日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

久し振りの看護学校講義

2006-09-08 19:29:56 | Weblog
 久し振りの看護学校の講義だった。14時50分から始まって、16時30分まで、途中数分休んで、いつもの様に、ビッチリした。
 始まる前に、いつもの様に、1学期の最後にした悪性腫瘍の内容の試験を10問、その後、スライドを80枚使用し、途中で、自分の取ったテープで、クループの咳と猫泣き症候群の泣き声を聞かせた。最後に、20問の国師類似の試験。
 スライドは、まだ、1学期の11回の講義で、一度もしていなかったので、今日は、総論のスライド。看護学校にある器械でしたのだが、写りは、もう一って感じ(佐伯から、自分のを持って来た方がいいのか?)。40人の中で、寝ている人が、3人いた。
 3人の妊婦(真ん中が家内)でのショット写真、ちょうど1年後、同じ場所で、三人共、子どもを抱いて、6人でショット(並ぶ家族の順番は、常に同じ)。その後、私が佐伯に帰ったので、更に1年後、何と、子どもが又、一人増えて、7人でショット。3年後、更に4人子どもが増えて、11人でショット。学生、笑っていた。又、お産直前の自分の緊張した顔を出したら、大笑いだった。発達を自分の子どもを使って、説明。自分で見ていて、懐かしかったし、楽しかった。
 県病院での症例(入院169例)、大学病院での症例(入院135例)、西田病院での症例(入院8.956例)、統計を出して、説明。12月まで、残り10回、こんな感じでスライド中心での講義が続くのだが・・・。


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ある統計

2006-09-08 11:59:39 | Weblog

 昭和52年の大分県の乳児死亡率11.6、新生児死亡率8.9、周産期死亡率18.7は、それぞれ、全国で、ワースト4位、ワスト1位、ワースト2位であった。常に、大分県は、ワースト10に入っている感じであった(統計の取り方が、今と、若干違っているが)。
 (大分県環境保険部による資料によれば)大分県の中で、市別に見てみると、昭和49年~昭和53年の周産期死亡率(乳児死亡率)の平均では、大分市16.8(10.7)、別府市18.8(11.8)、中津市14.8(9.3)、日田市20.9(7.4)、佐伯市22.7(12.0)、臼杵市20.0(10.0)、津久見市28.4(19.4)、竹田市18.1(17.4)、豊後高田市20.7(10.4)、杵築市15.6(11.9)、宇佐市15.4(8.6)であった。
  それが、昭和55年3月末から、医療法人西田病医に、ベビールームに代わって、「新生児・未熟児センター」が、創立され、大分医大が、昭和56年の暮れより診療を始め、その後、しばらくして、県病の新生児・未熟児センターが次第に充実して行き、昭和60年には、何と、大分県が乳児死亡率4.2で、全国1位、新生児死亡率2.3で、全国1位、周産期死亡率8.0で、全国5位の快挙となった。
  佐伯市だけについて言えば、昭和61年には、周産期死亡率が、何と、0.00になってしまった。西田病院の新生児・未熟児センターだけに付いて言えば、昭和60年~平成2年のまる5年間では、年間約500の新生児・未熟児の内、死亡数わずか、5名であった(奇形児や26週未満の場合、どうしても、救えない)。

追加:県病の新生児・未熟児医療が、どんどん充実して行き(医師同乗の新生児用のベビーカーが、365日24時間、県下中、要請可能となった)、自分の体力の限界も感じる様になったので、平成2年11月に、西田病院を辞職して、開業した。佐伯市長さんが、公の席で、「大分県は、今、赤ちゃんの成績が、全国でも、トップクラスになっていますが、その中でも、佐伯市が一番いい成績になっています」と言われた。

更に追加:その後、平成4年に、乳児死亡率が、ワースト1位、新生児死亡率が、ワースト2位、周産期死亡率が、ワースト18位となり、その原因を巡って、県の方で、会合が開かれた。
(現在、日本の乳児死亡率、新生児死亡率、周産期死亡率は、世界トップレベルとなっている)




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ある子どもの死

2006-09-08 07:59:25 | Weblog
医師になって、1年半経った頃、私の勤務先が宮崎の県病から宮崎医科大学に移ってしばらく経った或る初秋の日、私が県病で主治医として見ていた女児(入院当時、3歳)の両親から、次の様な手紙を頂いた。

父親より(原文のまま)
 早速のお手紙ありがとうございました。私は来年の一月に宮崎医大に入院するのを期待していたのですが、それも叶わず残念でなりません。田原先生に全てを託していたのに、最後は、○○先生に見とられて永眠したことが悔やまれてなりません。○○先生も最善を尽くしたことには感謝しております。
 しかし、○子が白血病と診断された時に、一応はあきらめもしましたし、覚悟もできていました。しかし、あのように一命をとりとめ寛解の状態にまでなり、自宅療養で動物園等へも行けたのも全て田原先生のおかげだったと思っております。だから私も○子も全てを田原先生に託したのであり、最後も先生に見とられてと考えていました。死んだその日にも、田原先生が研究のために○子が必要であれば、献体してもいいと家内と話したものです。
 しかし、すべてはもう終わりました。
 今ようやく、四十九日を済ませ、なんとか通常の生活にもどりつつあります。今後も、いろんな苦難が待ち受けているかも知れませんが、○子を亡くしたことを考えれば、どういう苦難も乗り越える自信がつきました。
 田原先生には、本当にお世話になり、何とお礼を言っていいのかわかりませんが、○子みたいな子供ができないように研究に頑張って下さい。まずは、お礼まで。

母親より(原文のまま)
 立冬というだけのことはありまして、急に寒くなりました。
 ○子の四十九日をすませて、ようやく、あたりを見まわす余裕ができました。田原先生から、さっそくお便りがいただけて、すぐにでも返事を書こうと思いながら・・・反面書きたいことがあまりにも多すぎて気持ちの整理ができずに、返事をずるずると延ばしておりました。
 チアノーゼが腕に出ていたので、酸素テントをしてもらいました。○子は少し楽になったか、大きく目を開きました。死がそんなにも近くに来ているとは夢にも疑わす、我が子だけは助かるんだという確信で平静でした。時おり、吐くだけで苦しがりもせず、静かに静かに死の世界へ歩んだようです。一瞬目をそらしているすきに呼吸が止まりました。部長先生も心臓マッサージ(?)をして下さいました。主人が部屋についた時と同時に死の決定がありました。
 いろいろ考えると悔やまれることもありますが、痛みの期間が短かったので、○子はしあわせだったかもしれません。強いてそのように考えることにしています。あと一週間○子の様子が変化しなければ、私は仕事を止めて看病に専念する覚悟もできていましたが、教育の仕事を懸命に努力せよという○子の意志だったのかもしれません。奥様にもよくしていただいてありがとうございました。

 白血病で約一年間、全く再発しなかったこの子どもの死は、かけだしの私にとっては、かなりショックであった。この子どもの死を知った日、私は、布団の中で一晩中泣いていた。
 この子どもが亡くなる前の残暑見舞いが、両親の名前で多くの人に出されたらしく、私の家内宛にも届いている。

残暑お見舞申し上げます。
立秋とはいえ暑さが続いていますが、如何お過ごしでしょうか。
さて、今年の一月、娘の○子が病に倒れ、県病で入院生活を続けておりましたが、先月二十日に、二カ月間の家庭療養が許可され、六カ月ぶりに一家団らんの生活をしています。現在は、家族一同最上の幸福を感じています。まだ長引きそうで合うが、ここまで快復したのも皆様の激励のたまものと思っております。
今後とも最善を尽くして看病にあたりたいと思います。暑さ厳しい折御自愛を祈ります。

 その印刷のハガキにペンの添え書きで、「雲天の午後、子供の国に連れていきました。元気にとびまわって親を安心させてくれました」と、親の愛情がしるされていた。
 この子どもの死ほど、私に主治医というものの重大さを感じさせたものはなかった。どんなに医学が進もうと、患者が医師を信じることこそ、医療の原点だと思った。そして、医者たるものの第一条件は、患者の身になって命懸けで医療に取り組むことだと痛感した。
 今まで、いろんな経験をしてきたが、この時の出来事が、今でも、脳裏にしっかりと焼き付いている。


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