4 予定論が作り出したもう一つの過ち
アウグスティヌスが主張した間違った見解は、予定論を生み出したことでは終わりませんでした。予定論の過ちは論理的にまた別の過ちを生み出しました。つまり予定論は「一度救われれば永遠に救われる」という概念の基になってしまいました。予定論は「絶対的な君主である神様が、誰を救うかを独断で決める。だから一度救われた人は決して見放されたりしない」との論理を可能にしました。このような間違いを受け入れた人々は、自分の救いについて偽りの安心感を持つようになります。今現在、神様の戒めを犯して不道徳な罪の中に生きていても、自分は救われているのだとする致命的な自己欺瞞に陥ります。
予定論は、福音を宣べ伝えるという面においても、説明できない多くの疑問を提起しています。もしすべての人の救いが、神様の絶対的な主権によって決定しているとすれば、福音を伝えなければならない理由はどこにあるのでしょうか?伝道をしなければならない理由と目的は何でしょうか?こういった質問に対して、予定論を受け入れた人々の答えは、「聖書がそう言っているから」ですが、救いが決定しているのに、無理やり宣教しているような乏しい説明で終わります。しかし聖書は、「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)と宣言しています。そして、神様はすべての人が救いに至ることを望んでおられますが、私たちの自己中心的な間違った選択によって、救いを逃してしまうこともあると言うのが聖書の真理なのです。
「一度救われたら永遠に救われる」という間違った教えは、罪を犯す生活をしながらも救われるという恐ろしい理論として発展していきました。一つの過ちを受け入れることによって、また別の過ちをも受け入れてしまうのです。このような過ちを受け入れたクリスチャンにとって、救われることと、罪に対する勝利は何の関係もないものになり、敬虔なクリスチャンの生き方も、何の意味も持たなくなってしまいました。いくらクリスチャンが生まれ変わって、イエス・キリストの力を信じていると言っても、決して罪に勝つことは出来ないと思うようになったのです。しかしこのような主張こそ、神様は人間に選択の自由を与えておられないという、異端的な見解に基づいたアウグスティヌスの主張から生れた妄想に過ぎません。