今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

十六羅漢岩(山形県飽海郡遊佐町)

2021年09月10日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月8日

十六羅漢岩
ある目的地を目指し日本海側を北上中「十六羅漢岩」の案内標識があり寄り道をした
以前から気になって場所でもある
地元の男性の話しでは22体の磨崖仏があるそうだ

展望台からの眺望
この周辺に約10体の磨崖仏があるが判別できないので近くに寄ってみる



早速、違った方向に歩き出したようで、地元の男性に指摘され、正しい方向を指で示された
その方向に磨崖仏があるらしいが判別できなかった



1 観音菩薩 (かんのんぼさつ、アヴァローキテーシュヴァラ)



2 注荼半託迦 (ちゅだはんたか、チューダパンタカ)
岩の上に上らなければ観ることができないと聞いていた



穏やかな表情の磨崖仏だ



次の場所に移動する
ここには8体の磨崖仏が確認できた



岩の左側部分(5体)



右側部分(3体) 獅子岩もあると聞いていたが既に忘れていた



3 舎利佛 (しゃりほつ、サーリプッタ)左
4 普賢菩薩 (ふげんぼさつ、サマンタバドラ)右




5 釈迦牟尼仏 (しゃかむにぶつ)上
6 目連 (もくれん、モッガッラーナ)下




7 文殊菩薩 (もんじゅぼさつ、マンジュシュリー)



右側部分(3体)



8 因掲陀 (いんがだ、インガダ )



9 賓度羅跋囉惰闍 (びんどらばらだじゃ、ピンドーラ・バーラドゥヴァージャ)
10 戍博迦 (じゅばか、ジーヴァカ)




歴史を少し
地元の吹浦 海禅寺の21代寛海和尚が、仏教の隆盛と衆生の救済、事故死した漁師の供養と海上安全を願って、1864年から5年の年月をかけ、1868年に完成させた



寛海和尚は、造佛のための費用を工面するため、近隣在郷の協力のみならず酒田方面まで托鉢を行い資金を集めた
資金が1~2両集まるごとに石工に造佛を依頼していたため、磨崖仏は5年の間に順次造られていった
磨崖仏の完成を見た後、明治4年 (1871年)7月に寛海和尚は自身が守り仏になるため、羅漢岩の傍らの海に身を投じ、71年の生涯を閉じた



場所を移動する(3体の磨崖仏)



11 蘇頻陀 (すびんだ、スヴィンダ)






12 伐那婆斯 (ばなばす、ヴァナヴァーシン)






13 諾距羅 (なこら、ナクラ)



更に先に進むが急に足元が悪くなる



岩の上を歩いて進む(先に何があるか分かっていない)



2体の磨崖仏があった(嬉)



14 跋陀羅 (ばだら、バドラ)



15 半託迦 (はんたか、パンタカ)



16 那迦犀那 (なかさいな、ナーガセーナ)
道路下の洞穴に安置されていた



この先まだあると思うが、地元の男性からも危険なので無理をしないようにとの忠告を思い出した
「君子危うきに近寄らず」 教養も徳もないがこの言葉に従い戻ることにした



地元の男性も全部観ていないと聞いた
旅行者としてはこれで十分だと思うが好きなだけに悔いは残る



撮影 令和3年6月8日
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山居倉庫(山形県酒田市山居町)

2021年09月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月8日

山居(さんきょ)倉庫(国史跡)
数年前に土門拳記念館の写真を撮っていたとき「私と同じレンズですね」と声を掛けられた
その同世代の男性から、いい被写体あると紹介されたのがこの山居倉庫である



この場所に案内された時に、探していた場所だと思った
当時「さんきょ」とは読めず「やまい」でナビ検索をしていた



明治26年(1893年)に建造された米の保管倉庫
現在、12棟からなる倉庫が残り、9棟は現役の米蔵として使用されている



残り1棟は1985年に「庄内米歴史資料館」
2棟が2004年に「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽(くら)」として改装されている



背後を囲む「欅並木」は日よけ・風よけの役目を果たし、自然を利用した低温管理が行われている






三居稲荷神社






歩いてきた道を振り返る



二重屋根



倉庫内を覗いてみる



山居倉庫正面
魅力的な黒色の倉庫と欅並木は実は裏側で、正面はこの様になっている









小鵜飼船






屋根の上の人が落ち葉を拾い集め、ほうきで屋根を掃き清めている



「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽」で大阪の友人からの勧めもあり山形米「つや姫」を購入



NHK朝ドラ「おしん」のロケ地としても知られている



撮影 令和3年6月8日
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土門拳記念館(山形県酒田市飯森山)

2021年09月08日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和3年6月8日

土門拳記念館
写真家・土門拳の写真作品を所蔵・研究・展示するための酒田市立の美術館



日本初の写真専門の美術館として、7万点におよぶ土門作品のすべてを所蔵している



入館料が以前に訪れた時に比べると、倍近く値上がりしていた
コロナの影響かと思い尋ねると、酒田市の条例改正でこのようになったとのこと



この日の最初の入館者だった



亀倉雄策と土門拳~時代を創った二人の仕事~
1964年の東京オリンピックのポスターをこの二人が担当していたということを初めて知った
オリンピックのポスターに写真を用いたのは東京五輪が最初のようだ









1964年東京オリンピックのポスターをはじめ日本万国博覧会のポスターなど数々の傑作が知られている



亀倉雄策と土門拳



古寺巡礼
私の旅で寺社の写真が中心になっているが元々興味があったわけではなかった
この記念館で感動した仏像や建造物を巡り、次第に興味を持つようになった



今回の旅で訪れた「室生寺」の写真が展示されていた












「大野寺弥勒磨崖仏」



「風貌」も大好きなシリーズ



館内の様子






土門拳愛用のカメラとレンズ






土門拳のメモ帖
土門は「メモ魔」だった
「報道カメラマンなら当然」が口癖で、酒席でも他人の話をメモした



すべてが鞄の大きさに見合った特注品で、仏像や器の特色・寸法などのほか
気に入れば図解、彩色までした



今森光彦「自然と暮らす写真のまなざし」



切り紙作品 7点、立体作品 7点、写真作品 29点を展示
(展示室内は撮影禁止)



休憩所だが絵になる空間



売店で「寺と仏像手帳(土門拳著)」を購入
土門拳は写真も凄いが文章も面白い



1時間ほど滞在したが入館者は私一人だった









撮影 令和3年6月8日
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宮城峡蒸溜所(宮城県仙台市青葉区ニッカ1番地)

2021年09月07日 | 蒸溜所・酒蔵
訪問日 令和3年6月7日

宮城峡蒸溜所
山形県と宮城県の県境付近(住所は宮城県)にある山中にある蒸溜所
コロナの影響で臨時休業していたが、一部営業が再開したことを知った
問題なのが緊急事態宣言地域からの入場は認めないということ(困った)



そこで、前日に蒸溜所に電話した
現在、旅行中だが出発前北海道は緊急事態宣言はしていなかったので入場させて欲しいと(懇願)
数分後に連絡があり「お待ちしています」との内容であった(嬉)



駐車場に着くと札幌ナンバーのため係の人が寄ってきた
昨日連絡したことを告げると「失礼しました。○○様ですね。お待ちしていました」と丁寧に対応された



この日は、ギフトショップとビジターセンターのみ開放されていると説明された



目的は売店で限定ウイスキーを購入することなので周囲の建物を見ながら売店へ向かう



レンガ建ての大きな建物は貯蔵庫のようだ






ゲストハウス北口が入口になっている



ハウス内の様子(売店は撮影禁止)



リタ夫人死後に完成した「スーパーニッカ」



「スコットランド実習報告書」
かつての英国首相に
「頭の良い日本の青年が、1本の万年筆とノートでウイスキーづくりの秘密を盗んでいった」
 と讃えられた






通称「ヒゲのおじさん」と呼ばれている、ニッカウヰスキーのマスコットキャラクターの正式名称は「King Of Blenders(キング・オブ・ブレンダーズ)」
モデルとなったのは英国人のW・P・ローリーという人物で、いくつもの香りを嗅ぎ分けるブレンドの名人であり「ブレンドの王様」と呼ばれていた



「自然を大切にしなければおいしいウイスキーはつくれない」
樹木の伐採を最低限にとどめ、電線は地下に埋設した



「ビジターセンター見学」






建物が見えてきた












受付で住所と名前を記入すると「○○様ですね。お聞きしていました」
前日連絡したことが、駐車場・売店・ビジターセンター受付まで行き届いている
このニッカという企業の対応の良さに驚く



ビジターセンターでは、ウイスキーの製法や種類、歴史などを展示している





















朝ドラ「マッサン」以来、日本のウイスキーが入手困難になっている
既に終売となっている「竹鶴」<ネット上では高騰している>
アマゾン価格でいうと左から順で
竹鶴12年(6.9万円)竹鶴17年(5.3万円)竹鶴21年(7.3万円)竹鶴25年(27.5万円)竹鶴(9千円)





















受付嬢の後ろの棚に展示している商品



外は公園のような感じで落ち着く















蒸溜所内は20kmの一方通行
深々と頭を下げられ気持ちよく出口に向かう



撮影 令和3年6月7日
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鈴立山 若松寺<別称:若松観音>(山形県天童市大字山元)

2021年09月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月7日

鈴立山 若松寺(じゃくしょうじ)<別称:若松観音>
重要文化財の観音堂があるということで訪れた
山の上にあるとは知らず狭くてカーブの多い道に悩まされた



花笠音頭歌碑
「めでためでたの 若松さまよ 枝も 栄えて 葉も 茂る」
歌詞の「若松さま」がこの若松寺を指していることを、後で調べて分かった
それまでは会津の若松だと思っていたが、花笠音頭は山形県の民謡だった(恥)



地蔵堂(子育て地蔵)



通称「お地蔵さま」
若松寺の地蔵は子育てがテーマ






若松寺縁起



本坊



「天台宗祈願道場」の札と「祈願所」の扁額



観音像






子育て地蔵






福満稲荷社



石仏



福聚観音(福が聚まる観音様)






水屋



香炉堂
この日も朝早く駐車場に着き、車中で待機
写真左の住職が境内の清掃、拝観の準備をしていた



観音堂(重要文化財)
寺伝によれば、和銅元年(708年)元明天皇の勅命によって行基菩薩が開山した



貞観2年(860年)山寺の立石寺を開山した慈覚大師円仁が、当山の山頂付近にあった御堂を現在の地に移し、 大規模な伽藍配置をした



この時期に奈良仏教の法相宗から平安仏教の天台宗となる
開山が行基菩薩、中興の祖が慈覚大師として祀られている



慶長年間に山形城主の最上義光は、山形の最上地方に多いブナ材を主材料にして大改修した



本尊:聖観音
堂内の撮影は禁止されている



扁額には「円通閣」
円通とは、観音の別名である



桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、銅板葺



石仏









この植物、北海道では見た記憶がないが……(植物に関しても無知)



鐘楼堂









縁福大風鈴



1300年前、行基菩薩が、鈴の音に誘われて山に分け入り、寺を開いたという言い伝えがある



鐘楼堂からの景色
下に見える道路から狭い道を上がってきた



絵馬掛



元三大師堂



寛和元年(985年)正月三日に没したのでこの名がついた
おみくじの元祖といわれている






対向車が来ないようにと願い、来た道を戻る



撮影 令和3年6月7日
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瑞宝山 本山慈恩寺(山形県寒河江市大字慈恩寺)

2021年09月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月6日

瑞宝山 本山慈恩寺
慈恩寺には拝観できる仏像も多く、魅力的な三重塔もあり、今回が三度目の訪問になる
駐車場横にはお洒落なカフェもでき、雰囲気が変わっていた



山門(山形県指定文化財)
元文元年(1736年)築造
3間1戸の楼門造で、入母屋造、八脚門で銅板葺






仁王像












本堂(重要文化財)
神亀1年(724年)行基が慈恩寺を景勝であるのを見て京に帰り、聖武天皇に奏上
天平18年(746年)聖武天皇の勅命でインドの婆羅門僧正が開山 開山約1300年



江戸時代には東北随一の御朱印地を有し、院坊の数は3ヵ院48坊に達した
現在は3ヵ院17坊



法相宗に始まり、天台宗・真言宗・修験の外時宗、禅宗等多様な宗派が入り混じっていた
昭和27年(1952年)「天台真言両宗慈恩寺派」となり、昭和47年(1972年)「慈恩宗大本山慈恩寺」として独立






本尊は寛慶作の「木造弥勒菩薩」(重要文化財)
堂内での拝観は有料でその価値は十分あるのだが、値上がりしていた
コロナ禍で密を避けるための値上がりと思い拝観を辞めた(実は違っていた)



元和4年(1618年)最上氏により築造
桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺



薬師堂(寒河江市指定文化財)
元禄5年(1691年)築造 方三間、宝形造


堂内には数体の魅力的な仏像がある
本尊:木造薬師如来及両脇侍像 木造十二神将立像



阿弥陀堂(寒河江市指定文化財)
元禄8年(1694年)築造 方三間、宝形造



本尊:木造阿弥陀如来坐像



天台大師堂(寒河江市指定文化財)
延享3年(1746年)築造 方三間、宝形造






釈迦堂(寒河江市指定文化財)
元禄8年(1694年)築造 方三間、宝形造






鐘楼



三重塔(山形県指定文化財)
初代三重塔は、慶長13年(1608年)に、山形城主 最上義光の寄進により建立された



文政2年(1823年)に隣家の火災により類焼し、同13年(1830年)に再建された



緑の木々で囲まれている塔は美しい






撮影 令和3年6月6日
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鶴布山 珍蔵寺(山形県南陽市漆山)

2021年09月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月6日

鶴布山 珍蔵寺
山形県南陽市の漆山地区には、古くから鶴の恩返し伝説があるという
珍蔵寺には鶴の羽で織った織物を寺の宝物としたと伝えられている






緑のトンネルを上っていく



五輪塔
地・水・火・風・空の五大をそれぞれ方形・円形・三角形・半月形・宝珠形に石などでかたどり、順に積み上げている






手水舎






山門












彫刻






扁額の文字が読めない






虚空蔵菩薩堂






虚空蔵菩薩






仏足石・仏足石歌碑(南陽市指定文化財)









鐘楼



梵鐘には鶴の恩返し伝説が描かれている



本堂
寛正元年(1460年)極堂宗三和尚によって開山
この地に古くから伝えられる「鶴の恩返し」を縁起とし、鶴女房の夫だった金蔵が仏門に帰依したのが開基としている
初めは金蔵寺という名であったが、後に現在の名となった



<日本伝承大鑑より>
正直者の金蔵という男が、ある時、1羽の鶴が縛られているところに出くわした。
憐れに思った金蔵は、有り金をはたいて鶴を解き放して助けてやった。
するとその夜、若くて美しい女が訪れ、一夜の宿を請うた。
そして女はそのまま金蔵の家に居着き、やがて夫婦となった。

しばらくして、妻は金蔵に「今からご恩返しにあるものを差し上げたいと思います。
これから7日間部屋を覗かないで下さい」と言って、そのまま籠もってしまった。
部屋からは昼も夜も織物をする音がするだけであったが、金蔵はだんだんと妻が何を織っているのかを見たいと思うようになった。
そしてとうとう約束を破って、こっそりと部屋の中を覗いた。

部屋の中にいたのは、1羽の鶴。その鶴が自分の羽をむしり取り、それを織物にしていたのであった。
金蔵が覗いていることに気付いた鶴は、自分が助けてもらった鶴であり、恩返しのために人間に化けたのだと正体を明かした。
そして今織っているものは“曼荼羅”であり、これが自分の形見であると告げると、そのまま消えてしまった。

金蔵は妻との約束を破ったことを恥じて出家した。
そして残された布を納める寺院を建てた。
それが金蔵寺であり、鶴の織った布を寺宝とするために“鶴布山珍蔵寺”という名となったとされる。

残念ながら鶴の織った布は火災によって既にないが、古刹の禅寺の風格を残した趣のある寺院である。



扁額には山号の「鶴布山」
堂内は法事のため拝観することが出来なかった






撮影 令和3年6月6日
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鶴布山 珍蔵寺(山形県南陽市漆山)

2021年09月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月6日

鶴布山 珍蔵寺
山形県南陽市の漆山地区には、古くから鶴の恩返し伝説があるという
珍蔵寺には鶴の羽で織った織物を寺の宝物としたと伝えられている






緑のトンネルを上っていく



五輪塔
地・水・火・風・空の五大をそれぞれ方形・円形・三角形・半月形・宝珠形に石などでかたどり、順に積み上げている






手水舎






山門












彫刻






扁額の文字が読めない






虚空蔵菩薩堂






虚空蔵菩薩






仏足石・仏足石歌碑(南陽市指定文化財)









鐘楼



梵鐘には鶴の恩返し伝説が描かれている



本堂
寛正元年(1460年)極堂宗三和尚によって開山
この地に古くから伝えられる「鶴の恩返し」を縁起とし、鶴女房の夫だった金蔵が仏門に帰依したのが開基としている
初めは金蔵寺という名であったが、後に現在の名となった



<日本伝承大鑑より>
正直者の金蔵という男が、ある時、1羽の鶴が縛られているところに出くわした。
憐れに思った金蔵は、有り金をはたいて鶴を解き放して助けてやった。
するとその夜、若くて美しい女が訪れ、一夜の宿を請うた。
そして女はそのまま金蔵の家に居着き、やがて夫婦となった。

しばらくして、妻は金蔵に「今からご恩返しにあるものを差し上げたいと思います。
これから7日間部屋を覗かないで下さい」と言って、そのまま籠もってしまった。
部屋からは昼も夜も織物をする音がするだけであったが、金蔵はだんだんと妻が何を織っているのかを見たいと思うようになった。
そしてとうとう約束を破って、こっそりと部屋の中を覗いた。

部屋の中にいたのは、1羽の鶴。その鶴が自分の羽をむしり取り、それを織物にしていたのであった。
金蔵が覗いていることに気付いた鶴は、自分が助けてもらった鶴であり、恩返しのために人間に化けたのだと正体を明かした。
そして今織っているものは“曼荼羅”であり、これが自分の形見であると告げると、そのまま消えてしまった。

金蔵は妻との約束を破ったことを恥じて出家した。
そして残された布を納める寺院を建てた。
それが金蔵寺であり、鶴の織った布を寺宝とするために“鶴布山珍蔵寺”という名となったとされる。

残念ながら鶴の織った布は火災によって既にないが、古刹の禅寺の風格を残した趣のある寺院である。



扁額には山号の「鶴布山」
堂内は法事のため拝観することが出来なかった






撮影 令和3年6月6日
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如意山 乙宝寺(新潟県胎内市乙)

2021年09月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月6日

如意山 乙宝寺(おっぽうじ)
令和元年10月に一度訪れ、今回が二度目になる



楽しみにしていたということもあり、駐車場には6持45分に着いた



金毘羅堂



弁天堂(新潟県指定文化財)









仁王門









仁王像
鎌倉期に制作された仁王像の修復作業中ということで今回は一体のみ



総工費2,500万円 完成年度令和8年
5年後には放浪の旅は無理だろうと思いながら仁王像を眺めていた






三重大塔(重要文化財)
前回訪れた時は曇天の午後でうまく撮れなかった
朝の光ではどうかと思い早くに訪れたのだが同じような感じであった



塔の周囲は高い木に囲まれ、自動設定ではで撮ると黒くつぶれてしまう












鐘楼



手水舎



金堂(大日堂)
インド僧婆羅門僧正は、当寺に釈迦の左眼を納めて「乙寺」と名づけたといわれている
右眼は中国に納められ「甲寺」と呼ばれた
平安時代 後白河天皇は、左眼を納める金塔を寄進して、乙寺から「乙宝寺」に改名されたといわれている
(以上HPから)













芭蕉句碑
元禄2年(1689年)7月1日、松尾芭蕉は奥の細道で当寺を参拝
『うらやまし浮世の北の山桜』



観音堂



本尊は如意輪観世音菩薩






釈迦如来









六角堂






八所神社(新潟県指定文化財)









来た道を戻り駐車場に向かう












撮影 令和3年6月6日
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如意山 乙宝寺(新潟県胎内市乙)

2021年09月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月6日

如意山 乙宝寺(おっぽうじ)
令和元年10月に一度訪れ、今回が二度目になる



楽しみにしていたということもあり、駐車場には6持45分に着いた



金毘羅堂



弁天堂(新潟県指定文化財)









仁王門









仁王像
鎌倉期に制作された仁王像の修復作業中ということで今回は一体のみ



総工費2,500万円 完成年度令和8年
5年後には放浪の旅は無理だろうと思いながら仁王像を眺めていた






三重大塔(重要文化財)
前回訪れた時は曇天の午後でうまく撮れなかった
朝の光ではどうかと思い早くに訪れたのだが同じような感じであった



塔の周囲は高い木に囲まれ、自動設定ではで撮ると黒くつぶれてしまう












鐘楼



手水舎



金堂(大日堂)
インド僧婆羅門僧正は、当寺に釈迦の左眼を納めて「乙寺」と名づけたといわれている
右眼は中国に納められ「甲寺」と呼ばれた
平安時代 後白河天皇は、左眼を納める金塔を寄進して、乙寺から「乙宝寺」に改名されたといわれている
(以上HPから)













芭蕉句碑
元禄2年(1689年)7月1日、松尾芭蕉は奥の細道で当寺を参拝
『うらやまし浮世の北の山桜』



観音堂



本尊は如意輪観世音菩薩






釈迦如来









六角堂






八所神社(新潟県指定文化財)









来た道を戻り駐車場に向かう












撮影 令和3年6月6日
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如意山 乙宝寺(新潟県胎内市乙)

2021年09月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月6日

如意山 乙宝寺(おっぽうじ)
令和元年10月に一度訪れ、今回が二度目になる



楽しみにしていたということもあり、駐車場には6持45分に着いた



金毘羅堂



弁天堂(新潟県指定文化財)









仁王門









仁王像
鎌倉期に制作された仁王像の修復作業中ということで今回は一体のみ



総工費2,500万円 完成年度令和8年
5年後には放浪の旅は無理だろうと思いながら仁王像を眺めていた






三重大塔(重要文化財)
前回訪れた時は曇天の午後でうまく撮れなかった
朝の光ではどうかと思い早くに訪れたのだが同じような感じであった



塔の周囲は高い木に囲まれ、自動設定ではで撮ると黒くつぶれてしまう












鐘楼



手水舎



金堂(大日堂)
インド僧婆羅門僧正は、当寺に釈迦の左眼を納めて「乙寺」と名づけたといわれている
右眼は中国に納められ「甲寺」と呼ばれた
平安時代 後白河天皇は、左眼を納める金塔を寄進して、乙寺から「乙宝寺」に改名されたといわれている
(以上HPから)













芭蕉句碑
元禄2年(1689年)7月1日、松尾芭蕉は奥の細道で当寺を参拝
『うらやまし浮世の北の山桜』



観音堂



本尊は如意輪観世音菩薩






釈迦如来









六角堂






八所神社(新潟県指定文化財)









来た道を戻り駐車場に向かう












撮影 令和3年6月6日
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新発田城(新潟県新発田市大手町)

2021年09月02日 | 
訪問日 令和3年6月5日

新発田城
新発田市は、学生時代に寮生活で同室だった朋友の出身地でもあり往時を思い出す
別名、菖蒲城(あやめじょう)
初代新発田藩主溝口秀勝が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直のときに完成した

旧二の丸隅櫓(重要文化財)
駐車場から歩いてくると最初に目に入ってくるのが「旧二の丸隅櫓」



石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる技法
白と黒が美しい海鼠(なまこ)壁で仕上げられている



新発田城は山城と違い、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城



堀部安兵衛武庸(たけつね)像
高田馬場の決闘で名を馳せた、赤穂浪士四十七士の一人が何故と思った
調べてみると、寛文10年(1670年)越後国新発田藩 溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として誕生している
武庸が13歳の時、父は溝口家を追われて浪人となる
浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという



19歳になった武庸は、江戸へ出て、堀内正春の道場に入門
天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれた
その後、あの有名な高田馬場の決闘後、赤穂藩へ仕官することとなった



本丸表門(重要文化財)



享保17年(1732年)に再建された現存の櫓門
城内に入る



橋からの眺め



初代藩主・溝口秀勝の銅像
尾張国の出身で慶長3年(1598年)に豊臣秀吉の命により加賀国大聖寺から新発田に入封した
入封当時の藩領は未開墾地だったが、治水と新田開発に努めた結果、美田広がる蒲原平野へと生まれ変わった



上杉景勝と戦って滅びた新発田氏の館跡に築城を開始
入封から56年後の承應3年(1654年)3代宣直の時に完成した






表門の内部に入る






2階に格子窓を設けている



門の真上の床を外して石落しとする構造になっている






櫓の外壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、白と黒が美しい海鼠壁(なまこかべ)で仕上げられている






旧二の丸隅櫓(重要文化財)
層塔型2重2階の移築現存の二重櫓
二の丸北部にあったのを本丸鉄砲櫓の跡に移築されたため旧二の丸隅櫓という名称になった



1階



階段



2階



旧本丸跡






辰巳櫓
かつて、堀部安兵衛の父(中山弥次右衛門)が辰巳櫓の管理責任者
櫓の失火責任を負って浪人となった






礎石が展示されていた



城郭跡の大部分は日本軍解体まで陸軍が置かれていたこともあり、現在も陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている



自衛隊の敷地内にある三階櫓の内部は公開されていない



辰巳櫓






この日、新発田市では東京五輪の聖火ランナーの準備に追われていた
数台の警察車両のために主要な駐車場が閉鎖されている
新発田城近くの駐車場が使用できなくなり困っていたら地元の女性に空いている駐車場を案内していただいた
とても親切な女性のおかげでいったん諦めかけていた城を目指すことができた(感謝)



撮影 令和3年6月5日
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福地山 種月寺(新潟県新潟市西蒲区石瀬)

2021年09月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年6月5日

福地山 種月寺(しゅげつじ)
週末で好天ということもあり車も多い
田園風景を眺めながら重文のお堂のある種月寺を目指す



六地蔵



山門
山門の前に立ったとき、このような特色ある山門を見たことがあっただろうかとしばらく考えていた
記憶にはないが素晴らしい屋根の形の山門だ



石に刻まれた「禅窟」は禅寺の意味



観音像だと思うが、美しい石仏だ
この石仏にお参りをしていた初老の女性がいたので声をかけた



山門の屋根の形について尋ねたのだが、話しはいつの間にか世間話にかわっていた
この土地に生まれ、青春時代を過ごし結婚し子供が生まれ、現在は孫の学校の送り迎えをしているとのこと
手を合わせる習慣が子供の頃から日常になっているようだ



山門について聞くことはできなかったが、桜と紅葉の季節は美しいと話してくれた









山門の彫刻



門扉に「丸に十字」の寺紋



参道を進む



廻廊門



ここにも大きな寺紋



本堂(重要文化財)
種月寺は、南英謙宗が文安3年(1446年)に創建した寺院
かつては越後における曹洞宗の四大道場(耕雲寺・雲洞庵・慈光寺・種月寺)の一つに数えられていた



現在の本堂は、出雲崎の大工・小黒甚七が棟梁となって、元禄12年(1699年)に建立された
間口24mという規模の大きい建築物



南英謙宗は、一説には薩摩の島津家の出とも云われている
種月寺の寺紋である「丸に十字紋」は薩摩島津家の家紋に通じるものがあると推察されている



本堂前は緑に囲まれている



本堂内で法事が行われていて堂内に入ることができないのでしばらく写真を撮りながら待つことにした






扁額には山号の「福地山」



銀木犀(岩室村文化財指定)



お経を聞きながら法事が終わるのを待つ






魚板






青空が美しい



数10分待ったが読経が続いていたので堂内拝観を諦めることにした
本尊:釈迦牟尼仏






撮影 令和3年6月5日
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