日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

日米再び決闘?!

2008-02-23 12:01:20 | Weblog
  平成20年2月22日の22:00からのNHKのプレミアム10で、「80歳の決着~元兵士たちの日米野球~」かっての敵と野球球場で出会ったおじさん達奇跡の試合と題して放映があった。  
 アメリカ側の誘いで、平成19年12月中頃に、日本の真珠湾攻撃で闘った同志が、66年後に、その真珠湾の近くの野球場で、75歳を越えた年齢(平均80歳)で再び野球を通して平和に闘ったのである。  
 闘いは「14対2」の大差で日本側の負け。しかし、それにより、両者共に今までの憎しみやわだかまりが消えている。アメリカ側に、直前になって参加しなかった人もいた。わずか3日間で、相手に対する感じ方がはっきりと変化していて、両者共、参加して、ずっと溜めていた今までの思いを吐露し、そして、アメリカ側も、忘れることが出来ないが許すことを出来ることをしっかりと伝え、日本側も(初めはぶん殴られるんじゃないかと思っていたみたいだが)初めから友好的に接してくれたことで、恐怖が驚きにそして喜びに、更には深い友情に変わっている。その参加者の一人であるカール・ソマー(81歳)さんは、試合後に、帰宅して何度も「最高だった!」と奥さんに言って、安心し切った顔で椅子に揺られながら亡くなっている。
 (佐伯市の隣の市の)津久見市に住んでいる伊達進(79歳)さん(試合では、最後までピッチャーとして投げ抜いた)は、生年月日がたまたま同じ相手チームの人と気が合って話し込み、次の様に言っていた、「生きてきて良かった、本当の気持ちが言えた、同じ人間じゃ、アメリカ人も同じ人間」と。帰って、野球を教えている子ども達に「仲良くなって帰った」と報告しているが、子ども達の反応はもう一?!
*佐伯市は、ホノルル市と「友情都市」の関係にあり、その調印式の時に、「さくら」の曲を篠笛で演奏させて頂いた。又、多くの戦死者を弔う意味で、パンチボールで太鼓の演奏をさせて頂いた(後で考えると、よくこんな事が私に許されたなあと思っています)。
 
(平成15年にホノルルに行った赤松さんも、ハワイから帰って数ヶ月せずして亡くなり、又、フィスケさんも、その後直ぐに亡くなってしまった。赤松さん、帰ってからしきりにもう悔いないと言われていました)  
 
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060929/2

上の(携帯電話で撮ってもらった)写真は、小雨の中、飯田中佐の前で無心になって太鼓を打っている私。

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為になるかも知れない本(その282)

2008-02-23 08:56:23 | Weblog
○昭和63年1月12日(火)晴。
 院長が代わってから、まず、薬の購入を安くすることを強調した為に、○○先生、○○先生、○○先生も気分が悪くなっている感じだ。使いたい薬を仕えるのがここの病院のメリットだったのに・・・。経営上、その前にもっとすることがあると思うのだが。
○昭和63年1月18日(月)晴。
 大変な日だった。(小児科入院大部屋9ベッドの隣にある小児科部長室の)自分の部屋のちょうど上の(2階の)トイレの管が詰まって、汚物の液が上から流れてきたのだ。臭い。しかし、スタッフが助けてくれて、後片付けが上の階も、自分の部屋も、超スピードで終わった。それにしても、ズサンな工事をしているもんだ。
○昭和63年1月19日(火)晴。
 朝婦長が部屋のジュウタンをどうしても替えた方がいいと言う。で、皆の協力で新しいジュウタンが敷かれてきれいになり、前よりも明るくなった。前よりも色がゆったりとした感じになった。
○昭和63年1月21日(木)曇。
 部屋が片付いた。前と比べると全然違うって感じだ。ナースの話だと、「田原先生って個性的な人間ですね」と、新しく来た(大分医大小児科の)内山聖助教授が言っていたとのこと。そうだ、自分ほど何でも善意に解釈して前向きに積極的に生きられる人間は、そんなにいないと思う。今の自分は、ホントに真面目だと思う。まあ、少し不真面目な所もあることは否めないが。それにしても、この時期にしてはけっこうヒマだなあ。
○昭和63年1月24日(日)晴。
 早川先生の還暦祝いが(宮崎の)観光ホテルであった。教室員が33人も集まって祝ってもらえるなんて、教授になって今日の日が今までで一番最高の日ではなかったかなあ。何やかや言っても、教授は優しいし、人の悪口を言わないし、威張らない。他の大学の教授と比べても、一番気軽に話すことの出来る教授だ。(教室員の)○○先生も、「教授が替わったら、他の所に行かんといけん」とも言われていた。
○昭和63年1月27日(水)晴。
 (両親のいる)白潟に行って、美味しい甘酒を飲んだ。冬はやはり太るなあ。痩せるってホントに大変だなあ。この日は恵ちゃんの誕生日だったので、福寿司から寿司を取った。何と、恵ちゃんは35歳にもなってしまった。どんどん歳を取って行く。このままで直ぐに50歳に達しそうだなあ。人生、30代って、ホントに大切な時だと思う。20代までは失敗は許されるが、30代で40代からの基礎固めをして、40代は30代の土台があっての開花で、運が良ければ、50代で華が咲くかな。60代は、もう体力ないから、その時に状況に応じて生きるしかないなあ。

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為になるかも知れない本(その281)

2008-02-23 08:47:03 | Weblog
昭和63年(1988年)年頭所感(今から20年前)
1、患者さんを大切にする。
2、早寝早起き
 5:50起床(今までは6:00)→5:20目標
 6:00食事(今までは6:10)→5:30目標
 6:30勉強(今までに6:40)→6:00目標
3、体力作り
4、1週間に少なくとも1冊本を読む。
5、英会話
6、パソコン(今年中に購入)
7、体重63~65Kg(夏休みまでに少なくとも65Kgに)
8、整理整頓そして勉強
9、お金を有効に使い、そして、貯める。
10、自分で出来ることは自分でする。

○昭和63年1月3日(日)晴。
 昨日は100人越えたのに、今日はメチャ少なかった。こんな感じでもう一人小児科医、ホントに来てくれるのかなあ。来たからと言って、患者さん多くなるかなあ?
○昭和63年1月5日(火)晴。
 昼にドクターが集まっての食事会が上であって、薬を絞れば月に200万~300万は浮くって感じで言われた。こんな風な医療での締め付け、自分がここに来て初めてだった。1カ月に9.000万も要っているとのこと。人件費で、半分も要っているとのこと。事務サイドが、朝早くから来て夜遅くまでして欲しい様なことを暗にほのめかしていた。病院何て、ドクターのやる気と病院の無駄を省くことが最も大切だと思うが、新年早々、あまり面白くないなあ。


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