヌスの最初のジレンマ

 罪に対する勝利の経験が出来なかったアウグスティヌスは、肉体をとってこの世に生まれ、罪に勝利する生涯を送られたキリストを考えるたびに、ジレンマに陥るようになりました。なぜなら、自分と同じ肉体を持ったキリストは勝利の生涯を歩まれたのに、アウグスティヌスの生涯には勝利の経験がなかったからです。「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」(ヨハネの黙示録3:21)。

そこでアウグスティヌスは、キリストは人間と全く違う肉体を持って生まれたのだと、強引な論理を繰り広げるようになりました。しかし聖書は、キリストが肉体を持って生まれたことについて次のようにはっきりと宣言しています。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」(ヘブル人への手紙4:15)。「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた」(ヘブル2:14〜16)キリストは決して天使のかたちで来られたのではなく、マリヤを通してアブラハムの血と肉を遺伝的に受け継いで来られたのです。

 アウグスティヌスは、聖書に記されているキリストが、人間の堕落した肉体を持って生まれたという教えをひっくり返して、その後のカトリック教会を深い暗黒の中に陥れた、無原罪懐胎説の元を作ったのでした。彼はキリストの受肉された体は、私たち人間とは全く別物だったという主張を裏付けるために、キリストの母も同じように人間の堕落した本性を全く持たない完全無欠の状態にしなければならなかったのでした。

アウグスティヌスの教えを受け入れた教会は、次第に無原罪懐胎という、聖霊がまずマリヤの肉体を完全に変えられた後でイエスを身ごもったという主張を教理化するようになったのです。マリヤの体が完全無欠であったために、キリストの肉体も、人間的な弱さが全くない完全な状態で生まれることが出来たという論理を展開したのです。しかし使徒ヨハネは、キリストの受肉についての真理が、霊を判断する基準であることを強調しています。「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である」(Ⅰヨハネ4:2、3)。聖書では、肉体という言葉はいつも同じ意味を持っていますが、それは道徳的に弱い本性を持つ体を意味しています。


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第17回

2016年03月22日 | 日記

5 罪を正化するために成立した神 

アウグスティヌスは性(Sex)を原罪と主張しましたが、彼の主張は自分の罪ある過去の生活を合理化するためのものでした。彼は若いころ私生児をもうけ不法な父親になりましたが、それは私生活が敬虔でなかったということを物語っています。アウグスティヌスの生活に見られるこのような弱点は、彼が自分の罪深い生活を正当化するための神学的を構築するように導いてしまったのでした。自分の人生において罪に勝利する生き方が出来なかったアウグスティヌスは、原罪の幅を広げていき、他の問題にまで適用しました。人間は、生まれた時から罪人として生まれたので、罪ある生き方しかできないと言う考えと実体験が、彼の神学を支配しました。どんな牧師であれ神学者であれ、結局は自分の経験以上の説教や神学的な理論を繰り広げることはできないということを、アウグスティヌスの生涯を通して確認することが出来ます。 

アウグスティヌスは、肉と霊の間に熾烈な戦いが存在するということを認識することが出来ませんでした。彼は霊が肉に勝てるということに気が付きませんでした。クリスチャンが、神様の愛を信じ受け入れた時に与えられる心の驚くべき変化、つまり生まれ変わりの経験を理解することが出来なかったのです。心が新しく入れ代わったクリスチャンにとって、罪に対する勝利はあまりにも自然な結果であることを体験することが出来ませんでした。罪に対する勝利の経験が出来ず、真の生まれ変わりの経験を持たなかったアウグスティヌスは、自分の経験を都合よく正当化させる神学を発展させていったのでした。

人が遺伝的に受け継ぐ、堕落した自己中心的(利己的)な本性そのものを罪と考えたアウグスティヌスにとって、罪は決して勝つことの出来ないものになってしまいました。彼は、罪とは我々が生まれる時から受け継いだ、堕落した本性そのものと定義するまでに至りました。

しかし聖書で、罪とは私たちが生まれる時から受け継いだ、罪の性質や弱さではなく、神様のみ言葉や戒めを、思いや行いで犯してしまう不従順のことを言うのです。聖霊が良心に語られる静かな声を拒んで、不道徳な選びをすることを言います。ですから、神様を第一にして、聖霊の力に助けられながら生きるクリスチャンは、罪に勝ち、罪を征服する生涯を生きることが出来るようになるのです。聖霊に導かれて、気づかせてくださる義の選択と義の決定を通して、罪に勝利することが出来るようになります。