

アメリカ側の誘いで、平成19年12月中頃に、日本の真珠湾攻撃で闘った同志が、66年後に、その真珠湾の近くの野球場で、75歳を越えた年齢(平均80歳)で再び野球を通して平和に闘ったのである。
闘いは「14対2」の大差で日本側の負け。しかし、それにより、両者共に今までの憎しみやわだかまりが消えている。アメリカ側に、直前になって参加しなかった人もいた。わずか3日間で、相手に対する感じ方がはっきりと変化していて、両者共、参加して、ずっと溜めていた今までの思いを吐露し、そして、アメリカ側も、忘れることが出来ないが許すことを出来ることをしっかりと伝え、日本側も(初めはぶん殴られるんじゃないかと思っていたみたいだが)初めから友好的に接してくれたことで、恐怖が驚きにそして喜びに、更には深い友情に変わっている。その参加者の一人であるカール・ソマー(81歳)さんは、試合後に、帰宅して何度も「最高だった!」と奥さんに言って、安心し切った顔で椅子に揺られながら亡くなっている。
(佐伯市の隣の市の)津久見市に住んでいる伊達進(79歳)さん(試合では、最後までピッチャーとして投げ抜いた)は、生年月日がたまたま同じ相手チームの人と気が合って話し込み、次の様に言っていた、「生きてきて良かった、本当の気持ちが言えた、同じ人間じゃ、アメリカ人も同じ人間」と。帰って、野球を教えている子ども達に「仲良くなって帰った」と報告しているが、子ども達の反応はもう一?!
*佐伯市は、ホノルル市と「友情都市」の関係にあり、その調印式の時に、「さくら」の曲を篠笛で演奏させて頂いた。又、多くの戦死者を弔う意味で、パンチボールで太鼓の演奏をさせて頂いた(後で考えると、よくこんな事が私に許されたなあと思っています)。
(平成15年にホノルルに行った赤松さんも、ハワイから帰って数ヶ月せずして亡くなり、又、フィスケさんも、その後直ぐに亡くなってしまった。赤松さん、帰ってからしきりにもう悔いないと言われていました)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060929/2
上の(携帯電話で撮ってもらった)写真は、小雨の中、飯田中佐の前で無心になって太鼓を打っている私。