日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その298)

2008-03-08 12:21:02 | Weblog
 娘の作文(お父さんファイトォ!)
 大分県佐伯に帰って来た時、子どもはまだ一人(長女)で、それもまだ1歳であった。宮医大にいた時も、夜12:00頃に帰り、朝の8:00までには病院に行き、祝・日曜も病院に行っていたので、その時に生まれた長女の起きた顔を見ることが少なく、おもつを換えたり、離乳食をあげたり、風呂に入れた思い出がない。
 西田病院に就職してからの最初の数カ年間というものは、深夜(それも3:00~6:00に)毎晩の様に家に電話が掛かってきて、その度毎に家族全員が起きていた。「子どもが親を見る目は冷蔵庫の氷よりも冷たい」と言われているが、その長女が(現在29歳、結婚後に、カイロプラクターになる為に、現在アメリカ大学院在学中)が自分をどう見ているかは、親である私にとっては最も今まで気にしていた事である。63年の5月(当時9歳)に書いているこの作文を見る限り、よく見ているなあと感心するより、親の価値観がそのまま子どもに行く感じがして、親の責任を感じないわけにはいかない。

 私のお父さんは、小児科医です。1日に90人~150人ぐらい、かんじゃさんが来ます。お父さんが行っている病院の小児科には、私のお父さん1人しかお医者さんがいません。たいへんです。
 お父さんは、朝、6時に起きて、6時20分に家を出ます。本当は、9時30分までに行けば良いのですが、早く行って、勉強をしています。夜も、8時に行きます。時々、真夜中によび出されることもあります。
 お父さんのしんさつは、とっても早いです。1人、1分~2分ぐらいです。
 早いのは、しんさつだけでなく、書くのもなんです。そのかわり、私には「と」も、「へ」も、読めません。お父さんも、後でカルテが読めないそうです・・・・・。
 お父さんは、帰るとたいてい、ソファーにねころがって「ミーちゃん(私のニックネーム)もうふもって来て!」と、言います。
 ねている間、とてもびんかんで、小さい小さい音でもすぐに目がさめます。ですから、どろぼうが入っても安心かな!?と思います。
 お父さんの好きなことは、三つ。これがないと、生きていけないそうです。一つはねること。「気持ち、いいんだもーん!」だそうです。
 二つめは、食べること。お父さん、どっちかって言うと、太ってるんです。ダイエットして、10キロほどへったのですが、やめてしまい、このごろいつも、「ミーちゃん、明日からまたダイエットすることにした!」と言うので、私もいつも、「いつもそう言ってるの、だ、あ、れぇ?」と言います。すると、お父さん、負けずに、「明日からぜったい!」と言ってしないのです。
 三つめは、音楽を聞くこと。真夜中、トイレに行くと、音楽がかかっていることがあります。この三つが、お父さんの好きなことです。
 それと、お父さんは、とても教育にきょうみがあります。そのことを、お客さんが来れば、つかまえて長々と話しています。時々講演もしています。今、「学校の先生になればヨカッタ!」と言っています。いつも、「学校のことだけすれば、じゅくなんか行かなくていいの!じゅぎょうをきちんと受ければいいの!」と、言ってくれるのです。
 お父さんが、やろうっ!と思ったことには、かならず終わりがあります。たとえば、星のこと。冬の六角形を知って、すごい!と思い、本をたくさん買って来て、勉強したのですが、今は・・・・やっていません。本で読んだことは、おぼえていますけどね・・・・。
 そして、これはいいことです!お父さんの病院の小児科に、もう一人、お医者さんが来るのです!あとわずか。早く6月になればいいのに!と思います。
 6月までガンバッテ!お父さん、ファ・イ・トォ!!
     (平成元年4月号の西田病院月報より)


*その後、2年間だけ、医大から小児科医が来て助かったが、再び一人となり、やむなく開業。開業も19床の入院設備を持ってした為に、採算が合わなくなって8年半でやむなく閉院。その後、再び勤務医となり、その間、趣味に没頭し、海外旅行の魅力も味わって今日に至っている。今後は、壊れた自分の体をいたわりながら、仕事量をセーブし、家内も大切にして、悔いなく過ごすつもりでいる。



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為になるかも知れない本(その297)

2008-03-08 12:14:47 | Weblog
 西田病院で研修した○○○○君は、卒業時に「フリートーク」と題する小雑誌を発行したが、その中での内容。

 誤 解
 世の中には、よく誤解されいる事がある。僕自身もよく誤解されたし、逆に誤解する事もあったように思う。だから、この話も誤解を恐れずに書く事にしたい。
 昭和59年4月、僕は鹿児島大学に入学した。僕の実家は種子島の中でもさらに田舎の方にあったし、両親とも大学を出ていないので、これはちょっとした事件だったようだ。ところが、入学するといろんな話を聞くようになった。
 鹿児島大学は国立である。また、国立大学はどの学部でも授業料や入学金は同じと定められている。つまり東大も鹿大もこの点では同じである。ところが、僕が入ったところが医学部だったため、僕の両親は私立大のような高い入学金を払っているものと誤解されていたらしい。
 また、医学部を出て医者になれば皆すぐにお金持ちになるという人がいるが、これも誤解だと思う。医者の未来は考えているほど甘くないとよく耳にするし、ある病院の研修医は3日に1回当直があり、毎日ほとんど寝る暇もんないくらい働いて、ボーナスもなくもちろんアルバイトもできない。
 「医学部に行って医者になるより公務員になった方が良かったのに」と、わざわざ助言してくれる人もいたが、これも誤解であろう。医者で公務員の人なんていっぱいいる。
 「お前なんか、医者になって手術が出来るものか」これも実際に僕がある人に言われたことだが、手術をやるだけが医者の仕事ではないはずだ。それにしてもずいぶんとひどい事を言うもんだ。
 「あと何年かたつと、もう口も聞いてくれなくなるんだなあ」これに至ってはなぜこんな事を言うのかさっぱりわからない。多分こんな人が昔いたのだろうが、まずありえないことだ。
 書いているうちに、だんだん腹が立ってきたのでここらでやめにしたい。くれぐれも誤解なさらないように。僕も気をつけます。


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