寺巡りをするようになって日本最古の寺である飛鳥寺と飛鳥大仏のことはいつも頭の中にあり、とうとうその日がやって来た。
昨夜は道の駅で宿泊したが熟睡し目覚めもよい。
鳥形山 飛鳥寺の歴史
奈良県高市郡明日香村にある寺院。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺の後身である。
本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。
山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。現在の宗派は真言宗豊山派。
これまで訪れた寺は本堂に着くまで多くの時間と距離を要したが、飛鳥寺は駐車場から本堂までは30m程度。
寺門の前には「飛鳥大佛」と書かれた標石がある。
飛鳥大佛標石
江戸時代の寛政4年(1792)飛鳥寺参拝の道しるべとして彫刻され、優秀な文字で台石は飛鳥寺創建時の礎石を用いている。
銅造釈迦如来坐像(重要文化財)
鞍作鳥(止利仏師)作の本尊像であるが、損傷が激しく、後世の補修を受けている。
現存する像のどの部分が鞍作鳥作のオリジナルで、どの部分が後補であるかについては諸説ある。
1973年に奈良国立文化財研究所による調査が行われ、当初部分と考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2〜第4指のみだとされた。
憧れていた仏像に出会うことができた。想像通り惚れ惚れとする仏像。
角度によってはフランケンシュタインのような感じもするから面白い。
3日前にモデルのはなさんが付き人の女性と2人で仏像を巡るという内容の番組が放映され、最後に選んだのがこの釈迦如来像だった。
私は右側からのお姿が好きだが……。
いろいろ事情があってピンぼけの写真になってしまったが、はなさんは左下方から見た口元(アルカイックスマイル)が好きらしい。
他人がどのように仏像を鑑賞しているかなど、あまり考えたこともなかったが番組内のはなさんの言葉は大変参考になった。
思惟殿
本尊 聖観世音菩薩が安置されている。
蘇我入鹿の首塚
中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で暗殺された。
従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。
後日、父・蝦夷も自殺し、ここに蘇我宗本家は滅びる。
首塚から見える飛鳥寺全景。
本堂
金堂礎石(3個)
創建当初(596年)の礎石(日本最初)。
現在、首塚周辺では遺跡が発見され写真の風景とは異なる。
遺跡は日本書記に登場する「槻(つき)の木の広場」とされ、これまでも周辺で石敷きが見つかっている。
日本書記によると、「槻の木の広場」は大化改新の前年の644年、中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠(けまり)を通して出会った場所として登場。
壬申の乱(672年)の軍営地や、儀礼のための饗宴の場としても現れる。
撮影 平成22年7月25日
昨夜は道の駅で宿泊したが熟睡し目覚めもよい。
鳥形山 飛鳥寺の歴史
奈良県高市郡明日香村にある寺院。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺の後身である。
本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。
山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。現在の宗派は真言宗豊山派。
これまで訪れた寺は本堂に着くまで多くの時間と距離を要したが、飛鳥寺は駐車場から本堂までは30m程度。
寺門の前には「飛鳥大佛」と書かれた標石がある。
飛鳥大佛標石
江戸時代の寛政4年(1792)飛鳥寺参拝の道しるべとして彫刻され、優秀な文字で台石は飛鳥寺創建時の礎石を用いている。
銅造釈迦如来坐像(重要文化財)
鞍作鳥(止利仏師)作の本尊像であるが、損傷が激しく、後世の補修を受けている。
現存する像のどの部分が鞍作鳥作のオリジナルで、どの部分が後補であるかについては諸説ある。
1973年に奈良国立文化財研究所による調査が行われ、当初部分と考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2〜第4指のみだとされた。
憧れていた仏像に出会うことができた。想像通り惚れ惚れとする仏像。
角度によってはフランケンシュタインのような感じもするから面白い。
3日前にモデルのはなさんが付き人の女性と2人で仏像を巡るという内容の番組が放映され、最後に選んだのがこの釈迦如来像だった。
私は右側からのお姿が好きだが……。
いろいろ事情があってピンぼけの写真になってしまったが、はなさんは左下方から見た口元(アルカイックスマイル)が好きらしい。
他人がどのように仏像を鑑賞しているかなど、あまり考えたこともなかったが番組内のはなさんの言葉は大変参考になった。
思惟殿
本尊 聖観世音菩薩が安置されている。
蘇我入鹿の首塚
中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で暗殺された。
従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。
後日、父・蝦夷も自殺し、ここに蘇我宗本家は滅びる。
首塚から見える飛鳥寺全景。
本堂
金堂礎石(3個)
創建当初(596年)の礎石(日本最初)。
現在、首塚周辺では遺跡が発見され写真の風景とは異なる。
遺跡は日本書記に登場する「槻(つき)の木の広場」とされ、これまでも周辺で石敷きが見つかっている。
日本書記によると、「槻の木の広場」は大化改新の前年の644年、中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠(けまり)を通して出会った場所として登場。
壬申の乱(672年)の軍営地や、儀礼のための饗宴の場としても現れる。
撮影 平成22年7月25日
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