日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

いつまで続けるのか、こんな教育(下)

2008-02-14 15:46:14 | Weblog
 私なりの教育改革論
 
 元は、やはり大学改革(社会の受け入れ体制がもっと本当の実力を大切にする様になってくれることが望ましいが、今は、結構能力主義的な職場が多くなっている)だと思う。

1、旧帝大を失くし、それ等は、全て研究機関とする。
 例えば、熊大と長大がどちらが上とか下とかは、あまり問題にならない。地方の大学に行くのに、小学校の時から塾通いなんて、滑稽に受け取られるから、その内、塾に行く必要も受験勉強も今ほどではなくなるだろう。(ドイツでは、大学のレベルは、どこもほぼ同じ)
2、医学部と教育学部は、大学卒業後に、受験する(大学院大学)。
 ホントに医療や教育をしたい人が選ばれるべきである。又、社会もそれを望んでいると思う。(アメリカの様に)
3、入試を春と秋の2回とする。(別府にあるアジア太平洋大学の様に)(いい生徒に機会を沢山与えて、じっくりと時間を掛けて選ぶべきである)。
4、その大学の出身者がその大学の教授になれない様にし、教授に期限を設ける。
5、小・中・高の校長の採用は、オープンにし、その期限もしっかりと設けて選出する。その代わりに、校長に独自の強い権限を与える。
6、義務教育であっても、基本的なことが出来ていない場合は、落第の制度を設ける。(先進国で義務教育に落第の制度がないのは、日本ぐらいのもの)
追加:大学での講義内容や試験問題が良くない。毎年同じ講義内容や試験問題を出す教官もいるし、感情で落としたりする教官もいる。是非、教官の評価を学生自身にさせて、それで良くない人は、(アメリカでしている様に)次回から遠慮してもらいたい。看護師国家試験や医師国家試験の問題も、資格試験であるからして、落とす為の試験でない様にしてもらいたい。

 情熱を持って教えることの好きな先生に教師になって欲しい。楽しい学校生活であって欲しい(不登校なんて、ホントに楽しければないはず)。大人の目線でなく、子どもの立場になって考えて欲しい(子どもの吸収力は、大人の比でない)。

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いつまで続けるのか、こんな教育(中)

2008-02-14 15:42:37 | Weblog
 昭和62年10月25日に出版された「さよなら東大」大宮知信(文藝春秋)の中で、受験戦争の勝利者になるはずのエリートの新人類がよく罹患する「青い鳥症候群」についての名古屋市大の清水将之先生の内容である。
 有名進学校を経て、一流大学を優秀な成績で卒業して、一流企業や中央官庁に就職した若者たちばかりである。人もうらやむような肩書き超エリート青年が、就職して二、三年後に突然退職して周囲の人たちを驚かす。大抵は中小企業の下級管理職への就職が既に決まっていることが多いようである。一見、若年エリート社員のスカウト工作ともみえる。
 この種の若者は、そういったことを数回繰り返して、結局は社会から脱落してゆく。よく調べてみると、どのケースも、もっと自分に適した仕事が、もっと自分を高く評価してくれる職場があるいのではないかという幻想を抱いて、世の中を目算もなく転々としているということがわかってくる。メーテルリンクの童話になどらえて、このような病態を私は青い鳥症候群と名づけた。
 彼らは大抵、教育過熱の親に育てられ、青年期を高学歴獲得一筋に過ごしている。交友、友情、本物の趣味といったものを持ち合わせていない。すなわち、青年期において最も大切な自我同一性の獲得を棚上げして、成人社会に参入してきた、当世風の人格形成の半おとなと申してよいであろう。
 結果として、彼らは尊大さ、ひとりよがり、自己中心性をしっかりと身につけ、協調性、自省、忍耐力といった社会人としての要件が欠落している。
 以上のような特徴から、青い鳥症候群が従来「同一性拡散症候群」とよばれている精神病理像にかなり近似したものであることが理解されるであろう。
 ただ、同一性拡散症候群と異なるのは、青い鳥症候群がかなり人為的に作り出されてきた病理のようだというところである。すわなち、このような事例の多くは、個人的な教育努力によっていわゆるエリート青年を育成することが出来ると盲信して育児に専念してきた、教育過熱の親たちの子どもであるという共通点を持っている。
 このように、青い鳥症候群は狭義の疾病ではない。また、心のひずみが原因で、そこに社会不適応という事態が生じているということを、青年自身もその親も自覚することがない。したがって、本人あるいは家族が精神科医の診察室へやってくることは、まずないと考えてよい。
 青い鳥症候群の青年にまず接するのは、大企業の中で業務を担っている産業精神科医である。それも青年に直接面接するのではなくて、大抵は、職場のバランスを乱す厄介な若手社員に手を焼いた上司が精神か診察室へ相談にやってくるという形である。そして精神科医はそこで為す術を持たない。
 医学モデルを援用して、本症候群に「治る」ということがあるとすれば、それは本人と親とが揃って虚偽エリート意識を放棄し、尊大さを抑えて周囲の人たちと「妥協」する術を身につけ、より低い水準での社会機能水準に安住する覚悟ができた時であろう。青い鳥症候群に関しては、治療でなく、予防(家庭内養育の適正なあり方)を最優先に考えるべきであろう。

 受験では、入れる枠が決まっている。努力しても、それ以上に努力した人には勝てない。競争からでは、共存や共生の精神は生まれない。いっそのこと、一定の基準を満たした者は全て入れ、それなりに能力のある人のみ、進級させればいいと思うのだが、何故か、進級は思った以上に容易(全ての大学の全ての科がそうではないが)。又、大学で再び資格試験などの為に予備校まがいのことをしているとしたら、一体、人間的な成長は、どこで行われると言うのだ。受験の勝者も敗者も、受験テクニックに要するエネルギーは大きく、失ったモノの方が多い(まず、体力がなくなる。意欲がなくなる。他人に対する思いやりがなくなる。協調性がなくなる。自分なりに目標を持ち、自分なりにやり遂げようと言う至誠が希薄なるなど)。

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いつまで続けるのか、こんな教育(上)

2008-02-14 15:38:59 | Weblog
 日本の学校教育は、自分の頃と比較しても、根本的な所は何も変わっていない感じに思える。
 昔は、学校の先生が出来ない子を残して教えていたし、そのシーンを今でもはっきりと覚えている。正に、教師は聖職だった。それが今や、小さい時から塾通い。ジュクジュクした子がどんどん出来ている感じだ。
 子どもって、元々、好奇心が旺盛なはずだ。それが、上からどんどん情報過多って感じで処理できる以上に入れられると、その後、一番肝心な自分なりに楽しく探索しようと言う回路が切断されてしまう。これは、この子にとっても、将来の日本にとっても、大きな損失だ。
 以下は、かなり昔になるが、昭和62年(!)9月9日に、朝日新聞に掲載された内容。

 「受験戦士はいま・・・」
 私は今、私立中学の三年生。その中学受験の体験談を聞いて下さい。
 小一のときから、母がびっちりついて勉強を教えてくれました。小三になり、有名なA進学教室に入るために塾に通い始めました。母からは、だた「Aに入るのよ」といわれていました。学校の学習が、バカのように簡単に感じられました。小四の十二月、A進学教室の準会員に合格。そこに通うと同時に、その進学教室の勉強を教えてくれる塾にも通うようになり、一挙に週四日の熟通いとなりました。
 両親、祖母、おば、おじに「有名校に入って、有名大学に入ってこそ、いい友達、先生に会えて幸せになるのよ」とずっと教育されてきた私にとり、その他の生活をしている人は同情の対象でした。
 小六になり、志望校三校は、すべて両親が決めました。さすがに「私の意見もきいてほしい」といいましたが、無理なのです。それまで、すべて周りが決めてきた。だから、自分で決めるなんて無理なのです。
 第一志望は、コネがなければ、筆記で二十位以内に入らないと合格しないという超お嬢様学校。母は知人を通してコネをつくってくれました。私は自分が何をしていいのかわからず、勉強は全くしないようになりました。ふりだけして、実際は何もしませんでした。
 今は第三志望の学校に行っています。あれは何だったのか。今考えても寒気がします。学歴さえよければ、という自分の考えのあやまちに気付いた時のショック、わかりますか?今までずっと信じてきたものが、足もとからくずれていくようでした。
 今の私は打算的で、夢のない、無気力な人間です。友達とのつき合い方もしらない私はただただ教育者の皆さんへお願いするだけです。どうぞ教育を自分たちだけでおしすすめないで下さい。私は絶対に立派な人間になってみせます。ある意味ではいい体験だったのかもしれません。
                 (神奈川県 匿名希望 14歳)


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為になるかも知れない本(その270)

2008-02-14 08:34:03 | Weblog
○昭和62年(西暦1987年)4月19日(日)晴。
 朝、早く起きたのが良かった。よく眠った。休みの時でも、リズムを崩さない為に、朝早く起きることが大切だ。それには早く寝ることだなあ。来週は、学会で発表だなあ。本出版で金欠病。肩懲り病。勉強不足。継続力なし。ゴルフ、100を切るには、相当努力しないといけないなあ。
○昭和62年4月21日(火)雨。
 今から病院に6:30までに来ることにしようかなあ。そうすれば、朝1時間も勉強が出来る。この積み重ねが大切だ。そう、井形先生の様に。6:10に朝食を摂り、6:20に家を出ればいい。何故これに気が付かなかったのかなあ。
○昭和62年4月26日(日)雨。
 学会があった。喋り過ぎたかなあ。あまり自分が出しゃばり過ぎた感じだったかなあ。サルモネラでの抗生物質の使い方の件、ナウゼリンの使い方の件(乳児には使えない)、何か下痢についてのシンポジウムって感じだった。
○昭和62年4月28日(火)晴。
 鹿児島大学の新入生のオリエンテーションで、自分の「為になるかも知れない本」が全員に配られることになった為に、鹿児島に送った。
○昭和62年4月30日(木)晴。
 休み明けのせいで、170人程来た。本の返事が来るけど、形式的なものもある。しかし、それでも有り難いと思う。鹿児島大学入学1年生がどう思ってくれるかが問題だなあ。


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