何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

<奸>言に打ち勝つ女子の義

2016-07-07 23:25:15 | 
以前「辛夷の花」(葉室麟)について書いたが、その時は尺八談義に終始したので、自分的に関連書籍と思う本と併せて、感想を記しておこうと思う。「睡蓮を頭にのせて尺八に酔う」

「辛夷の花」本の帯より引用
『九州豊前の小藩、小竹藩の勘定奉行・澤井家の志桜里は近習の船曳栄之進に嫁いで三年、子供が出来ず、実家に戻されている。近頃、藩士の不審死が続いていた。現藩主の小竹頼近は養子として迎えられていたが、藩主と家老三家の間に藩政の主導権争いの暗闘が火を噴きつつあった。藩主が襲われた時、命を救った木暮半五郎が志桜里の隣家に越してきた。剣を紐で縛り”抜かずの半五郎”と呼ばれてきた男が剣を抜く時! 小藩の藩政を巡る攻防と志桜里の思い。半五郎が庭の辛夷の花に託した歌の意味とは……。
生きていくうえでの苦難は、ともに生きていく人を知るためのもの

帯でも大文字で強調されている『生きていくうえでの苦難は、ともに生きていく人を知るためのもの』という言葉は、志桜里の夫・栄之進の母・つまり姑・鈴代が、不甲斐ない息子(栄之進)と実家の間で苦しむ嫁にかける言葉で、本書でひときわ際立っている。

栄之進は、家老三家の不忠を糺す役目を任されるほどに殿の勘定奉行・澤井への信頼が篤いと見るや、その娘を嫁にとり、殿側の形勢不利と見るや、子を生さぬことを理由に嫁を里に返し、里に返した嫁に(殿が信頼している)半五郎が気があるとみるや復縁を迫るという身勝手さ。
最終的に、家老三家の悪事をあばく算段が上手くいかず勘定奉行・澤井家が上意討ちに遭いそうだと知るや、さっさと家老方につき、嫁の父に不利な証文を捏造してまで、自らの身を守ろうとする。
そのやり口を、栄之進自身は「お家を守るため」だと疑わないが、その母・鈴代は義に悖る振る舞いだと情けなく思い、嫁・志桜里に実家に戻り、家族と大切な人と共に生きることを勧める。
『志桜里殿、人は苦難に遭ったとき本性があらわれると申します。苦難の際、そばに立ってくれる人がともに生きることができる人なのだろうと思います。されど、あなたには栄之進がそのような思いやりを持っていると思えないのでしょうね』
『わたくしは生きていくうえでの苦難は、ともに生きていく人を知るためのものではないかと思うのですよ』
『女人はこう生きなければならないと思い込んで、こう生きたいという思いを抑えがちです。それが家や家族を守るために最も良いことだと思うのでしょうが、時には素直に己の思いに従ってがって生きてもいいのではないでしょうか』

姑・鈴代の勧めを受け入れ実家に戻った志桜里について、「嫁したからには、この家こそを守るべきであり、実家を守るのは女子の務めではございますまい」と栄之進は怒り狂うが、鈴代はここでも「女子の義」を説く。
『(志桜里殿は)たとえ命が危うかろうとも、大切なものを守ろうとするでしょう』 
『何を守るのかは女子自身が決めることなのです』
『たとえ許されなくとも女子は自らが信じることをなします。此度、三家がなしておることは不忠の振る舞いです。忠義を捨て、不忠に加担することに何の義がありましょうか。女子は義ある道を歩むものです』

志桜里が実家に帰るというのは、命がけの選択であった。
代々悪事を働く家老三家は、過去にも上意討ちしたことがあり、それは女子供を含めすべて皆殺しにしたうえで証拠隠滅のために屋敷を焼き払うという冷酷非道なものだった。
殿の命とはいえ家老三家の悪事をあばこうとした勘定奉行・澤井家に上意討ちが迫りつつある時そこに戻るということは、死を意味することであったが、姑の言葉を胸に、家と(家を守る)半五郎と同じ道を歩むため、志桜里は家へ帰る。

生きていくうえでの苦難は、ともに生きていく人を知るためのもの』という言葉は、義ある女子の道を指し示すだけでなく、殿の道にも通じるように、私には思える。

『世間を憂しと恥しと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば (世の中を鬱陶しく生きていくのが恥ずかしくもあると思っているが、鳥ではないのだから飛び立っていくこともできない)』という山上憶良の歌がふと口をついて出るほどに、殿は城の奥深くで重臣にとり囲まれ生活している。
自分を取巻く家老どもが、私利私欲で藩政と藩の財政を牛耳っていることを見破り、勘定奉行に悪事を暴く証拠を集めさせても、悪事に長けた家老どもは逆に勘定奉行を奸計に陥れた上で一族皆殺しを謀ろうとするだけでなく、思い通りにならない殿を「錯乱された」として引き摺り下ろし、幼い君主をたてようとすら企てる。
まずは殿を操ろうとし、それが叶わぬとみるや、殿を押し込め新たな藩主(幼帝)を作り出そうとする一連の行動を、家老たち自身は「諌言」だと言っている。

「いかなることをしても主君を思いのままに動かそうとするとは驚いた。そなたらのしていることは謀反だぞ」
「殿がその考えであれば、殿を押し込め参らせ、新たな主君を擁することにいたしますぞ」
城の奥深くで夜通し続けられる、殿と家老たちの応酬を打ち破ったのは、殿を救うため、明け方駆けつけた若侍の言葉だった。
『表に出ればお味方する家臣が多うございます』

若侍とともに城の奥深くから出た殿は、新たな味方をえて藩の改革に乗り出していくのだが、ここにも『生きていくうえでの苦難は、ともに生きていく人を知るためのもの』という言葉は効いているように思われるのだ。

人が生きる方向を迷う時、目の前の道そのものの良し悪しだけにとらわれるのではない。
誰とその道を生きるのか、誰となら生死をともにしたいと願えるのか・・・・・
道に迷った時に、その誰かを探すのではなく、
その誰かに出会うために、苦難の道をも歩まねばならない・・・と教えてくれた一冊であった。

冒頭に書いた私的関連書籍との関わりは、「続き」に書くとして、本書には現在進行形で行われている悪巧みを彷彿とさせる言葉があるので、それについて記しておこうと思う。
「諌言」

八年前、皇太子様に、「諌言」として「離婚、別居、廃嫡」を迫る輩がいた。
東宮に世継ぎがおられないこと、雅子妃殿下がご病気であることを理由とする八年前の「諌言」も読むに堪えないものだったが、八年の時をへて最近また「諌言」とやらをばら撒いている。
その「諌言」というのが、まさに「皇太子様を退位させ幼帝をたてよう」という千代田案を良しとするものなのだ。
どこかで聞いたような読んだような、「諌言」ではないか。
宮内省省報も皇室祭祀令も理解せぬ輩が、皇室典範と云う憲法に準ずる法律を侵すべしと、言う。
それを、「諌言」だと言う。

何時の世も奸計に通ずるのが、「諌言」なのかもしれない。
そうであれば、新たな時代こそ、「女子の義」が貫かれる世になって欲しいと強く強く願っている。


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