何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

讃良の方さで考えよう

2016-07-19 20:55:55 | 
不敬であることを承知で云わせて頂きたい。
「皇太子様 <ささらほうさら>だねえ」
「雅子妃殿下 <ささらほうさら>だねえ」
「敬宮様 <ささらほうさら>だねえ」

「ささらほうさら」とは、「桜ほうさら」(宮部みゆき)で主人公にかけられる言葉である。 (『 』「桜ほうさら」より引用)
『あんたも<ささらほうさら>だねえ』
『甲州弁でね、あれこれいろんなことがあって大変だ、大騒ぎだっていうようなとき、言うんだよ』 

宮部みゆき氏の本は、発売から程なく読むことにしているのだが、どういうわけか「桜ほうさら」は読みそこなっていた。
それをこのタイミングを読んだのも何かの縁だと感じるのは、本書の肝が「家族」と「言葉の真贋」にあるかからもしれない。  

先週13日にNHKのスクープで始まった「天皇陛下生前退位」報道。

<天皇陛下 「生前退位」の意向示される> 7月13日19時00分NHKより一部引用
天皇陛下が、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示されていることが分かりました。数年内の譲位を望まれているということで、天皇陛下自身が広く内外にお気持ちを表わす方向で調整が進められています。

平素は放送後にネットに配信される記事が、放送と同時に配信されたことからもNHKの力の入れようが伺えるが、いつの間にか、それは無いものとなっている。

<生前退位意向 宮内庁長官「お話しになられた事実はない」> 毎日新聞2016年7月14日19時44分より一部引用
宮内庁の風岡典之長官は14日、定例会見で、天皇陛下が生前退位の意向を示されたとの報道について「具体的な制度についてお話しになられた事実はない」と述べた。「従来陛下は憲法上のお立場から、制度について具体的な言及は控えている」と繰り返し、皇室典範など制度に関する陛下の発言はないことを強調した。

<天皇陛下、早期退位想定せず 公務「このペースで臨む」> 2016/7/16 02:00共同通信より一部引用
天皇陛下が皇太子さまに皇位を譲る生前退位に向けた法改正を政府が検討していることを巡り、天皇陛下自身は早期退位の希望を持たれていないことが15日、政府関係者への取材で分かった。


今上陛下の御心は拝察しようがないので、陛下の御言葉について、ここであれこれ書くつもりはないが、曲がりなりにも公共放送が大々的に報じたことが、たった数日で引っくり返るところに、この国が抱える問題の根源をみる思いでいるとき、「桜ほうさら」の内容は、なかなかに示唆に富んでいるように感じられるのだ。

「桜ほうさら」は、父・宗左右衛門の汚名を雪ぐべく江戸へ出てきた上総国搗根藩の小納戸役の次男坊である古橋笙之介が、町人や長屋の人の手をかりつつ事件を解決するという人情ものだが、その事件とは。
ある時、野良犬一匹斬れぬという理由で「不犬流」と嗤われるほどに優しい父・宗左右衛門に、賄賂を受け取ったという疑いがかかる。
身に覚えがないにもかかわらず賄賂を受領したという嫌疑を逃れることができず、蟄居閉門から切腹へと至ったのは、宗左右衛門自身も自分のものとしか思えないほどの手跡の(賄賂の)証文が見つかったからだが、この偽文書騒動の裏には、藩主の跡目争いが絡んでいたために、江戸留守居役の協力のもと、笙之介が事の次第を探るというのが本書の大筋である。
そして、その過程で重要な視点となってくるのが、「言葉の真贋をみる目」と「家族」だと思うので、言葉が二転三転するニュースとその根っこにある家族について思いを巡らせることになったのだ。

笙之介は父の汚名を雪ぐべく、父の手跡を真似て偽の賄賂の証文を書いた代書屋を探すが、広い江戸で手掛かりすら見つからないまま上巻が終わるので、読んでるこちらまで焦ってくる。だが、焦りを募らせた時に笙之介が思い出す老人や国元の老師の言葉には考えさせられるものがある。

『(真似られた当人にも見分けがつかぬ程そっくりに、他人の手跡を真似て書くことができる人物がいるとすれば)、真似る手跡の主に合わせて、ころころと眼を取り替えることのできる人物』 という老人の言葉から、偽の文字(言葉)を操るのは「真似る主に合わせて心を取り替える」ことができる人物だと笙之介は気付く。
『人は誰でも目でものを見る。だが、見たものを留めるのは心だ。
 人が生きるということは、目で見たものを心に留めてゆくことの積み重ねであり、心もそれによって育っていく。
 心が、ものを見ることに長けてゆく。
 目はものを見るだけだが、心は見たものを解釈する。
 その解釈が、時には目で見るものと食い違うことだって出てくるのだ。』

心を取り替え、解釈を違え、たった一週間たつかたたずかで、ころころ報道が変わったのは、それを言わせたい人の都合に合わせるからだろうし、いくら向こうさんの都合に合わせようとしても、こちら側との解釈とは異なってくることもある。
元の言葉が迷走しているので、受け留めるこちらも真実がどこにあるのか分からないが、分からない時の対処法も本書には示されている。

笙之介は、よろずの学び事に向き合うとき国元の老師の言葉を常に浮かべていた。
『分からないことに直面したときには、焦ってはいけない。
分からぬものを強いて分かろうと、いきなり魚を捌くようにしてしまえば、分からなかったものの本体がどこかへ逃げ去ってしまう。
故に、分からぬものに遭遇したら、魚をいけすで飼うようにそれを泳がせ、よくよく見つめる事が、正しい理解へ至る大切な道筋だ』

しかし、よくよく見つめて笙之介が辿り着いた真実は、残酷だった。
自身の出世栄達のためなら、父の命を売り、兄弟の命を絶ち切ろうとする者もいる。
自分だけの出世栄達を願い、代々続く「家」を破壊し、自身を新たな「家」の始まりとしようとする者もいる。
本書は、最近はやりの「絆」を信じる者には残酷な現実と真実を突き付けてくる。
『人の世では、親子でも相容れないことがある。解り合えないことがある。気持ちが食い違い、許し合えないことがある。
どれほど思っても、通じあえないことがある。立場と身分が、思いの真偽を入れ替えることがある。
誰かが大切に守っているものが、別の誰かに弊履の如く捨てられることがある』

そして、このような利己主義に固まった者は得てして常日頃から嘘にまみれた生活を送っている。
自分が得をするための「嘘」、誰かを陥れるための「嘘」、自らを実際以上の人物に見せかけるための「嘘」、そんな「嘘」は釣り針に似ていると、父・宗左右衛門は言う。
『釣り針の先には、魚の口に引っかかったら容易に外れぬように、返しがついている。
 嘘というものにも返しがついている。
 だから人を引っかけるには容易だが、一度引っ掛かったらなかなか抜けない。
 自分の心に引っかけるのも容易だが、やはり一度引っ掛かったらなかなか抜けない。
 それでも抜こうと思うならば、ただ刺さっているときよりもさらに深く人を傷つけ、己の心も抉ってしまう。』
父はこうして、「嘘」をつくことの怖さを教えるが同時に、利己主義にまみれた「嘘」に対抗するための手段としての「嘘」も教えており、この教えが最終的に笙之介の生きる道を示すことになる。
『嘘は、一生つきとおそうと覚悟を決めた時だけにしておきなさい』

言葉が二転三転するということは、そこかしこに「嘘」が紛れているとまではいえないにせよ、真実でないものが混じっていることは確かだ。
言葉の主、その主(の心)に合わせる代弁者、それぞれ思惑と解釈が二転三転し分からない今、早急に答えを出す必要はない。
よくよく見つめ、よくよく考え、時間をかけて正しい理解へ至れば良い。

不敬を承知で再度いう。
「皇太子御一家 <ささらほうさら>だねえ」

だが、本書の後書きにもあるように、『「あんたも<ささらほうさら>だねえ」 -そういわれたら、肩の力が抜け、ちょっとだけ荷物も軽くなる』 
歩いてみなければ未来が茨の道か光の道かは分からないが、その背中には大きな荷物が乗っかっているとしても、『いつかきっと、大切な人たちと「<ささらほうさら>だったねえ」と笑い合える日が来る』と信じさせてくれる「桜ほうさら」

人を導く八咫烏と人を勝利に導く金鵄に導かれ、明後日21日神武天皇稜を参拝される皇太子御一家。
今は茨の道を歩んでおられるかもしれない皇太子御一家だが、八咫烏と金鵄のお導きで、『いつかきっと、大切な人たちと「<ささらほうさ>だったねえ」と笑い合える日が来る』と信じている。

皇太子御一家と国民が、「<ささらほうさら>だったねえ」と笑い合える日が来ることが、日本が明るい光の道へと歩むことに繋がると信じている。

参照、「導きの神」 「祝号外 八咫烏と金鵄が導く明るい未来」