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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第12回2

2016年03月17日 | 日記

私たちは服従によって救いを買うのではありません。救いは神から与えられる無料の賜物であって、信仰によって受けるのです。服従は信仰の実なのです。「あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。すべて彼におるものは罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である」(1ヨハネ3:5,6)。これが本当のテストです。もし私たちが、キリストにあり、神の愛が私たちの心に内住するならば、私たちの感情も、思想も、行動も、神の清いおきてにあらわされた神のみ心に調和するようになります。「子たちよ、だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である」(Ⅰヨハネ3:7)。義とは、シナイ山で与えられた十戒に現された神の聖なる律法の標準によって定められるものです。

 キリストを信じれば神に服従する義務はないというのは、信仰ではなくて厚かましい憶測です。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである」(エペソ2:8)と言われています。けれども「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(ヤコブ2:17)とも記されています。また、イエスご自身も、この地上に来られる前に、「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:9)と言われ、再び天にお帰りになる直前には、「わたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのとおなじである」(ヨハネ15:10)と言われました。聖書は、「わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。…『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(Ⅰヨハネ2:3,6)、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(Ⅰペテロ2:21)と語っています。

 「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。 『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。 しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。 『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(Ⅰヨハネ2:3-6)


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第11回

2016年03月16日 | 日記

あやまちがあり、罪あるままの姿でキリストのもとに行き、ゆるしの恵みを受けるとき、心の中に愛がわき起こります。キリストの課されるくびきはやさしいのですから、すべての重荷は軽くなります。義務は喜びとなり、犠牲は楽しみになります。以前には暗黒に包まれているように見えた道も、義の太陽に照らされて明るくなります。

キリストのうるわしい人格は、彼に従う者のうちに見られるようになります。神のみ旨を行うことがキリストの喜びでした。神の愛と栄光をあらわそうとする熱情は、救い主の生涯を動かしていた力です。愛が救い主の行動をすべて美化し、高尚にしたのです。愛は神から来るものです。まだ清められていない心はその愛をつくり出すことも、生み出すこともできません。それはただ、イエスが支配する人の心にだけ見いだすことができます。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである」(Ⅰヨハネ4:19)。神の恵みによって新しくされた心のうちでは愛が行為の原則となります。愛は性格を改変し、衝動を支配し、欲情を制し、また敵意をおさえ、愛情を高尚にします。この愛が心のうちに宿り、あたりに高貴な感化を及ぼすのです。

 さてここに、神の子ら、特に神の恵みに頼り始めた者がおちいりやすい誤りが二つあります。これは特別に注意しなければならない事柄です。まず第一に、前にも述べたように、自分の行為をながめ、自分の力に頼って神と調和しようとすることです。自分の行為によっておきてを守り清くなろうとする人は、不可能なことをしようとしているのです。人がキリストなしにすることはすべて利己心と罪に汚れています。信仰によるキリストの恵みだけが私たちを清めるのです。

それとは反対ですが、同じように危険なことは、キリストを信じれば人は神のおきてを守らなくてもよいという考えです。つまり、ただ信仰によってキリストの恵みにあずかるようになったのだから、行いは私たちの救いと全く関係がないと言うものです。 

けれども服従というのは、単なる外面だけの同意ではなく、むしろ愛によって奉仕することなのです。神のおきては神のご品性そのものを表現したものであり、愛の原則を具体化したものですから、天にあっても地にあっても神のみ国の基礎です。私たちの心が神のみかたちに似て新しくされ、神の愛が心のうちに植えつけられるならば、神のおきては日々の生活に実行されるのではないでしょうか。    

愛の原則が心に植えつけられ、私たちの心が創造主である神のご品性に似たものとして新しくされるとき、はじめて「わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」(へブル10:16)という新しい契約が成就されるのです。このようにおきてが心に記されるとき、それはその人の生活を左右するのではないでしょうか。服従、すなわち愛より出た奉仕と忠誠は、弟子であることの真のしるしです。聖書にも「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである」(Ⅰヨハネ5:3)。「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」(Ⅰヨハネ2:4)と記されています。人は服従しなくてもよいというのではありません。信仰―ただ信仰だけが私たちをキリストの恵みにあずからせ、服従できるようにするのです。


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第10回

2016年03月15日 | 日記

   第2部 これが真の信仰です

 

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)。

人は、いつどこで悔い改めたのか、あるいはどんな段階を経て改心したかをはっきり語ることはできないかもしれませんが、それだからといってその人が悔い改めていないとは言えません。キリストはニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それとおなじである」(ヨハネ3:8)と言われました。風は目には見えませんが、風の通った結果は、はっきりと見たり感じたりすることができます。聖霊が人の心に働くのも、ちょうどそれと同じです。

目には見えなくても、風が吹いた結果ははっきりと分かって感じることが出来るように、人の心に働かれる聖霊の力もそうなのです。人間の目には見えませんが、聖霊は人の心の中に新しい生命を生まれさせ、また神様のかたちに人を創り変えます。聖霊の働きは音もなく声なく、感情的な変化もないかもしれませんが、その影響と結果は明白に現れます。もし私たちの心が神様の霊によって新しくされたなら、実際の生活がそれを証明するのです。

私たちはどのようにしても自分の心を変えたり、神様と調和したりすることはできません。また、自分自身や自分の良い行いに頼ることもできませんが、心のうちに神様の恵みを宿しているかどうかは私たちの生活にあらわれてきます。性格に、習慣に、いっさいの行動に変化が起こりますから、過去と現在との間にはっきりと決定的な対照が見られるようになります。人の性格はときどきの善行とか過ちでわかるのではなく、日常の言行動作の傾向によって知ることができるのです。

別にキリストの力によって新しくされなくても、外見だけは正しい行いをする人がいることは事実です。自分の影響力を高めたい心や、人からよく思われたいとの気持ちから、正しい生活を送ることもできるでしょう。自尊心によって悪と思われることを避けることもあるでしょう。

あるいは利己主義な人が、情け深い行為をすることもあるでしょう。では、私たちがどちらの側に立っているかを、どんな方法ではっきり決めることができるでしょうか。

私たちの心を支配しているのは誰でしょうか。私たちは誰のことを考えているでしょうか。また誰のことを話すのが好きでしょうか。私たちが何よりも愛情をささげ、何よりも努力を傾けようとするのは誰のためでしょうか。もし私たちがキリストのものであれば、彼と心をひとつにし、彼を思うのが一番の楽しみとなり、私たちの持ち物も、私たち自身もすべて彼にささげてしまいます。そして主のみかたちに似ることを望み、主の霊を呼吸し、主のみ心をなし、すべてのことにおいて主を喜ばせたいと願うようになります。  

キリスト・イエスにあって新たに造られた者は、みたまの実を結びます。つまり「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)を生じさせるのです。もはや、彼らは以前の欲望に従って歩まず、神のみ子を信じてそのみ足跡にならって歩み、そのご品性を反映しながら、イエスが清い方であられたように、自らを清くするのです。以前には嫌っていたものを今は愛するようになり、かつて愛していたものは嫌うようになります。高慢、不遜な人は、柔和、謙遜になります。軽はずみで落ち着きのない人は真面目で控えめになり、酒に酔う者はそれをやめ、放蕩者は純潔になります。世的なむなしい習慣や流行を追う気持ちはなくなり、クリスチャンは「外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない」(Ⅰペテロ3:3,4)飾りを求めるようになります。

ですから、もし改革が起こらなければ真に悔い改めたとは言えません。担保としてあずかったものを戻し、奪ったものを返し、罪を告白し、神と人とを愛するようになったなら、その人は確かに死から生に移っているのです。


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第9回

2016年03月14日 | 日記

クリスチャンの兄弟姉妹に送るメッセージ

 福音は完全なものでなければなりません。信じることと行いと、そして律法が完全に聖書的に調和している福音だけが、人を罪から救うことができ、罪人の人格と生き方を変え、天の都へ導くことが出来ます。教会の中に存在する律法主義者たちや自由主義者たちに、正しい福音を伝えることで、彼らが滅亡に向かって走り続けているという事実をはっきりさせなければなりません。

 何よりも、彼らを律法主義と自由主義から完全に救い出すことができる、救い主の力を紹介しなければなりません。キリストは罪を赦すだけでなく心も変えて下さり、神様のみ言葉とおきてに調和する、美しい人生へと導いてくださる方であることを教えてあげて下さい。

 律法主義者に送る私たちのメッセージは、永遠の命へ導く狭い門からはいることを諦めず、人生を自由と自己満足で生きる自由主義者の陣営へ移ろうとする誘惑に、気をつけなさいということです。このジレンマから抜け出す最善の道は、キリストの十字架とその生涯を毎日瞑想することを通して、自分の無価値さを深く認識し、あらゆる試みと欺きから完全な勝利を得させて下さるキリストの力を追い求めて行くことです。

自由主義者に送る私たちのメッセージは、律法を重視すると言いながらも、自己中心的で貪欲な生活を捨てきれず生きている偽善的な律法主義者を見て、律法そのものを軽んじる誘惑に気をつけなさいということです。もし、この文章を読まれた方の中で、心に聖霊が働かれ、自分が生ぬるくなって真剣な信仰生活をしていないと感じる方がおられたら、あなたは神様のみ言葉と律法に従順な、清い生き方を決断しなければなりません。もちろんこの時、反対側で待っている、サタンの罠である律法主義に陥って転ぶことのないように気をつけて下さい。

気付かないうちに、十戒が十字架によって廃されたという偽りの教えを受け入れて、多くの人が、自由主義的な信仰を持つようになっています。皆さんが一度律法を軽視する生き方を受け入れると、皆さんの生活は何の原則も基準もなく、漂流するようになります。その人生は神様のみ言葉に基礎を置くのではなく、自分が立てた人生観や哲学によって形作られてしまうのです。

そのような皆さんの姿は、世の人々には、キリスト教信仰が曖昧なものに映ってしまいます。世の中の生き方と、教会の信仰の間には、はっきりと境界があるべきです。もしあなたがこれからも自由主義的な、律法に拘束されない生き方を続けるなら、あなたの生活や家庭はまとまりがつかなくなり、結局は取り返しのつかない破滅という後悔の盃を飲むことになるでしょう。 

自由主義を信じる兄弟姉妹のために一番良い方法は、神様のみ言葉を深く心に入れるということです。本当に神様の十戒は廃され、十戒に従わない生活を続けても救いは保証されるものかを、神様のみ言葉である聖書に聞いて下さい。また日々十字架とキリストの恵みについて深く瞑想することを忘れないで下さい。あなた方がキリストの恵みと犠牲の意味を正しく理解して悟るなら「律法を守る必要はない」などとは決して言えないでしょう。

現代のキリスト教会の中に存在する、あわれむべき律法主義者と、深い欺きの中で自己満足して生きる自由主義者が、十字架を通して天の王国に至る道をはっきりと見出せるようにと願っています。


良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第8回

2016年03月13日 | 日記

クリスチャンに与えられる完全な平和

 「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません」(詩篇119:165)。

律法主義者はどんなに頑張っても、彼らの魂に平和を保つことが出来ません。なぜなら彼らの肉的な心では、決して尊い律法に服従することが出来ないからです。彼らは自らを裁いてしまい、キリストの愛とあわれみを十分受け入れることが出来ないので、赦しに対する確信も持てませんし、罪悪に力強く抵抗できる霊的なパワーも無くしています。

自由主義者は偽りの安心感にとらわれ、律法と聖書が提示している原則に服従することは、律法主義者のすることだと勘違いしています。今日のキリスト教会は、自由主義的な精神であふれています。自由主義は、教会生活を長く続けながらも、新しく生まれ変わる経験をしていないクリスチャンにとって、好都合な教えでした。その結果、様々な流行と飾りと派手な化粧、そのほか各種の世俗的な慣習が、清い神様の教会の中に氾濫するようになりました。さらにはお酒、タバコ、賭博を楽しむような人が、執事や長老の按手を受けるという、ありえない状況を目にするようになりました。聖日を清く守らなければならないという説教や、十分の一献金や各種の献金をしっかりと捧げなくてはならないというメッセージは、ほとんど教会の中では聞かれなくなりました。

現代のキリスト教会が直面しているこれらの症状は「自由主義」がもたらした致命的な弊害であることに気づいているクリスチャンは、どのくらいいるでしょうか。イエス様が天国について説明するために用いられた、次のたとえ話は、今もあらゆる自由主義者に鋭い警鐘を鳴らしています。「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである」(マタイ13:44〜46)

宝が隠されていた畑の価値はいくらだったでしょうか。 農夫が持っていた物の全てでした。偶然に見つけた良い真珠の価値はいくらだったでしょうか。商人が持っていた物の全てでした。永遠の命の対価とは、自分の以前の生き方を完全に捨ててイエス・キリストが歩まれたその道を歩むことです。そこで聖書はその道に入る門を、狭き門と呼んでいるのです。この文を読まれる方の中で、自由主義的な信仰を持った人はおられないでしょうか。気をつけましょう。最後の審判の日に、皆さんは神様の尊い律法に基づいて、信仰と生涯がそれに一致していたかどうか裁かれるのです。