「みんみん蝉とウンコに呑み込まれる」のつづき
ネットで素人が書き散らすストーリーから自分語りまで非論理的な雑感はもちろん名著には、書き手が織り込む物語がある。
本を読んでは盛大に影響を受け、こんな読書感想文を綴っているくらいなので、私には「悲嘆の門」(宮部みゆき)と「アクアマリンの神殿」(海堂尊)の警告が意図しているところが、よく分かる。
これに対して「神様のカルテ0ゼロ」が読書に向ける視線は素朴で素直だ。
「神様のカルテ0ゼロ」
確実に死を前ににしながら治療を先延ばしにする読書家(國枝)を前にして主人公の医師一止は言う。
『確かに本は良いですが、肝腎な時にかぎって、なかなか役には立ちません。國枝さんのように、治療を引き延ばそうとする患者に対してどうすればよいか、「草枕」にだって答えは書いていない』
これに対して元国語教師で読書家の國枝は言う。
『本には正しい答えが書いてあるわけではありません。本が教えてくれるのは、もっと別のことですよ』
『人は、一生のうちで一個の人生しか生きられない。しかし本は、また別の人生を体験できる。
そうするとたくさんの人の気持ちもわかるようになる』
''たくさんの人の気持ち?''と問う一止
『困っている人の話、怒っている人の話、悲しんでいる人の話、喜んでいる人の話、そういう話を
いっぱい読む。すると、少しずつだが、そういう人の気持ちがわかるようになる』
''わかると良いことがあるのですか''と問う一止。
『優しい人間になれる』
''しかし、今の世の中、優しいことが良いことばかりではないように思います''
『それは、優しいということと、弱いということを混同しているからです。優しさは弱さではない。
相手が何を考えているのか、考える力を「優しさ」というのです』
『優しさというのはね、想像力ということですよ』
たくさん本を読めば、たくさんの人の気持ちが分かり優しくなれるというなら、そこそこ本を読んでいる私は、優しさの有段者となってもいいはずだが、それには遠く及ばない。
本を読んで想像力が逞しくなったとして、優しくなるとは限らない。
主人公が困っている本を読めば、困らせている登場人物(ワロモノ)に腹が立ち、主人公が悲しんでいれば、悲しませているワロモノに腹が立ち、そこから、人を困らせ悲しませてながら平気の平左で調子よくやってる現実世界のあれやこれやへの腹立ちが生じ・・・・・もう物語に呑み込まれてしまうのだ。
優しさとは、ほど遠い。
更に物語を紡ぐのは小説ばかりではない。
時代や社会や因習が織りなすストーリーが、時に人を呑み込む場合もある。
「現代的な雅子妃殿下は伝統との狭間で自己実現に苦しまれている」と考えた、ある有名な女性作家は「(ご自分の物語を生きようと苦しむのでなく)国民が思うところの皇太子妃像を演じて下さい」といった趣旨を書いたことがある。これは必ずしも悪意から出たものではなく、歴史と伝統と因習が揺るぎなく縦糸を紡いでいる物語の世界に生きる人は、その物語が望むままに(その)配役を演じた方が楽である、という老婆心からでた言葉であったとは思うし、一面の真理はあると思う。
雅子妃殿下のお悩みが自己実現についてか否かは、私には分からない。
ご学歴や経歴から現代的だと思われがちな雅子妃殿下だが、長い海外生活にあって日本の伝統行事を大切にされていたことや、最終的に日本で就職することを決意された理由が、自分を前面にだして事を進める外国の仕事の手法が性格にあわないと判断されたことに加えて「根無し草になりたくない、日本の為に仕事をしたい」であったことから考えると、強烈な自己実現を望むご性格ではないとの印象を受けている。
巷間いわれる祭祀についても、御病気になられるまでは熱心にされていたことや、天皇陛下に御目通りを許された鎌倉鶴岡八幡宮の宮司を高祖父におもちであることを考えると、祭祀がもつ神秘の物語との狭間で悩まれているというのは疑問だ。むしろ昨年7月伊勢神宮を参拝された折、雅子妃殿下が伊勢神宮の方々に「伊勢に来たかった」と話されたことに鑑みると、ご体調が許しさえすれば祭祀を向かわれることに精神的な葛藤はないのではないかと拝察している。
それでも、私は有名な女性作家の「国民の思うところの皇太子妃像」との言にも一面の真理はあると思っている。
ただ、問題となるのは、国民が考える皇太子妃像が果たして伝統的な皇太子妃像に合致しているのか。
おそらく、そうではない。
そのあたりについては、つづく
ネットで素人が書き散らすストーリーから自分語りまで非論理的な雑感はもちろん名著には、書き手が織り込む物語がある。
本を読んでは盛大に影響を受け、こんな読書感想文を綴っているくらいなので、私には「悲嘆の門」(宮部みゆき)と「アクアマリンの神殿」(海堂尊)の警告が意図しているところが、よく分かる。
これに対して「神様のカルテ0ゼロ」が読書に向ける視線は素朴で素直だ。
「神様のカルテ0ゼロ」
確実に死を前ににしながら治療を先延ばしにする読書家(國枝)を前にして主人公の医師一止は言う。
『確かに本は良いですが、肝腎な時にかぎって、なかなか役には立ちません。國枝さんのように、治療を引き延ばそうとする患者に対してどうすればよいか、「草枕」にだって答えは書いていない』
これに対して元国語教師で読書家の國枝は言う。
『本には正しい答えが書いてあるわけではありません。本が教えてくれるのは、もっと別のことですよ』
『人は、一生のうちで一個の人生しか生きられない。しかし本は、また別の人生を体験できる。
そうするとたくさんの人の気持ちもわかるようになる』
''たくさんの人の気持ち?''と問う一止
『困っている人の話、怒っている人の話、悲しんでいる人の話、喜んでいる人の話、そういう話を
いっぱい読む。すると、少しずつだが、そういう人の気持ちがわかるようになる』
''わかると良いことがあるのですか''と問う一止。
『優しい人間になれる』
''しかし、今の世の中、優しいことが良いことばかりではないように思います''
『それは、優しいということと、弱いということを混同しているからです。優しさは弱さではない。
相手が何を考えているのか、考える力を「優しさ」というのです』
『優しさというのはね、想像力ということですよ』
たくさん本を読めば、たくさんの人の気持ちが分かり優しくなれるというなら、そこそこ本を読んでいる私は、優しさの有段者となってもいいはずだが、それには遠く及ばない。
本を読んで想像力が逞しくなったとして、優しくなるとは限らない。
主人公が困っている本を読めば、困らせている登場人物(ワロモノ)に腹が立ち、主人公が悲しんでいれば、悲しませているワロモノに腹が立ち、そこから、人を困らせ悲しませてながら平気の平左で調子よくやってる現実世界のあれやこれやへの腹立ちが生じ・・・・・もう物語に呑み込まれてしまうのだ。
優しさとは、ほど遠い。
更に物語を紡ぐのは小説ばかりではない。
時代や社会や因習が織りなすストーリーが、時に人を呑み込む場合もある。
「現代的な雅子妃殿下は伝統との狭間で自己実現に苦しまれている」と考えた、ある有名な女性作家は「(ご自分の物語を生きようと苦しむのでなく)国民が思うところの皇太子妃像を演じて下さい」といった趣旨を書いたことがある。これは必ずしも悪意から出たものではなく、歴史と伝統と因習が揺るぎなく縦糸を紡いでいる物語の世界に生きる人は、その物語が望むままに(その)配役を演じた方が楽である、という老婆心からでた言葉であったとは思うし、一面の真理はあると思う。
雅子妃殿下のお悩みが自己実現についてか否かは、私には分からない。
ご学歴や経歴から現代的だと思われがちな雅子妃殿下だが、長い海外生活にあって日本の伝統行事を大切にされていたことや、最終的に日本で就職することを決意された理由が、自分を前面にだして事を進める外国の仕事の手法が性格にあわないと判断されたことに加えて「根無し草になりたくない、日本の為に仕事をしたい」であったことから考えると、強烈な自己実現を望むご性格ではないとの印象を受けている。
巷間いわれる祭祀についても、御病気になられるまでは熱心にされていたことや、天皇陛下に御目通りを許された鎌倉鶴岡八幡宮の宮司を高祖父におもちであることを考えると、祭祀がもつ神秘の物語との狭間で悩まれているというのは疑問だ。むしろ昨年7月伊勢神宮を参拝された折、雅子妃殿下が伊勢神宮の方々に「伊勢に来たかった」と話されたことに鑑みると、ご体調が許しさえすれば祭祀を向かわれることに精神的な葛藤はないのではないかと拝察している。
それでも、私は有名な女性作家の「国民の思うところの皇太子妃像」との言にも一面の真理はあると思っている。
ただ、問題となるのは、国民が考える皇太子妃像が果たして伝統的な皇太子妃像に合致しているのか。
おそらく、そうではない。
そのあたりについては、つづく