日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その285)

2008-02-25 09:10:19 | Weblog
○昭和63年4月1日(金)雨。
 英会話まあまあ。さ来週には、コスタリカの山本さんの紹介で、オーストラリアからナースの人が来ることになった。どうなることやら。ボブさんのお姉さんの場合は、何とかなったが。自分の副鼻腔炎、少しは前よりはいいみたいだ。運動不足で体がなまっている。6月からは、2人体制になるのは確実みたいだが。
○昭和63年4月2日(土)雨。
 小児科の先生も、○代先生(現在、開業されている)と決まった。今まで自分独りでよくやって来れたと思う。どういう体制を取ればいいのか、具体的にしていかないといけないなあ。
○昭和63年4月6日(水)晴。
 6月からは、本来の朝型人間になろう。20:00~21:00までに寝て、4:00に起きて、5:00までには病院に行って、朝音楽を聴いたり本を読んだり、ビデオを何度も見たり(テコムのビデオの教材で、小児科シリーズをしばしば見ていた)、今までと全く違った感じで過ごしたい。夏の暑い時だったら、4:30までに、冬は5:00までに必ず病院内にいる様にすれば、(常に24時間小児科医が診ることになって、今までの様にトラブルも少なくなって)何かにつけていいいと思う。嬉しいことは、勉強がバッチリ出来ることだ。このままだとヤブ医になってしまうなあ。
○昭和63年4月7日(木)晴。
 人間なんて、周りを見ていると、この先どうなるのかサッパリ分からない。何が起きても平静であるべきだ。出来事は偶然ではなく、それは必然なのだ。決められた運命なのだ。それが人生そのものなのだ。自分に納得の出来る生き方をしたい。自分がこの世にしっかりと生きていると実感したい。その為には、やはり努力しないとけいないと思う。遊んでばかりでは、怠けてばかりでは、後で後悔するだろう。人生わずか80年間。自分は既に半分を使ってしまった。後半分しかない。時間は元に戻らない。今が全てなのだ。1日1日を如何に充実して生きるかにかかっている。自分をもっともっと磨けば、もっと他人の為に尽くすことができるはずだ。苦しいことも人生。本当の楽しさを味わう為には、苦しまなければいけない。
○昭和63年4月17日(日)晴。
 大分の県医師会で学会があった。始まってから直ぐに寝ている人がいる。いびきをかいている人が3人もいた。威張った感じで知ったかぶりに言う人もいるし、いちいちいちゃもん付ける感じの人もいる。目上の人に対しての言葉使いも知らない感じで言う人もいる。皆が困って問題にしているはずの救急の話が全く出てこない。何か変な集団って感じに思えた。
○昭和63年4月18日(月)晴。
 17:00過ぎに急患が来て、送ろう送ろうと思いながらも、病名もはっきりしないままで処置に追われて送れなかった。頻拍で、多呼吸で喘鳴があり、気管支喘息と思いその治療をした。肝臓も少し大きかった。来てから息抜く暇もなく汗だくだくになってした。この日が結婚記念日ということを完全に忘れていた。ふと気が付くと、20:00を過ぎていた。どうしても良くなって行かず、(小児外科専門にしていた)○○先生の力も借りたが、どんどん悪くなって行った。(泊まり込む)
○昭和63年4月19日(火)晴。
 午後の乳児健診中に心臓が止まって死んでしまった。後で(同級生の)循環器の○○から、心臓(PAT?)ではなかったのかと言われて、そうかとも思った。ネオフィリンを使ったのがいけなかったのかも知れない。急に肺水腫になった感じがした。救急では、やはり心臓が怖い。心臓疾患と思って、その薬を積極的に初めから使っていたら助かっていたかも知れない。悔いが残る。(ガックリ落ち込む)
○昭和63年4月28日(木)晴。
 来年の今頃は、1週間程、遠くの所に行きたいなあ。外国でもいいし。シンガポール辺りがいいかも知れないなあ。オーストラリアもいいかも知れないなあ。時差ぼけがあると困るなあ。
○昭和63年4月29日(金)晴。
 天皇誕生日、87歳。長寿だ。病気なのに、長生きしている。今年一杯、大丈夫そうだ。亡くなると昭和でなくなるのだなあ。次は何になるかなあ。昭和になれると、これが一番いいって感じになれるから不思議だ。も一人小児科医が来ても、採算合うのかなあ。心配。
○昭和63年4月30日(土)晴。
 150人ちょっと来た。例年よりも少ない。ゴルフをしなくなった。月火水は少し元気だが、木金土に落ち込む感じだ。来年の今頃は、ずっと元気でいられるかなあ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬山市、全国学力テストに反対

2008-02-24 14:44:26 | Weblog
 愛知県犬山市(8万余)の教育委員会が、全国一斉学力テストに反対して、今年も実施しないことにしている。3対2で、かろうじて反対が成立している。
 ちゃんとそれなりに自信を持って教育していると思っている学校には、学力テストを上から強いるべきではないと思う。自分の学校のレベルがどの程度か分からなくてどうしても知りたくて困っている場合には、それに代わる問題でチョックすればいいのであって、上からどうこう言われる問題にすべきではない。全国一斉に学力テストを施行して、それで出来不出来を把握して、更には、それで生徒の学力のあるなし以外に教師の資質まで見ようとしたり、学校のレベルを絶対視する方向に行けば、一体教育とは何かと言いたくもなる。
 教育の成果は直ぐには出てこない。長い年月が掛かるのである。受験で苦しんだ人間が、還暦前になってもその時の受験の夢を見てうなされるなんて、やはり異常だと言わざるを得ない。又、小さな子どもが子ども同志で楽しくゲームなどをしながら精一杯遊ぶべき時に、正規の学校に行っているのに、それから又塾などへ行って勉強を強いられているのは、酷と言うべきだ。
 今でも、夜の(兵庫県の)三ノ宮駅に行ってみるといい。熟通いの受験生で、駅周辺は一杯になっている。しかし、それを見た大人の間で、それでどうこうしようと言う動きは全く出てこない。これも不思議だ。
 受験勉強をずっと強いられて入学した大学生、やはり、どこかで息抜きをしないといけない訳で、大学に行っても寝たっ切り傾向の学生になっている人が多い。周りが勉強をさせてきているので、自分で問題を作ってそれを解決しようとしない。問題も、その解き方も、ちゃんと大学が教えてくれるものと思っているのだ。
 更にやっかいなのは、体力の低下とやる気の低下である。そして、肩書きだけで人を判断し、他人とのコミュニケーションのぎこちなさである。有名大学に入ったのはいいが、失ったモノの方が多くて、それがその後生きる上で致命的なることだってある。入ることに価値観を置いていた教育機関は、そのことに関して何ら責任を取らない。
 欧米では、教育ママゴンが行き着いた結論は、いい精子を得ることで、それなりに(父親不在で)精子バンクで遺伝子を得て、子どもを作っている例もある。その子ども自身が24歳になって言っていた、「母親が異常なほど、自分と親密になっている。自分のIQ180が高いのは、単に1つの素質に過ぎない。自分は他人と関わることが苦手で、内向的な性格になっている。」と。
 日本の教育システムの根本は、戦後、何ら変わっていない。小さい時から競争競争。受験勉強を周りから強いられる。その結果、勉強嫌いの人間を沢山作っている。文部(科学)省は、コロコロと教育システムを変え、教師も自信を失い、疲弊している。
 根本は、やはり、楽しい学校にすべきである。知識を得ることは喜びであり楽しいことであり、それを肌で感じる様に小さい時から周囲が出来れば、それで事足れりである。後は、自分で学ばせればいいのだし、それを一緒に学ぶ仲間と場所と時間を与えればいいだけだ。しかし、戦後の子どもには、3つの間がどんどんなくなっている。つまり、(分け隔てなく遊べる)仲間と時間と空間が。
 小学校低学年では、いい先生とは、生徒と一緒に遊んでくれる先生ということになっている。しかし、小学校高学年からは、尊敬できないと、生徒よりも目に見える形で出来るモノがないと、生徒から善い先生とは言われない。
 イタリアの語学学校に行った時にも、カナダの語学学校に行った時にも、ゲーム的感覚で語学を楽しく学ばせようとしていることに気が付いた。少人数で、アイコンタクトがちゃんと出来て、昨日どうだったって話から始まる。目的があるので、学生は、皆、一生懸命に学んでいた(自分は、半分遊びで、申し訳なかったが)。
 自分の事を考えてみた。1949年生まれで、子どもが家の周りにうじゃうじゃいた。友達同士の喧嘩も絶えなかった。皆貧乏だった。小学校の低学年では、放課後に先生が出来ない生徒を残して教えていた。小学校の高学年では、グループを作って、教え合っていた。中学の時も高校の時も、(頻回ではないが)生徒同士で問題を教え合っていたことを思い出すし、中学の時も高校の時も、将棋や囲碁を勉強仲間同士でよくしていた。
 小学校1年生の時の担任の先生、加藤道子先生、田口昭子先生、小学校2年と3年の時の先生、神田タツ先生、小学校4年生の時の先生、後藤俊正先生、池辺妙子先生、小学校5年と6年の時の先生、狩生毅先生、その後も、立派な先生方が沢山いた。
 高校の時の現代国語の秦一郎先生、数学の渡辺清一郎先生、(修猷館卒の生徒が集まっていた)修猷学館の数学の堺弥一郎先生、英語の(クラスの担任でもあったが)引野英夫先生、もう今は亡き先生方のお陰で今の私があります。(保育園や幼稚園には、経済的な理由でか?行かなかった)


http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20080214/4

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その284)

2008-02-24 09:11:53 | Weblog
○昭和63年3月1日(火)晴。
 恒例の病院の避難訓練があって、ちょうど乳児健診の時とぶつかって大変だった。それも、40程来た。火災訓練、大変で、沢山の人が参加していた。消防署の人は、この病院を高く評価しているって感じだった。この24時間オープンの西田病院がなかったら、ホント、困るだろうなあ。特に、新設の小児科と脳外は。
○昭和63年3月2日(水)晴。
 ○崎さんが亡くなった。お通夜に行った。月報で大変お世話になっていた。有益の話を(刑事の立場から)いろいろと教えてもらった(○崎さんから、トップが代わったので今からこの病院の舵取りが難しくなる、出来るだけ早めに開業した方がいいとしばしばアドバイスを受けていた)。退職して奥さん孝行を今からしたいとしきりに言っていたのに、それも叶わず、あの世に行ってしまった。目付きは職業病で悪いけど、ホントは、とても優しい人だった。60歳以上生きられたし、酒も楽しく飲まれて来たし、まあ、悔いはさほどないかも知れないなあ。
○昭和63年3月3日(木)曇。
 ○崎さんの葬式があった。ドクターが殆ど参加していた。茂理事長が亡くなってから、さほど時間が経ってないのに猛史院長が亡くなり、そして、○崎さんも亡くなってしまった。人間の命なんて、思った以上に早く亡くなるなあ。自分も余り無理をしていると、この先どうなるのか、分からないなあ。
○昭和63年3月4日(金)曇。
 朝の朝礼で、(各科毎に番が来て、その科の誰かが何か言わないといけないのだが、小児科とベビー室の番の時には、自分が話していたが)企業が発展する為の3つの条件を言った。桃太郎のイヌとサルとキジの話をした。つまり、スタッフに情報と知恵と行動の3つが共に必要だと。後でとてもいい話だった言われて嬉しかった。昨日の葬儀に小児科一人の為に参加出来なかったのが悔やまれる。我が病院は、行動力は確かにあると思う、これだけ患者さんが来ているのだから。それでどうしてどんどん黒字に出来ないのかなあ。
○昭和63年3月5日(土)曇。
 自分なりに病院の思い切った改善策を考えてみた。1、広い駐車場を確保する。2、(ドクターやナースは切れないが)30人程思い切って(病院の為に余り役に立っていない人を)リストラする。採用時に、コネを極力排除し、ホントに能力のある人しか採用しない。ソフトや卓球が出来るだけでは採用しない。3、スポーツは、病院の一環ではなくて、ゴルフ同好会の様に(会員でお金を出して運営)、同好会とする。4、5階に息抜きの憩いの場を儲ける(職員に生き抜く場所がないと、頑張れない)。5、ドクターは院外から来てもらうことなく、病院内のドクターのみで当直体制を組み、往診も積極的にし、自分の様に、早朝診療も積極的にする(医者がコロコロ代わると、患者さんが付かない。それと、ドクターの給料を少し下げる。どうせ税金で沢山持って行かれる訳だから、それよりも、ドクターを増やし、それなりに沢山の休みを上げた方が得策)。無駄が兎に角まだ多い病院だと思う。
○昭和63年3月9日(水)晴。
 外国に行ってみたいなあ。そして、外国から見た日本に付いて書きたいなあ。本を残すのが一番価値があると思う。何故なら、死んでしまったら、何も具体的な形として残らないからだ。6月から小児科のドクターが来る様になったら、朝4:00に起き、5:00までに病院に行こうかなあ。運動も出来るなあ。生活がガラッと変わるなあ。
○昭和63年3月16日(水)晴。
 待ちに待った朝礼の日っていう感じで、13分間喋った。若い時の苦労が大切、いい思い出を作る為に若い時に頑張る、教育は8つ褒め1つ叱って突き放せ、又、言葉は神であるなどの内容を話した。量がスゴク多いのだ。何もかも言ってしまおうと思うと時間が足りなくなってしまう。疲れたと言う人がいてガックリ。腹の調子が悪い。癌になっている人が周りに多い。自分も気を付けないといけないなあ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その283)

2008-02-24 09:10:31 | Weblog
○昭和63年2月5日(金)晴。
 カゼを引いてきつい。それで今日の英会話を休んだ。久し振りに引いたって感じだ。自分の体、大切にしないと、その内ガタガタになりそうな気もしないでもないなあ。受験で失ったものが大きかった様に、仕事人間になっても、失うモノも大きいと思う。
○昭和63年2月7日(日)晴。
 ミーコとワコとで天使幼稚園に行ってカレーを食べた。カゼがやっと治った感じだ。この1週間きつかったなあ。その後、血便が出た。ちょっと多かったのでドキッとした。血って、やはり不気味だなあ。それに痛みがないのが尚更気に掛かる。規則正しい生活、早寝早起きが大切だなあ。
○昭和63年2月10日(水)雨。
 湯布院の(名高い、気配り)亀の井ホテルに佐伯タクシーのマイクロバスで行った。自分の両親と恵ちゃんの両親も。往復、ミーコのピアノと歌を録音したテープがあって良かった。佐伯から片道2時間以上掛かったが、道中楽しかった。檜の風呂が最高だったなあ。しかし、子どもがいると疲れるなあ。ワコちゃんが元気に歌って両親を喜ばせた。親孝行、出来る時にしておかないといけないなあ。お金は、有効に使うべし。
○昭和63年2月15日(月)晴。
 午前中だけで、151人来た。けいれん重積の子がいて、6:30過ぎにアレビアチン、ステロイド、グリセオールと使い、何とかおさまった。午前中に病棟も診ているから、午前中に170人程を11:30までに1時間に40人診ている。これも、自分だけでなくスタッフが慣れてしまって、患者さんもいつも診ている人が多いから出来ることだなあ。
○昭和63年2月22日(月)晴。
 午前中で160人以上来て、17:00までで、225人だった。しかし、昔はこんなものではなかった。流行時の月曜は、250人を越えることが多かったし、1日に290人の日もあった(300人を越えたのは、開業時の1回のみ)。医者が二人だと、もっと能率的に出来るだろう。個人病院だから、採算が合えばそれでいいと思うが。
○昭和63年2月25日(木)晴。
 ○○○婦長の子どもが帝切後にRDSになり、あまり調子が良くない。チアノーゼがひどい。よく知った人の子の治療って、何かしにくいなあ。ここでは生まれたら即小児科だ。小児科医がいなくて帝切何て、何もなければいいが、あった時には、重症患者さんが二人いる訳だから大変だろうなあ。アンビューでの力の当て方、かなり経験がそれなりに要ると思うが。(以前、帝切後に自分が行く前にナースが蘇生をして、縦隔気腫になった例があったので、アンビューをナースには原則的に使わせない様にして、帝切の時には、殆ど自分が付いていた)
○昭和63年2月27日(土)雨。
 1:00過ぎに起こされた。3:00頃まで眠れず、7:35から11;45までに130人ほど診た。○○君を帰した。喘息+肺炎で、難儀したなあ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日米再び決闘?!

2008-02-23 12:01:20 | Weblog
  平成20年2月22日の22:00からのNHKのプレミアム10で、「80歳の決着~元兵士たちの日米野球~」かっての敵と野球球場で出会ったおじさん達奇跡の試合と題して放映があった。  
 アメリカ側の誘いで、平成19年12月中頃に、日本の真珠湾攻撃で闘った同志が、66年後に、その真珠湾の近くの野球場で、75歳を越えた年齢(平均80歳)で再び野球を通して平和に闘ったのである。  
 闘いは「14対2」の大差で日本側の負け。しかし、それにより、両者共に今までの憎しみやわだかまりが消えている。アメリカ側に、直前になって参加しなかった人もいた。わずか3日間で、相手に対する感じ方がはっきりと変化していて、両者共、参加して、ずっと溜めていた今までの思いを吐露し、そして、アメリカ側も、忘れることが出来ないが許すことを出来ることをしっかりと伝え、日本側も(初めはぶん殴られるんじゃないかと思っていたみたいだが)初めから友好的に接してくれたことで、恐怖が驚きにそして喜びに、更には深い友情に変わっている。その参加者の一人であるカール・ソマー(81歳)さんは、試合後に、帰宅して何度も「最高だった!」と奥さんに言って、安心し切った顔で椅子に揺られながら亡くなっている。
 (佐伯市の隣の市の)津久見市に住んでいる伊達進(79歳)さん(試合では、最後までピッチャーとして投げ抜いた)は、生年月日がたまたま同じ相手チームの人と気が合って話し込み、次の様に言っていた、「生きてきて良かった、本当の気持ちが言えた、同じ人間じゃ、アメリカ人も同じ人間」と。帰って、野球を教えている子ども達に「仲良くなって帰った」と報告しているが、子ども達の反応はもう一?!
*佐伯市は、ホノルル市と「友情都市」の関係にあり、その調印式の時に、「さくら」の曲を篠笛で演奏させて頂いた。又、多くの戦死者を弔う意味で、パンチボールで太鼓の演奏をさせて頂いた(後で考えると、よくこんな事が私に許されたなあと思っています)。
 
(平成15年にホノルルに行った赤松さんも、ハワイから帰って数ヶ月せずして亡くなり、又、フィスケさんも、その後直ぐに亡くなってしまった。赤松さん、帰ってからしきりにもう悔いないと言われていました)  
 
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060929/2

上の(携帯電話で撮ってもらった)写真は、小雨の中、飯田中佐の前で無心になって太鼓を打っている私。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その282)

2008-02-23 08:56:23 | Weblog
○昭和63年1月12日(火)晴。
 院長が代わってから、まず、薬の購入を安くすることを強調した為に、○○先生、○○先生、○○先生も気分が悪くなっている感じだ。使いたい薬を仕えるのがここの病院のメリットだったのに・・・。経営上、その前にもっとすることがあると思うのだが。
○昭和63年1月18日(月)晴。
 大変な日だった。(小児科入院大部屋9ベッドの隣にある小児科部長室の)自分の部屋のちょうど上の(2階の)トイレの管が詰まって、汚物の液が上から流れてきたのだ。臭い。しかし、スタッフが助けてくれて、後片付けが上の階も、自分の部屋も、超スピードで終わった。それにしても、ズサンな工事をしているもんだ。
○昭和63年1月19日(火)晴。
 朝婦長が部屋のジュウタンをどうしても替えた方がいいと言う。で、皆の協力で新しいジュウタンが敷かれてきれいになり、前よりも明るくなった。前よりも色がゆったりとした感じになった。
○昭和63年1月21日(木)曇。
 部屋が片付いた。前と比べると全然違うって感じだ。ナースの話だと、「田原先生って個性的な人間ですね」と、新しく来た(大分医大小児科の)内山聖助教授が言っていたとのこと。そうだ、自分ほど何でも善意に解釈して前向きに積極的に生きられる人間は、そんなにいないと思う。今の自分は、ホントに真面目だと思う。まあ、少し不真面目な所もあることは否めないが。それにしても、この時期にしてはけっこうヒマだなあ。
○昭和63年1月24日(日)晴。
 早川先生の還暦祝いが(宮崎の)観光ホテルであった。教室員が33人も集まって祝ってもらえるなんて、教授になって今日の日が今までで一番最高の日ではなかったかなあ。何やかや言っても、教授は優しいし、人の悪口を言わないし、威張らない。他の大学の教授と比べても、一番気軽に話すことの出来る教授だ。(教室員の)○○先生も、「教授が替わったら、他の所に行かんといけん」とも言われていた。
○昭和63年1月27日(水)晴。
 (両親のいる)白潟に行って、美味しい甘酒を飲んだ。冬はやはり太るなあ。痩せるってホントに大変だなあ。この日は恵ちゃんの誕生日だったので、福寿司から寿司を取った。何と、恵ちゃんは35歳にもなってしまった。どんどん歳を取って行く。このままで直ぐに50歳に達しそうだなあ。人生、30代って、ホントに大切な時だと思う。20代までは失敗は許されるが、30代で40代からの基礎固めをして、40代は30代の土台があっての開花で、運が良ければ、50代で華が咲くかな。60代は、もう体力ないから、その時に状況に応じて生きるしかないなあ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その281)

2008-02-23 08:47:03 | Weblog
昭和63年(1988年)年頭所感(今から20年前)
1、患者さんを大切にする。
2、早寝早起き
 5:50起床(今までは6:00)→5:20目標
 6:00食事(今までは6:10)→5:30目標
 6:30勉強(今までに6:40)→6:00目標
3、体力作り
4、1週間に少なくとも1冊本を読む。
5、英会話
6、パソコン(今年中に購入)
7、体重63~65Kg(夏休みまでに少なくとも65Kgに)
8、整理整頓そして勉強
9、お金を有効に使い、そして、貯める。
10、自分で出来ることは自分でする。

○昭和63年1月3日(日)晴。
 昨日は100人越えたのに、今日はメチャ少なかった。こんな感じでもう一人小児科医、ホントに来てくれるのかなあ。来たからと言って、患者さん多くなるかなあ?
○昭和63年1月5日(火)晴。
 昼にドクターが集まっての食事会が上であって、薬を絞れば月に200万~300万は浮くって感じで言われた。こんな風な医療での締め付け、自分がここに来て初めてだった。1カ月に9.000万も要っているとのこと。人件費で、半分も要っているとのこと。事務サイドが、朝早くから来て夜遅くまでして欲しい様なことを暗にほのめかしていた。病院何て、ドクターのやる気と病院の無駄を省くことが最も大切だと思うが、新年早々、あまり面白くないなあ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病院ホームページ作成

2008-02-22 15:30:44 | Weblog
 病院のホームページ作成をもう1年近く自分が手掛けている。で、それで募集して、2名採用出来たとのことで、早朝に事務長がお礼を言いに来た。で、先日の事務長が出席したある会合でも、当病院のホームページの話題となり、それをそこに勤務しているドクターがしていると言うことで、尚更、周囲が驚いたとのこと。
 まあ、そんなにスゴイホームページではないのだが、「アフタ5のページ」などで、病院の雰囲気が多くの人に分かって頂ければいいかなあと思っている。
 私がここに来てから、不在の小児科と整形外科が充実して、又、各科の先生方も優秀な先生が多く、今が病院としてはとても充実していると思われる。入院ベッドが不足して、入院のやりくりが難儀している。しかし、ベッドが空いて困ると言うことは全くない。
 泌尿器科の先生が4月から来れば、更に充実して行きそうだ。

http://www4.ocn.ne.jp/~kamiama/




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その280)

2008-02-22 08:12:40 | Weblog
○昭和62年12月10日(木)晴。
 毎日、眠たいなあ。夜診療で寝るのが遅いからなあ。23:00には寝て、昼30分寝れれば、何とか体が保てると思うのだが。何でもかんでも自分でしないといけないとなると、ホントに疲れるなあ。それでもここに来て一番楽になっているかなあ。
○昭和62年12月15日(火)晴。
 ボーナス日だった。沢山もらった。今までで一番多く、その金額を見て、スゴイと思う。しかし、何故か嬉しいはずが嬉しくない。何故かなあ。まだ、借金があるし、まだお金が全然貯まっていない。借金があるから、頑張れる所、確かにあるなあ。
○昭和62年12月20日(日)晴。
 大分で小児科の地方学会があったが、(全科の学会で、統計ばかりでちゃんとした考察がないと、○○先生から皆の前で言われたこともあり)演題を出さなかった。(元大分県病部長の)○○先生から、又、学会に発表する様に言われ、(大分医大の)小川教授からも、「先生のがないと寂しい」と言われた。二次会、医大の連中と6人で行き、いつもお世話になっているので、全て自分が出してあげた。
○昭和62年12月22日(火)晴。
 西田病院の恒例の大忘年会が金水苑であった。18:15~23:00まで騒いでいた。ホント、騒ぐのが好きな人達ばかりだ。脳外科の演出で押しまくられた。その点、小児科はさえないなあ。最後に自分が、郷ひろみの「お嫁サンバ」を唄って、皆で踊りたかったが、出来なかった。小児科には、役者がいないのだ。
○昭和62年12月24日(木)晴。
 宮医大小児科教授の○川先生の心臓外来があった。50人程来た。教授も、運動不足で太り気味で、血圧も下が100近くになると頭が痛くなると言われる。アルコールも控えている。エコーもバッチリしてもらった。来年、卒後2年間の研修を終えたばかりの3年目のドクターを西田病院の小児科常勤医として送りたいと言われた?!
○昭和62年12月30日(水)晴。
 宮医大の先生は、年末年始は来ない。体を大切にしないといけないなあ。少し太り気味だ。油断をすると直ぐに太る。この1年は、ホントにいい年だったなあ。結構、ゴルフで遊んだし、星座も何とか独学で覚えて行ったし、英会話もちょっと上達、ちゃんとした本も出来て、借金もかなり返せて、子ども達も順調に大きくなり、家庭サービスもちゃっと出来たし、医者になって今までで一番いいかなあ。
○昭和62年12月31日(木)晴。
 夜、大晦日というのに、5人診た。ホントに急患って感じで、それなりにひどかった。いつもの様に歳の暮れは両親のいる白潟に行って、若宮に参り、家内安全を祈った。今年の年末年始は楽だなあ。いや、自分の頭には、年末年始で特別という概念はない。そう思わなければ、年末年始に働いたって、何てことない。深夜起こされなければ楽なんだがなあ。今年の年末年始は、いつもの新患とのトラブル、起きないなあ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その279)

2008-02-22 08:09:11 | Weblog
○昭和62年11月10日(火)晴。
 (午後の院内健診で)60人も来た。今までこんなに多かったことなかったなあ。健診って、健康なのを診て異常を探す訳で、精神的にとても疲れる。超ベテランがするべきかも知れないなあ。
○昭和62年11月12日(木)雨。
 (佐伯市教育委員会主催の)コンピューターの講義、やっと5回目が終わった。(家の近くの)○○さんの車で連れて行ってもらった。○○さん、よくバッハのバロック音楽をよく聴いている。お兄さんが東大を出て、若くして癌で亡くなったとのこと。歳なのに、頑張るなあ。5回も講義を受けると、結構分かってきた感じだ。参加者、皆、一生懸命だ。生活がかかっている人もいるみたいだから。
○昭和62年11月18日(水)晴。
 渡台町のゴルフの打ちっ放しで、土屋先生(実は、この脳外科医の先生の薦めで、当初ゴルフをする気になったのだが)と偶然に一緒になった。ゴルフ、前よりはましになった感じで、土屋先生も褒めてくれた。もう1年以上もしている。いや、まだ1年しかしていないと言うべきだ。上手な人が多いなあ。自分には努力が足りない。練習量が少ない。まだ、地球を打ったり、空気だけを打ったりすること、ホント未熟だ。
○昭和62年11月20日(金)晴。
 コンピューターの講義8回目であった。欠席者って、1割もいない。8回目になってもだ。教える先生も上手だなあ。親切で優しい。ずっとあるともっともっとよく理解して行ける感じだ。その点、英会話は、駄目だなあ。(先生もアメリカ人のボブさんからカナダ人のポールさんに代わり)池田先生は上手になっているが、自分は駄目だ。
○昭和62年12月6日(日)雨。
 8:30から別府の豊岡でゴルフをした(西田病院ゴルフ同好会のメンバーで)。雨が午後から降り出し、雪も降り出し、霧もかかり、グリーンが白くなっていて、メガネをいくら拭いても白くなり、途中でとうとう中止になってしまった(この時のこと、今でも、ありありと覚えている)。車がチェーンを巻いていない為に滑って、怖かった。その後、温泉に入って、20:00に佐伯にたどり着いた。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする