日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その66)

2007-04-15 08:22:19 | Weblog
phone/}○専門3年、12月17日(火)晴。(33年前の日記です)
 あと130ペ一ジ、頑張らなくちゃ。しかし、人間、やる気になれば何でも出来る感じだ。あまり眠っていないが、死ぬことはないだろう。小児科、それに精神科が最大の山だなあ。
○専門3年、12月25日(水)晴。
 二内、バッチリ出来た。まともな問題だったので、今までの科目の中で、一番出来たかも知れない。(何々に付いて書けと言った論文形式の試験が多かったが、二内は、問題数が多くて、細かく出題されていた)。公衆衛生学だけは、時間帯が10時30分からとなっているなあ。今までの16の内、眼科と精神科が出来なかったが、特に、精神科がサッパリであった(ノ一トの内容がそのままガッポリと出て、教科書中心にしていたので、この科目だけ落としてしまった)。思うに、不断の努力と規則正しい生活をすることが大切だなあ。
○専門3年、12月29日(日)雨。
 ○○先生(高校の時の生物の先生)と話した。○○先生こそ、実力のある人間味豊かな素晴らしい先生なのだ(○○先生は、医学部に在籍していたが、医学部を卒業することなく、教員の道を選ばれた。しかし、先生の二人の子どもさんは、現在、共に医師になられて活躍されている。)。あの時には、先生の良さが分からなかった。あの時(自分が高校生の時)は、どうであれ(○○先生がまかり間違っても給料の低い先生にだけはならない様にと授業中言った時から、私はその先生をずっとそれまで誤解していた)、今は、まごうことなき立派な先生だ。今は、先生の言われる様に、生物も医学も分子生物学から出発なのだ。今、鶴城は、実験を充分にしている。今は、160人も国立に合格すると言う(自分の頃は、その半分にも満たなかった)。鶴城は完全に変身した感じだ(大分県自体の普通高校の在り方が変わったせいもあるのか?)。
○専門3年、12月30日(月)雨。
 K小児科に行った。朝の8時から忙しく診察していた。便所に行く以外は休まない。昼は餅だけを食べただけみたいだ。ここに来る患者さんがあまりにも多い為、毎朝、公の警備員の人が交通整理をしている。兎に角、すごい数で(300人の子どもに親が付くからして・・・!)、病室に上がる階段にもビッシリ座っていて(14床の入院設備あり)、寒いのに中に入れなくて外で待っている人もいる。小児科は、体力だなあ。気力だなあ。とにかくスゴイの一言だ。開業以来(20年間経っているのに)、入院患者さんがいるので24時間完全に家を留守にしたことは一度もないと言う。救急車も来た。深夜も急患が来ている。よく体がもつなあ。K先生の背中が丸くなっているのが心配だ(自分が小学校の時は、開業始めたばかりの時で、往診に来てもらっていた。姿勢のいい先生だったが・・・)。先生の奥さんが、「夜中、寝ているのを見ると、このまま働き過ぎて死んでしまうのではと思うことがある。疲れ切って、息が時々次第に浅くなって止まっていて、アアッと思っていたら、又、息をして、・・・」と言われる。又、奥さんが頼むのに診てくれなくて、手遅れで自分の子どもさんが肺炎になった話をされていた(息子さんは、現在小児科医としてK先生の跡を継がれている)。「主人は、午後は疲れているので誤診するから午前中に来なさいと患者さんによく言うんですよ。これを私達が言ったらいけないんですが・・・」と奥さんが笑いながら言われる。すごいスピ一ドで診ている。冬なのにはしかの人もいる。Koplik斑を初めて見た。この日は、夜の9時近くまで殆ど休むことなく診療しておられた。

*当時、大分県には、沢山診ることで有名な小児科の先生が3名いた。多い時には、しばしば300人近く診る先生で、中津市のI先生、別府市のM先生、そして、佐伯市のK先生であった。M先生は、24時間365日19床の入院設備を持ってしていることで超有名で、又、佐伯市のK先生も、14床の入院設備を持って、県南の臼杵市や津久見市からも沢山の患者さんが来ていた。K先生に診てもらうまでが、患者さん側にとっては、大変な苦労だった様だ。
(その後、自分が郷里の佐伯に帰って、佐伯市の救急病院勤務時代に、K先生は、とうとう体を壊されてしばらくの間、休診されてしまった。その間、自分一人で県南の新生児を含む小児医療をすることになってしまったが・・・今考えれば、その時、私は、正に過労死寸前の状態であった。)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その65)

2007-04-14 06:51:53 | Weblog
○専門3年、10月31日(木)雨。
 概説試験が近くなってきた。一日の講義内容って、すごい量だなあ。毎日、予習以上に、復習をバッチリとしておくべきだった(この頃になって、やっと講義が如何に密度の濃くて価値のあるものだったかに気付く。自分の勉強の仕方は、実習>教科書>講義であったが、講義中心にノ一トをきちんと整理して、不足分を教科書で補っていれば、試験の時にあまり苦労しなくて済んだのだが・・・。)
○専門3年、11月1日(金)晴。
 皆、一生懸命に勉強している。我々のクラスは、真面目な人が多い。クラスの雰囲気がいい。しかし、自分を含めて、医学部の学生って、個性の強い人間が何でこんなに多いのかなあ。
○専門3年、11月4日(月)雨。
 一日中、よく勉強をした。昨日も日曜だというのによく勉強した。それなのに、少しも進まない。全くいやになる。
○専門3年、11月6日(水)晴。
 皮膚科をした。なかなか進まない。いくらしても覚えられないって感じだ。覚えても直ぐに忘れてしまう。記憶力が落ちている。動脈硬化が甘いモノの摂り過ぎでちょっとちょっと進んでいるのかなあ。それに、最近、卵を沢山食べ過ぎているからして。
○専門3年、11月12日(火)曇。
 米を8Kg買った。今年一杯もつかなあ(清水町から宇宿町に移り、この頃より自分の住むアパ一トの前のス一パ一でおかずを買い、自炊する様になった。自分なりに工夫していろんな料理も作る様になった。後輩が来た時に、卵にニンジンと玉ネギと砂糖を入れておかずを作って、冷メシで食べさせた。僕の結婚式の時、僕に付いてのスピ一チで、その味が如何に良かったかを言ったので、皆が笑っていた。)(その後輩とは、今も連絡を取り合っている。現在、彼は小児科医として、長崎の重症心身障害児の病院で活躍されている。)
○専門3年、11月15日(金)晴。
 背中の第8胸椎の下が痛いことに気が付いた。結核でもあるのかなあ。僕って心配症ナノダ。今までに自分でかってに自分に付けた病名は、過敏性大腸炎、胃潰瘍、心因性心臓病、cervical spondylosis 強迫神経症、不眠症、先天性股関節亜脱臼、ブロ一カ一の運動性言語中枢機能障害、起立性調節障害など。
○専門3年、11月17日(日)雨。
 第3内科の三周年記念で、東大神経内科教授の豊倉康夫先生の、「人類生物学より見た神経学」の講義があった。先生の講演は、いつ聴いても素晴らしいし面白い。医学とは、全く奥が深い面白い学問だと思う。さて、試験前と言うのに、こんなにゆっくりしているのは、僕位なものだろう。(会場で、同級生の姿は、どこにも見あたらなかった。)
○専門3年、11月18日(月)晴。
 よく勉強した。そして思うことは、もっと日数があったらいいなあということである。しかし、人生って、そんなものかも知れない。暇がある時は、能率低下、暇のない時こそ能率が最も上がる時ナノダ。試験科目に合わせてバッチリ頭に入れて行こう。あせらず、落ち着いて、まあ、あきらめが肝心かなあ。

 
 この11月20日~12月26日までの長期に渡る概説試験中、精神的におかしくなった人(精神科を受診した人)、透視をして潰瘍と言われて薬を飲み始めた人、熱が出て寝込んでしまう人、無精ヒゲが伸び放題になって山アラシみたいな姿になっている人、その日の試験が終わると直ぐにパチンコ屋に行って頭をカラにして、夕方から再び次の試験科目の内容を頭に入れ始める人、教科書を半分バッチリ覚えて(全部だと量が多いくて全てがウロ覚えになるので)、後は講義中のノ一トだけをして受ける人、山をかけてそればかりをしている人、学力でなく視力だと言う人(前の人の出来具合で合否が決まる?)など、実にいろいろな人が出て来た。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その64)

2007-04-13 07:00:35 | Weblog
○専門3年、9月2日(月)晴。
 新しい校舎での初めての講義、実にいい(医学部が城山のふもとの七高のあった鶴丸城跡から、宇宿町の山の上に移転した)。
○専門3年、9月5日(木)晴。
 小児外科の実習講義があった。二外科の講義、素晴らしかった。小児外科は赤字になる話を小児外科の先生がしきりにしていた。小児愛する医者って皆、何か共通したものがある様な気がする。昼からの臨床講義では、皮膚癌の患者さんが来た。患者さんは、癌ということを知らない。ガンと言っては絶対にいけないのだなあ。
○専門3年、9月6日(金)晴。
 井形先生(元学長)の家に、Tと一緒に行った。息子さんはラサ一ルで、奥さんは教授にピッタリって感じの上品な人だった。後でTが、「あの先生の前では、自分が恥ずかしく、自分がみすぼらしくなる。」と言った。不思議なことに、僕と同じ気持ちなのだ。あんまり立派過ぎて、こわい感じがする。しかし、先生はそれとはまるっきり反対で、全く普通に話し掛けて来る。先生は、毎週末、出身校の東大に飛行機で通っている。朝、誰よりも早く大学に来て勉強されている。夕ご飯の準備が出来てないことを先生は、詫びていた。もったいないお言葉、素晴らしい。本当に実力のある人は威張らないし、他人の批判を露骨にはしない。僕の最も尊敬する先生だ。
○専門3年、9月12日(木)曇。
 「医学用語の学び方」の本がうまく行けば、明日には終わりそうだ。兎に角、一秒たりとも無駄には出来ない現世ナノダ。尿と血液の実習をしたが、やはり慣れることが大切だと思った。心臓の境界が打診で分かる様になった。嬉しい。
○専門3年、9月13日(金)晴。
 一内科の診断学があって、皆の前で僕がバッチリして、川野先生が、上手だと誉めてくれた。自分でも、上手だと思った。
○専門3年、9月14日(土)晴。
 川明助教授の診断学があった。川先生は、アメリカの医学生を教える為に渡米したことのある先生で、先生の理学的診断は兎に角凄く、又、生化学が実に詳しい先生なのだ。川先生の様に腕のある医者になりたい。
○専門3年、9月21日(土)晴。
 松岡外科医院に行った(外科の開業医の姿が見たくて、毎土曜日午後、そこでしばらく勉強させてもらっていた。そこでは、医学以外に、医者のあるべき姿を勉強させて頂いた。松岡先生は、医師会の理事をされていて、患者さんからの信頼が非常に厚く、土曜の午後も遅くまで忙しく働いておられた。)
○専門3年、10月2日(水)雨。
 結核の勉強の件で資料を集めに保健所に行った(公衆衛生学では、グル一プ別にテ一マを決めて、それを詳しく調べてスライドにし、発表することになっていた。我々のグル一プは、結核に付いて調べた)。
○専門3年、10月29日(火)晴。
 法医学で、裁判所に行って法廷を初めて見た。裁判長は、ごく普通の人だった。被告人が手を縛られて裁かれていた。皆の前で恥をさらされて可哀相だった。弁護士と検察官が後でニコニコして話を交わしているのには、ビックリした。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その63)

2007-04-12 07:08:00 | Weblog
○専門3年、8月2日(金)晴。
 「高血圧の本」(人間の医学シリ一ズ2・実地医家のための会編集)がやっと終わった。「カゼ」の本(人間の医学シリ一ズ1・実地医家のための会編集)を終わらせないといけない。
○専門3年、8月8日(木)晴。
 「カゼ」の本がやっと終わった。長い夏休みも、もう半分も過ぎてしまった。早い。するべき勉強がまだ沢山ある。生化学、病理学が大切だ。
○専門3年、8月9日(金)晴。
 今日は、「病態生理学読本」と「食餌療法の実際」の本をした。今日は、充実していたなあ。
○専門3年、8月10日(土)晴。
 母校の佐伯鶴城(かくじょう)高校が勝った。初めて甲子園で「山姿鶴舞(さんしぶかく)に」が流れた。万歳!もう2回戦で負けてもいいかな。テ一プでバッチリ取った。佐伯鶴代、なつかし一い。男らしい学校だなあ。

 山姿鶴舞に似たりとて
 負う名ゆかしき鶴谷城
 その城東の学び舎に
 自治と信愛剛健の
 理想に燃えて若人が
 日夜技を練り文を練る

○専門3年、8月12日(月)晴。
 「皮膚病変と内科」(人間の医学シリ一ズ10実地医家のための会編集」を一応読み上げた。「食事療法の実際」の本を明日までに半分終わってしまおう。水曜までに、「ベッドサイドの神経の診かた」をが終わりたいなあ。
○専門3年、8月14日(水)晴。
 恵ちゃんの弟(鶴丸高校1年)の夏休みの宿題の数1の問題の解けないのを解いてあげた。全部解けるではないか。万歳!さすが、僕ナノダ。まだ覚えているではないか。嬉しかった。もうすっかり解けないとばかり思っていたのに(数学がとても好きだったからかなあ)。大学受験が終わってから4年間も経っているのに、まだ覚えているではないか。物理も少し覚えている。考え方は忘れないのだ、公式は忘れても。鶴城は、2対0で負けた。
○専門3年、8月21日(木)晴。
今日は、バッチリ勉強した。X線診断学の本がものすごく進んだ。ゴ一ルドマンの心電図の本もバッチリ終わった。レコ一ドで聴診の勉強を夜の8時過ぎまでした。これで小○先生と対話が出来るぞ。
○専門3年、8月21日(金)晴午前5時55分。
 さて、今日は、久し振りに佐伯に帰るのです。そして、明日から小○内科でカッヨク、いや恥をかきながら勉強するのです(前もってお願いしていて、ハガキで了解を得ていた)。僕の頭にはバッチリ医学的知識が入っているのです。さて、重たい荷物を二つ持って、にちりんで鹿児島駅から一人で帰るのです。
○専門3年、8月31日(土)晴。
 小○先生(名古屋大学の第一内科に20年以上いたすごく実力のある先生のもとで、ポリクリの様な感じで、実に有意義に7日間勉強させてもらった。カゼの人は少なく、同じ内科から紹介された患者さんが多く、糖尿病、喘息、肝炎、高血圧、胃潰瘍、心疾患、膠原病、白血病(先生は、血液の評議員)、更には、過呼吸症候群、cervical spondylosisや円形脱毛症など、実にいろんな疾患の患者さんが来て、すごく能率的に診察していた。生化学的検査の結果がその日の夕方には自分の所でちゃんと結果がわかるのにはビックリした。自分も小○先生の様に実力のある医者に早くなってバリバリ働きたいと思った。(小○医院では、朝6時から番取りの列が並ぶ程の人気で、沢山の人が押し駆けていた。小○先生の処方は、実に薬が少なく、カゼなどでは、何も出されないこともしばしばであった。私の父は、この先生の紹介で胃潰瘍の手術をした。私の母も、絶対的な信頼で、高血圧でずっとこの先生にかかっていた。小○先生の趣味は、日本画で、忙しい中で実に素晴らしい作品を短時間でいとも簡単に描かれていた。)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その62)

2007-04-11 07:04:10 | Weblog
 同級生の一人は、次の様に報告書の結論で述べている。
 ・・・・
 私が何よりも感じたのは、診療団のメンバ一としての連帯感・一体感であった。お互いに一定の役割を分担しながら、そこにはささやかながらも責任感の上に成り立つ信頼感家が育ちつつあった。そして寝食を共にする生活があった。診療団が解散したからといって、この人間的な大切なものを失いたくないと思った。
 大学に帰って来て思う。大学とは何だ。ここにあるのは人間関係の崩壊したマスプロ教育だけじゃないか。教育というものはお互いの信頼関係の上に成り立つものなのだ。ここはそんな信頼関係なんかありゃしない。あるのは知識の切り売り、試験を目指しての競争、鼻持ちならないエリ一ト意識、こんなことでは人間関係も疎遠・希薄になってしまう。医療にしたって、医者と患者さんとの信頼関係があってはじめて成り立つものだろう。そんな基本的なことが、どうして教育の場に生かされないのか。
 とは言え、大学の壁は厚く、改革の日は遠い。結局、自分で勉強しなければならないんだというありきたりの結論に終わってしまう。
・・・・

 又、次の様な内容の学生の報告書もあった。
・・・・
 次に、学生達の旅館の睡眠事情について報告します。寝付きの悪い僕は、あのいまわしい夜毎に繰り広げられる歯ぎしりといびきの二重奏の一部始終を見てしまったので御座います。まさに平安の世に鳥羽僧正によって描かれた”鳥獣戯画”を眼前に見る思いでした。歯ぎしりは、最初、コオロギの鳴き声かと思える程、かわゆいものでしたが、次第にその音量を増し、PDA(動脈管開存)の石臼様雑音を思わせる腹立たしい音に変わりました。いびきは、最初はアンダンテに始まり、次にアレグロとなり、更には、いっさいの音量の停止が数秒続き、クスマウルの大呼吸を思わせる大音響と共に、一楽章を終えるのです。私たちは、ト一ヌスの落ちた軟口蓋を思い浮かべて、3時近くにやっと眠りに付く毎日でした。
・・・・

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨年との比較

2007-04-10 18:33:01 | Weblog
NHKのテレビでの語学番組について、自分なりの意見を述べたい。
 25分間の内容が、初心者にとっていいか(初)、大学の教養課程で実際に学んでいる者にとっていいか(大)、ある程度出来る人にとっていいか(上)の3つに分けて分析してみた。

1、ドイツ語・・・昨年と同じ感じで作られている。スタッフも、余り変わっていない。初(×)、大(○)、上(△)
2、スペイン語・・・昨年よりも、初めから、レベルが高い。昨年ずっと聴き続けていた人にはいいだろうが。初(×)、大(○)、上(△)
3、中国語・・・昨年よりも、面白い内容になっている。どのレベルでも、それなりに楽しめる様になっている。初(△)、大(○)、上(○)
4、ロシア語・・・なかなか新しい感じの内容にならなかったが、久し振りにリフレッシュしたスタッフと内容になっている。基礎的な面に力を入れ、親しみやすい感じになっている。時間帯も、金曜の5時半からが、木曜の6時に変更になっている。初(○)、大(○)、上(×)
5、アラビア語・・・昨年と同じ内容。土曜の6時からが、金曜の5時半からになっている。初(○)、大(○)、上(×)
6、イタリア語・・・昨年と同じ感じで作られている。初心者には、やや難しいと思われる。初(×)、大(○)、上(△)
7、フランス語・・・昨年と同じ感じで作られている。スタッフも、余り変わっていない。初(×)、大(○)、上(△)
8、ハングル語・・・これのみ、会話でなく講座となっていて、昨年と同じ様に、基礎からしっかりと教えている。初(○)、大(△)、上(△)

以上は、あくまでも、私なりの個人的な意見です。何かの参考になれば、幸いです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない話(その61)

2007-04-10 07:13:20 | Weblog
○専門3年、7月17日(水)晴。
 薬を覚える。どんどん覚える。嬉しい。薬ってどうせ覚えないといけないから、今覚えたい。Hさん(専門4年生)は、実に良く知っている。
○専門3年、7月19日(金)晴。
 アナムネ一ゼを取った。鹿児島市立病院でしていたので、あまりうろたえなかった。ドイツ語で書く。やはり、親しみを込めて何でも言える雰囲気を作らないといけない。刑事では駄目なのだ、牧師でなければ。
○専門3年、7月22日(月)晴。
 いつも一番早く起きて、一番先に行って、一番先に帰る人、それが俺ナノダ。AI(大動脈弁不全症)+MS(僧帽弁狭窄症)の聴診所見が理解できて嬉しかった。眼科の先生から、網膜色素変性症の眼底を教わった。皮膚科の先生も、整形外科の先生も、忙しいのに僕の為に教えてくれる。バッチリ勉強になった。
○専門3年、7月23日(火)晴。
 17日からの診療も、今日で終わりになった(自分が統計を執って、7日間で、延人数が2624名だった)。循環器の先生から、コマ音を教わった。アナムネ一ゼも、いやと言うほど取った。(自分がアナムネ一ゼを取った)小児科の最後の女の娘、アンキロ(十二指腸虫症)と思っていたら、十二指腸潰瘍だったのには、ビックリした。僻地に来れば、医者は何でもしないといけない。そこにいる外科の先生からいろんな苦労話を聞いた。その中でも、一番すごいと思ったのは、夜、電気が付かない為、オ一トバイの照明で深夜に虫垂炎の手術を立派にした話だった。


 次の内容は、自分の報告書である。
 行きは船酔いして苦しかったので、帰りは、ネルボンとビ一ルを飲んでグッスリ寝た。何と18時間も眠っていた。気が付けば、波静かな錦江湾であった。帰ってから4日程、その副作用に悩まされた。
 診療中は、ミッテル(薬)、アナムネ一ゼ、色々な検査の勉強が出来て、嬉しかった。自分にとっては、多くの科を一度に診れたことが何よりもの収穫であった。
 旅館では、学生生活ではとても味わえない様な食事と素晴らしい美声にアルコ一ルがよくまわった(西満正教授の闘牛士の歌は、素晴らしかった)。
 一番嬉しかったことは、診療2日目に、「素晴らしいお医者さんが来ているということで評判になっています。それに、とても優しいし・・・。」とある患者さんから直に言われたこと。一番悲しかったことは、「この薬がなくなったらどうしたらいいんですか?」と眼疾患の患者さんから言われて、適当な言葉が出なかったことである。
 学生代表として、以下、反省点を述べたい。薬剤係も器具係も責任者をはじめとして行くまでにかなりの苦労をそれなりにしてきた。無駄もあった。薬に付いて言えば、殆ど使わなかった薬が沢山あった反面、必要な薬が不足していた。次回は、この様な事のない様に、今回の資料をもとにして充分に話し合っておく必要があると思う。
 幸いに、診療の先生方から、苦情が出なかったし、徳之島の人から喜んでもらえ、又、水上スキ一などの楽しい思い出が出来たことを考えると、学生の一致した感想は、「診療団に参加して本当に良かった!」であった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

医師確保

2007-04-09 07:12:22 | Weblog
 4月8日の朝日新聞の一面に、「医師確保へ窮余の高給」との見出しで、かなりのスペ一スを取って、自治体病院の県別の内訳が載っていた。
皆が行きたがらない所は、当然、高くなる。何故、行くのをためらうのか、その多くは、家族の問題である。家族と離れることのデメリットの方が大きいのである。子どもの進学時期であれば、将来のことを考えて、どうしても子ども中心になってしまう。
 お金を出せば、来てもらえるはずと思っている管理者は多いかも知れない。しかし、当の医師は、実際に、そう考えていない。医師の場合は、医師になって10年も経過していれば、それなりに収入はある。経済的にさほど苦しくない状況で、体を壊してまで、家庭を壊してまで、お金の為に働こうとは思わない。
 新聞では、行政学のある教授のコメントが最後に載っていた、「自治体病院の医師の給与が民間より高すぎるということはなく、医師不足の地域で高くなるのはやむをえない。医師の確保は病院の収入増に直結するので、出し惜しみすべきではない。赤字解消のためには看護師や事務職員の給与体系を見直すべきだ。ただ、高給を提示すれば医師が集まるわけではない。夜間救急対応の負担軽減や休日確保など、医師が働きやすい環境をつくる必要がある。」と。かなり的を得た意見だと思う。
(医師の場合、僻地に行ってちゃんとやれる医師になるまでには、大変な苦労を強いられている。研修医時代や大学勤務時代は、他の職種以下の薄給で多くの医師が過ごしてきている。又、あちこち移動している医師には、退職金は期待できない。医師の勤務は、世間の人が思っている以上に重労働。週70時間、当直明け普通勤務なんて、多くの医師がしていること。今の時代は、正に、不屈な精神力と逞しい体力と明瞭な頭脳と博愛精神と一般常識を全て兼ね備えた人でないと、医師として適応して行けない。現実に、うつ状態の医師の増加で、医師の自殺率は、普通の人の3倍と高くなっている。教師のうつ状態の人の数も、同じ様に増加している様だが・・・)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その60)

2007-04-08 07:02:34 | Weblog
○専門3年、6月25日(火)晴。(昭和49年、今から33年前の日記の内容です)
 整肢園に行った。脳腫瘍やアテト一ゼの子がいた。小児麻痺の子どもが多い。ここで働いている人、大変だなあ。小児麻痺の子どもは、今から少なくなっていくだろう。産婦人科医と小児科医がしっかりと連絡を取り合っていかないと絶対にいけないなあ。
○専門3年、6月26日(水)晴。
 霧島分院に行った。アポの人や、パ一キンソンの人や、アミトロの人が居た。アポ(脳卒中)の場合、どうしたらいいのかを教わった。リハビリテ一ションって、とても大切だなあ。リハビリテ一ションの病院って、今から注目される様な気がする。
○専門3年、7月2日(火)晴。
 熱帯医学の試験、8割出来た。最後の追い込みが効いた感じだ。やる気になれば、覚えられるし、それなりに出来るのだ(熱帯医学、リハビリテ一ション医学、腫瘍学の試験があり、皆、良くできた)。
○専門3年、7月14日(日)曇。
 小野田寛郎さんの展示を見た。○○さんよりも、彼の方が、筋が通った感じで、人間らしく生きていた様にも思えた。彼には、任務を遂行するというはっきりとした生きる目的があった。そのことが彼を救ったのではないだろうか。又、堀江謙一さんの講演を聴きに行った。彼には、小さな体をしていたが、何となく鋭さを感じだ。綿密な計画の上で、すごい緻密な計算をして、成功すべきして成功していることが分かった。地球上に人間としてしっかりと生きているって感じだ。

 7月15日~7月25日まで、第21回の奄美大島診療団に加わって、徳之島に行った。医師は17名、団長は第一外科の教授に新しくなった西満正先生であった。医学生は11名参加した。学生の代表に自分がなった。又、仕事としては、アナムネ一ゼを取り、薬の係をすることになった。準備が大変であった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私なりの小児科救急医療の対処の仕方

2007-04-07 13:14:56 | Weblog
 産科も小児科も全国的に集約化の方向に進んでいる。で、現実には、小児科の場合、集約化された病院では、夕方から朝まで、深夜もだらだらと来て、小児科医が5人以上いる所も大変な様だ。又、夜遠くから1時間以上掛けて来る子ども(もちろん親御さんもだが)も大変で、来ても、多い所では1時間以上も待たされている。
 小児科医が少ない為に集約化せざるを得ないことは、ある面では認めざるを得ない。しかし、船に乗って30分以上掛けて島から来たり(台風の時期は、大変)、交通事情の悪い所では大変な苦労である。
 小児科医5人以上いても、24時間、時間外も診るとなると、仕事は外来だけではないので、医師自身がくたばってしまう。1ヶ月に8回も当直しても、それが認められず、裁判で負ける時代だ。睡眠不足で眠かったり、働き過ぎで疲れていて、判断力が落ちて不幸な結果になった時には、理由いかんに関わらず、自己責任で犯罪者にされてしまう時代だ(日本の医師は、当直明けも、ちゃんと仕事をしている)。

 私の場合、何故、小児救急が自分なりに続けて来られたのか、又、今も続けられているのかの理由を自分なりに述べたい。

 まず、殆ど患者さんを裏切らない感じで、土曜も日曜も祝日も、年末年始も、365日、救急をしてきている(自分のいない時は、小児科医の代診で)。実績で、それなりに、信頼を得ている。
 それも、夜の20時前後に、必ず1回、時間帯を決めて診てきている(以前は、20時~21時、今は、19時半~20時)。理由は、そうすることで、深夜ひどくなるケースが極めて少なくなって、小児科医にとってもかえって楽になれるからである。
 土台、24時間、小児科医がいつも診れるはずはないし、診ろと言う方がおかしいと思う(医師法には、よほどの事がない限りは、断ってはいけない感じで書かれているが)。小児救急では、患者さんの協力がどうしても必要と言うことを、ずっと言い続けてきている。
 実際に、5人で24時間いつでもどうぞって感じで診ていた時には、1時間おきに統計を執った結果、夕方からずっと減り続けて早朝の数が一番最低になっていた。しかし、郷里で20時~21時と時間帯を決めて診ていた時には、その時間帯が断突多くなっていた。
 つまり、小児の場合は、充分に待てるケ一スが多いということである。しかし、けいれんが止まらない、息が止まりそうにあるとの時は、直ぐに診ていた。そんな感じで、生命の危機に関わる時には、小児科医と必ず連絡がつき、又、必ず後で小児科医から診てもらえると言う安心感を患者さん側にまず与え、又、患者さんの協力がないと出来ないと言うことを患者さん側に常に知ってもらうことが、大切なことだと思っている。
 24時間、数少ない小児科医で、コンビニ感覚で出来る訳がない。しかし、反対に、20時前後に1回は診ておかないと、深夜起こされる可能性が高くなるし、18時からは絶対に診ないと言って全く診ないでいると、朝、危ない状態になっている可能性がある。
 今の私の病院勤務では、(団塊の世代の私には)もう昔の様に体力的に頑張れないので、当直の先生に深夜はお願いしている。しかし、どうしてもの時は、(患者さんの為に医者になっているからして)診ている。しかし、深夜に当直の先生から呼ばれることは極めて少ない。深夜、軽症までも小児科医が診る必要はないと思うし、いつも診ていると、深夜待たされないでいいとか、24時間していると言う風に患者さん側に受け取られ兼ねない。数少ない小児科医でする時には、ある程度のセ一ブを(医療側も患者さん側も)共にすることが絶対に必要だと思う。
 時間外診療では、必ず、電話をして来る様に指導している。つまり、時間帯を決めていても、時々、ちょっと遅れたり、時間がずれたりすることがあるので、その旨を告げている。前もって、外来に張り出したりもしている。
 
http://www4.ocn.ne.jp/~kamiama/syounika-jikanngaitoukei-matome.html

http://www4.ocn.ne.jp/~kamiama/syounika-nyuuin-toukei.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする