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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第16回

2016年03月21日 | 日記

4 予定論が作り出したもう一つの過ち

アウグスティヌスが主張した間違った見解は、予定論を生み出したことでは終わりませんでした。予定論の過ちは論理的にまた別の過ちを生み出しました。つまり予定論は「一度救われれば永遠に救われる」という概念の基になってしまいました。予定論は「絶対的な君主である神様が、誰を救うかを独断で決める。だから一度救われた人は決して見放されたりしない」との論理を可能にしました。このような間違いを受け入れた人々は、自分の救いについて偽りの安心感を持つようになります。今現在、神様の戒めを犯して不道徳な罪の中に生きていても、自分は救われているのだとする致命的な自己欺瞞に陥ります。 

予定論は、福音を宣べ伝えるという面においても、説明できない多くの疑問を提起しています。もしすべての人の救いが、神様の絶対的な主権によって決定しているとすれば、福音を伝えなければならない理由はどこにあるのでしょうか?伝道をしなければならない理由と目的は何でしょうか?こういった質問に対して、予定論を受け入れた人々の答えは、「聖書がそう言っているから」ですが、救いが決定しているのに、無理やり宣教しているような乏しい説明で終わります。しかし聖書は、「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)と宣言しています。そして、神様はすべての人が救いに至ることを望んでおられますが、私たちの自己中心的な間違った選択によって、救いを逃してしまうこともあると言うのが聖書の真理なのです。

「一度救われたら永遠に救われる」という間違った教えは、罪を犯す生活をしながらも救われるという恐ろしい理論として発展していきました。一つの過ちを受け入れることによって、また別の過ちをも受け入れてしまうのです。このような過ちを受け入れたクリスチャンにとって、救われることと、罪に対する勝利は何の関係もないものになり、敬虔なクリスチャンの生き方も、何の意味も持たなくなってしまいました。いくらクリスチャンが生まれ変わって、イエス・キリストの力を信じていると言っても、決して罪に勝つことは出来ないと思うようになったのです。しかしこのような主張こそ、神様は人間に選択の自由を与えておられないという、異端的な見解に基づいたアウグスティヌスの主張から生れた妄想に過ぎません。


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第15回

2016年03月20日 | 日記

その後、中世の教会の中で形成された多くの神学的な過ちは、ほとんどがアウグスティヌスから始まり、彼に従う神学者たちによって発展し広がりました。アウグスティヌスによって作られた間違った教えを受け入れた多くの神学者は、彼の立てた過ちを前提にして、また別の過ちを展開させました。過ちを真理であると立証しようとして、また別の過ちを作り出す間違いが犯されました。

 根底が異教の思想に染まったアウグスティヌスは、聖書に表されている重要な思想である、すべての人は自由に自分の意志で、善と悪のどちらかを選ぶことができるということを全く理解できませんでした。父親が持っていた異教の教えにより、神様を絶対的で独裁的な神様と理解していたアウグスティヌスにとって、人間に選択の自由を許す神様の姿は受け入れがたい思想でした。彼は聖書の中から、どんな人が救われ、どんな人が救われないのかを見て、その場面を自分が持っていた神学的な概念に当てはめました。それが予定論の始まりになったのです。 

天地創造の以前に、神様がすでにある人は救われ、ある人は滅びるように予定しているという理論である予定論は、アウグスティヌスが生きていた時代にも、多くの挑戦を受けました。彼は挑戦に対する応答として、誰が救われたとしてもそれは神様の恵みであり、弱い私たち人間は、神様の審判と義に対して質問する資格さえもないと主張しました。こういう主張を合理化するために、彼は、神様がある人は永遠の救いに定めており、ある人は永遠の呪いの中にいるように定めておかれた、という予定論を構築したのです。


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第14回

2016年03月19日 | 日記

  第4部 間違った福音の根源とその歴史

1 いつ、どこで、誰が、何を、どうやって、なぜ?

紀元300年頃から、キリスト教会は深い暗黒時代に突入して、神学的な混乱に陥りました。イエス様の母マリヤによる執り成しの教えなどが広がって、イエス・キリストの救世主としての位置が揺らぎはじめ、さまざまな異教の教えが教会に持ち込まれ、キリストと使徒たちによって教えられていた本来の教えが何であるか分からなくなってきました。色々な学説が出され、激しい論争が繰り返されていきました。教会は多くの会議と決議文を通して、正しい聖書の教えを打ち立てようとしましたが、そのようなものはかえって教会をキリストの単純な福音から遠ざけました。

そのような神学的な混沌の中から、一人の人物が影響力を持って現れました。彼の名はアウグスティヌスです。彼は当時最も影響力のある神学者で、カトリック教会が持つ神学的な過ちの多くが、彼によって始まり成立しました。悲しいことは彼の教えと神学的な影響力は、今日までキリスト教全体に暗い影を落としているということです。

2 少年期の思想的影響 

アウグスティヌスは紀元354年、北アフリカで生まれました。彼の母親はクリスチャンで、父親はマニ教徒でした。マニ教は紀元3世紀頃、マニという人によって成立しましたが、この宗教は、古代ペルシアの宗教である拝火教(ゾロアスター教)の流れをくみ、光と闇(善と悪)の対立を強調しました。つまり、善と悪が両方とも人間の生涯を治めるので、人は皆悪を行なって生きるしかないという教えを持っていました。そのため、この教えを受け入れた人は、自分の犯した罪に対して自己正当化したり、言い訳のできる論理的根拠を持つようになったのです。

アウグスティヌスは、このような異端的な信仰背景を持つ父親のもとで成長しましたが、30歳の頃、イタリアのミラノでキリスト教を受け入れました。しかしアウグスティヌスは、クリスチャンになった後も、幼い時に受けた異教徒的な概念を頭の中から消すことが出来ませんでした。小さい頃、心に根をおろした思想が、後の神学的な思想にも大きく影響を及ぼしたのです。その一つである「人間は決して罪に勝つことは出来ない」というアウグスティヌスの神学的な見解は、アウグスティヌス以後700年余りの間受け継がれ、ほとんどの聖職者や神学者を教育する支配的な思想となりました。


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第14回

2016年03月19日 | 日記

  第4部 間違った福音の根源とその歴史

1 いつ、どこで、誰が、何を、どうやって、なぜ?

紀元300年頃から、キリスト教会は深い暗黒時代に突入して、神学的な混乱に陥りました。イエス様の母マリヤによる執り成しの教えなどが広がって、イエス・キリストの救世主としての位置が揺らぎはじめ、さまざまな異教の教えが教会に持ち込まれ、キリストと使徒たちによって教えられていた本来の教えが何であるか分からなくなってきました。色々な学説が出され、激しい論争が繰り返されていきました。教会は多くの会議と決議文を通して、正しい聖書の教えを打ち立てようとしましたが、そのようなものはかえって教会をキリストの単純な福音から遠ざけました。

そのような神学的な混沌の中から、一人の人物が影響力を持って現れました。彼の名はアウグスティヌスです。彼は当時最も影響力のある神学者で、カトリック教会が持つ神学的な過ちの多くが、彼によって始まり成立しました。悲しいことは彼の教えと神学的な影響力は、今日までキリスト教全体に暗い影を落としているということです。

2 少年期の思想的影響 

アウグスティヌスは紀元354年、北アフリカで生まれました。彼の母親はクリスチャンで、父親はマニ教徒でした。マニ教は紀元3世紀頃、マニという人によって成立しましたが、この宗教は、古代ペルシアの宗教である拝火教(ゾロアスター教)の流れをくみ、光と闇(善と悪)の対立を強調しました。つまり、善と悪が両方とも人間の生涯を治めるので、人は皆悪を行なって生きるしかないという教えを持っていました。そのため、この教えを受け入れた人は、自分の犯した罪に対して自己正当化したり、言い訳のできる論理的根拠を持つようになったのです。

アウグスティヌスは、このような異端的な信仰背景を持つ父親のもとで成長しましたが、30歳の頃、イタリアのミラノでキリスト教を受け入れました。しかしアウグスティヌスは、クリスチャンになった後も、幼い時に受けた異教徒的な概念を頭の中から消すことが出来ませんでした。小さい頃、心に根をおろした思想が、後の神学的な思想にも大きく影響を及ぼしたのです。その一つである「人間は決して罪に勝つことは出来ない」というアウグスティヌスの神学的な見解は、アウグスティヌス以後700年余りの間受け継がれ、ほとんどの聖職者や神学者を教育する支配的な思想となりました。


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第13回

2016年03月18日 | 日記

 第3部 救いが難しく感じられる理由

 

聖書に書かれている律法と、それを犯した者に課せられる刑罰に対して、不満に思っている人々がいます。このような制裁や脅かしのような罰があるから、私たちが神様に従うのを余計に難しくしているのでしょうか。この質問に答えるために次のような例え話を考えてみましょう。医者が患者に健康診断の結果を報告します。「〇〇さん、あなたにあまりよくない知らせを伝えなければなりません。検査の結果、私の指示をきちんと守らないとあなたは死ぬかもしれません。ご自分の命を救うためには、私の言う事に従わななければなりませんし、これからは毎日、この処方と指示通りに、十分な睡眠をとり、適度な運動と野菜中心の食事をし、酒やたばこをやめ、健康的な生活をしなければなりません。生きている間ずっと、毎日実行しなければなりません。そうでないとあなたは確実に死にます」。

 ここで医者が患者に渡した処方箋は、これを守らない場合、恐ろしい罰がついてくる厳しい規則と言えます。しかし患者がその命令に従うのは、そんなに厳しいことでしょうか。違います。体は規則正しく食事と運動をすることを必要とします。決まった時間に食べて運動するのは患者自身のためになります。ですから、患者は医者が自分のために最善の処方を下したという信頼があって、不平を言わず医者の指示に従うのです。問題は医者に対する患者の信頼心(信じること)です!医者に対する信頼が充分でない人は医者が処方した内容について不平を言うようになるのです。

 同じようにクリスチャンとイエス・キリストの関係は、信頼と愛の法則で繋がっていなければなりません。聖書の戒めや罰について不平を言ったり恐れたりする必要はありません。なぜなら戒めとおきてを与えられた方は、私たちの救いと永遠の命のために十字架に付けられた方であるイエス・キリストだからです。クリスチャンは、最高の喜びとして、神様の戒めを守ります。なぜならそれがより高いレベルの幸福をもたらすことを知っているからです。戒めに従う生活は、キリストとの一体感を深め、より深い満足と確信を与えます。そのような人は、罰への恐れからではなく、愛する方に従うことが最高の幸せなのでそうしているのです。

 愛は義務でさえも、楽しい特権へと変えてくれます。妻と結婚前に付き合っていた頃、私は愛する彼女に会うために、土砂降りの雨の中を5キロも歩いて行ったことを思い出します。今もあの時のことは後悔したことはありません。彼女に対する愛が大きいので、どんなに大変なことも、苦になりませんでした。私たちが対象を愛しているかどうかによって、どんなに小さいことも重荷になる場合もありますし、そうでない場合もあります。キリストとの関係がずれていると、キリストに仕えることは大変な重荷になってしまうのです。