
○昭和61年8月5日(火)晴。
(大学の時の同級生の)○○と会った。奥さんの母親と一緒に住んでいる様だ。まだ、12月までは大学で研究したいみたいだ。佐伯の○○病院や○○病院のことも考えている様だが、自分がここにいるので、来たいみたいだ。よく喋る、他の人と同じだ、しかし、彼は、人の悪口を決して言わない。立派だと思う。35歳、彼は、正に人生の曲がり角に来ているのだ(卒業式の時、クラスの総代で、昔から日本語の本を読まないことで知られていて、今でも英語の論文を書き続け、アメリカの心電図の教科書でもしばしば彼の名前を目にすることが出来る程の実力の持ち主)。同級生の(とても親しくしていた暗記の)○が、一度、厚生省に入ったのに、又、臨床医(産婦人科医)になっているとのこと。
○昭和61年8月6日(水)晴。
15:30から津井に行った。○山家と一緒に、佐伯タクシーのマイクロバスに乗って泳ぎに行った。ゆっこちゃん、ふみちゃん、りょうこちゃんも一緒に、全部で13人だった。とても楽しかった。写真もビデオもバッチリ撮った。その後、カナールで夕食を摂った。頭が少し痛い(高血圧のせいか?)。もちろん、お金は自分が全部出したが、お金をホントに有効に使ったって感じがした。
○昭和61年8月9日(土)晴。
待ちに待った日だった。夜、20:00に別府の白菊に18人集まった(次兄嫁とその長女以外が:当時医学部専門生、現在産婦人科医)。父上は、とても嬉しそうだった。血圧計を持って一人ずつ測ったら、下が100以上あり(大ショック)、母上と○子お姉さんが要注意であった。まだ、自分は死んでは困るのだ。その点、父は、元気だなあ。
○昭和61年8月10日(日)晴。
頭が少し痛かった。22:00過ぎに白菊を出て、杉の井パレスに行って、大劇場で集まった。遅れて来た二人が来て、20人が一緒に写った(これが最初で最後の20人の記念すべき写真となり、現在、その写真が、佐伯の父母の家の祭壇の傍に飾られている)。母上は、少しきつそうだった。父上は、二日酔で少しフラフラしていた。17:00前に佐伯タクシーのマイクロバスが来て、佐伯に帰った。皆、楽しそうだった。自分には、少しきつかった。荷物が結構重かった。
○昭和61年8月13日(水)晴。
カナールで食べた。血圧のことが気になって、あまり食べれない感じ。血圧、下が90~95ある。いつも下が90以下になる様に頑張らないといけないなあ。やせるといいのだが。胸も痛い(重たい荷物を持ったせいとは思うが・・・、この時、既に、左脚前枝ブロックあったと思われる)。(母校の佐伯)鶴城が(甲子園)で勝った。(校歌の)「山姿深くに」が流れた。スゴイー、ピッチャーの野村がスゴイ。次の試合に勝てば、ベスト8になるなあ(ベスト8まで行った)。
○昭和61年8月20日(水)晴。
灘にある(病院の女子ソフトボールがいつも練習している)運動場で、病院の供養盆踊り大会があった。浴衣を初めて作ってそれを初めて着て、踊った。1.500人位集まるだろうと病院は見込んでいたが、実際は、何と3.000人程集まった。スゴイ、病院側は、配るモノが足りなくて、嬉しい悲鳴を上げていた。
○昭和61年8月28日(木)雨。
台風13号のせいで雨がよく降る。今日の午後は、宮医大から早川教授による特別外来診察日。心臓の患者さんが、何と46人も来た。多くなった。エコーと心電図をよく見てもらった。教授に、小児科医1人欲しいと頼んだ。