○昭和62年2月28日(土)晴。
宮医大から○○先生が来て、宮医大の入局は3人位になりそうだとのこと。少ないなあ。いつになったら多くなるのかなあ。大分医大も少ない。何故かなあ。スタッフが少ない為の教育上の問題かなあ。一体、どこに行っているのかなあ。お金が入らない(忙しい割には少ない)のが小児科。まあ、ホントにやる気のある人のみ来たらいいと思う。若き日の患者の為にとの本来の医者たるべき目的は、失せてしまっているのかなあ。それとも、今の小児科の姿に耐えられないのかなあ。
○昭和62年3月1日(日)晴。
12:30まで子守りをした。伸ちゃんがウンチをして、困った。おしめ一つ替えるにも、大変だ。子どもを生んだ女性と言うのは、本当に偉大な存在だと思う。子育てって、立派な職業(親業)、仕事だと思う。
○昭和62年3月5日(木)晴。
3回目の校正を恵ちゃんからもしてもらった。37歳にして、こんな本が出来ること、嬉しい。
○昭和62年3月13日(金)雨。
4回目の校正をしたのを出した。320頁にもなった。出来るまでに3カ月半以上も要した。要領が分からなかった。100万余も掛けて。買おうと思っても買えないし、自分が贈呈するしかない本、それが、自分が作った非売品の本だ。
○昭和62年3月17日(火)雨。
雨が降っているので少ないと思ったが、そうでもなかった。けいれんで元気のない子、心配。結構ひどいのも来るけど、殆どが元気になっている。しかし。時々不幸になるが、そうなる前に医大に送っていると言うのがここのパターンだ。大分医大が出来てホントに助かる。今から先、ここの小児科はどうなるのかなあ。火曜の健診、30人を切ることが少なくなったなあ。自分も、いつまでもこのままでいいとは思わない。
○昭和62年3月21日(土)晴。
本を受け取った。信じられないって感じだった。本当に自分が書いた本なのだ。興奮がなかなか抑えられなかった。白潟の両親にさっそく持って行った。
○昭和62年3月24日(火)晴。
郵送でアチコチ配った(医学部80校、その他、いろんな所300カ所以上に)。郵送料も沢山要った。宛名書きを恵ちゃんとして、大変で、入れ込むのも大変だった。
○昭和62年3月28日(土)曇。
何とか1週間もった。体がホントにきつかった。明日、休んで元の体に戻さなくては。ゴルフの幹事もあるし。
○昭和62年3月29日(日)雨。
風邪で調子が悪い。こんな時、代わりの小児科医がいてくれたらなあと思う。
○昭和62年3月31日(火)晴。
昼に家に帰ったら恵ちゃんから、「いい事があるよ、一番来て欲しい人から来ている」と言われた。やはり、(いつも恵ちゃんに言ってきた、私の最も尊敬する医師、元鹿児島大学学長の)井形先生からだった。一気に読んでもらえたとのこと。全部読んでもらって返事を頂けたのは、この人が初めてだった。やはり本当に偉い人は、心掛けも桁外れにスゴイと思った。額に入れて先生の書かれたハガキを飾りたい気持ちで一杯だった。
宮医大から○○先生が来て、宮医大の入局は3人位になりそうだとのこと。少ないなあ。いつになったら多くなるのかなあ。大分医大も少ない。何故かなあ。スタッフが少ない為の教育上の問題かなあ。一体、どこに行っているのかなあ。お金が入らない(忙しい割には少ない)のが小児科。まあ、ホントにやる気のある人のみ来たらいいと思う。若き日の患者の為にとの本来の医者たるべき目的は、失せてしまっているのかなあ。それとも、今の小児科の姿に耐えられないのかなあ。
○昭和62年3月1日(日)晴。
12:30まで子守りをした。伸ちゃんがウンチをして、困った。おしめ一つ替えるにも、大変だ。子どもを生んだ女性と言うのは、本当に偉大な存在だと思う。子育てって、立派な職業(親業)、仕事だと思う。
○昭和62年3月5日(木)晴。
3回目の校正を恵ちゃんからもしてもらった。37歳にして、こんな本が出来ること、嬉しい。
○昭和62年3月13日(金)雨。
4回目の校正をしたのを出した。320頁にもなった。出来るまでに3カ月半以上も要した。要領が分からなかった。100万余も掛けて。買おうと思っても買えないし、自分が贈呈するしかない本、それが、自分が作った非売品の本だ。
○昭和62年3月17日(火)雨。
雨が降っているので少ないと思ったが、そうでもなかった。けいれんで元気のない子、心配。結構ひどいのも来るけど、殆どが元気になっている。しかし。時々不幸になるが、そうなる前に医大に送っていると言うのがここのパターンだ。大分医大が出来てホントに助かる。今から先、ここの小児科はどうなるのかなあ。火曜の健診、30人を切ることが少なくなったなあ。自分も、いつまでもこのままでいいとは思わない。
○昭和62年3月21日(土)晴。
本を受け取った。信じられないって感じだった。本当に自分が書いた本なのだ。興奮がなかなか抑えられなかった。白潟の両親にさっそく持って行った。
○昭和62年3月24日(火)晴。
郵送でアチコチ配った(医学部80校、その他、いろんな所300カ所以上に)。郵送料も沢山要った。宛名書きを恵ちゃんとして、大変で、入れ込むのも大変だった。
○昭和62年3月28日(土)曇。
何とか1週間もった。体がホントにきつかった。明日、休んで元の体に戻さなくては。ゴルフの幹事もあるし。
○昭和62年3月29日(日)雨。
風邪で調子が悪い。こんな時、代わりの小児科医がいてくれたらなあと思う。
○昭和62年3月31日(火)晴。
昼に家に帰ったら恵ちゃんから、「いい事があるよ、一番来て欲しい人から来ている」と言われた。やはり、(いつも恵ちゃんに言ってきた、私の最も尊敬する医師、元鹿児島大学学長の)井形先生からだった。一気に読んでもらえたとのこと。全部読んでもらって返事を頂けたのは、この人が初めてだった。やはり本当に偉い人は、心掛けも桁外れにスゴイと思った。額に入れて先生の書かれたハガキを飾りたい気持ちで一杯だった。