この一年ほど毎日、’’海’’に向かって奏でられる’’チェロ’’の音色を味わうことを楽しみにしてきたが、奏者が入院されるため、しばらくの間 含蓄ある味わい深い音色を聞くことが出来ないことが、寂しい。
そこで、チェロが描かれた本など読みながら無事のご帰還を待とうと、図書館の検索語彙に「チェロ」と入れてみた。
「青のフェルマータ」(村山由佳)
検索語彙に「チェロ」と打っただけにも拘らず、「海」が舞台の物語に出会えた不思議に感謝しつつ読んでみた。(『 』「青のフェルマータ」より引用)
表紙裏の紹介文より
『両親の不和、離婚から言葉を失った里緒は、治療に効果的だというイルカとのふれあいを求めて、オーストラリアの島にやってきた。研究所のイルカの世話を手伝って暮らす彼女に島に住む老チェリストJBが贈る「フェルマータ・イン・ブルー」の曲。美しいその旋律が夜明けの海に響いたとき、海のかなたから野生のイルカが現れて―。心に傷を持つ人々が織りなすイノセントでピュアな愛の物語。』
主人公・里緒が言葉を失ったのは、単に両親が離婚したという理由ではなく、それが自分の言葉によるものだったからだ。
母の浮気を、父に告げ口した。
それにより両親は離婚し、母はノイローゼのため言葉が聞こえなくなり、自らは言葉を失った。
だから里緒にとって、言葉は否定的な要素となる。
『例えば、六色しかない色鉛筆ー言葉というものは、そういうものじゃないか』、自分の気持ちに何となく似た色はあり、色どうしを混ぜ合わせたりすれば、かなり近いところまで辿りつけることもあるが、でも、そこまでであり、100%正確に表せる色は、結局自分の心の中にしかない、と里緒は思っている。
心の動きは本来、言葉なんかで表されるような単純なものではないはずなのに、世の中は、心の方が言葉に縛られてしまっている、と里緒は信じ込んでいる。
だから、言葉ではなく体を通ってゆく感覚だけに導いてもらうために、海に潜る時やチェロを弾き始める前には、頭のスイッチを切るようになる。
そんな里緒に、かつての名チェリストは、自らが作曲した楽譜を手渡すのだが、そこには夥しい数のフェルマータが記されていた。
チェロのための無伴奏の変奏曲「フェルマータ・イン・ブルー」
本書には、『通常、フェルマータ記号がついている音符や休止符は、それを普通の二倍から三倍「伸ばす」ことになっている。あるいは、楽譜の一番最後に記してあれば、その曲がそこで「終わる」ことを表す』とある。
最近はピアノを弾くこともほとんどないが、フォルテとフォルティッシモで鍵盤を叩くことが常だった私にとって、フェルマータとは「無い」ようなものだった。
だが、山のようにフェルマータを記した変奏曲をつくった老チェリストは、それを「永遠」だという。
その「永遠」を里緒は、『(フェルマータが夥しい数あるために)どの休止符を、それぞれ何拍まで伸ばすかによって、時には旋律までが違って聞こえてくる。演奏者の解釈によって、無限の弾き方が可能になる』、その弾き方の無限さ故だと考える。
音楽におけるフェルマータの意味を考える能力は、勿論私にはないが、無限の弾き方を可能にする(楽譜や音の)解釈は、最終的には言葉によるものだと、私は思う。
心を突き動かす力の全てが言葉ではないとしても、言葉でなければ理解できなものも伝わらないものもある。
だからこそ、言葉によって言葉を失った里緒を直接的に救ったのはイルカやチェロだとしても、それに引き合わせて繋いでくれたのが’’言葉’’だったことに気付いた時に、里緒に声が戻ったのだと思う。
なぜ、これに拘るかというと、海に向かい様々な音色を響かせていたチェロの言葉を、しばらく聞くことができないことを寂しく思っているからだ。が、それを埋めるために読んだ本に、海とチェロと「永遠」が書かれていることは、素直に嬉しかった。
チェロの音(言葉)に一時休止符が置かれても、それまでの音色は褪せることはないわけで、寧ろ伸ばされた音の余韻と意味を考えながら、次の音(言葉)が奏でられる時を待てば良い。
けれど、また海に向かってチェロの音色が響く日が早いことを願っている。
ところで、雲海にお目にかかる僥倖はあっても、海の「青」というものを、この数年自分の目では見ていない。
私にとって自然界の美しい青というと、お山の上に広がる果てしない青い空だ。
海に向かって響くチェロの余韻に浸りながら、私にとっての青を思い浮かべ、本書で印象に残った言葉を考えみようと思う。
『大事なものは、そのとき奪い取らない限り、二度と手に入れることはできないんだよ。
あとになって後悔しても遅い。二度目はないんだ』
そこで、チェロが描かれた本など読みながら無事のご帰還を待とうと、図書館の検索語彙に「チェロ」と入れてみた。
「青のフェルマータ」(村山由佳)
検索語彙に「チェロ」と打っただけにも拘らず、「海」が舞台の物語に出会えた不思議に感謝しつつ読んでみた。(『 』「青のフェルマータ」より引用)
表紙裏の紹介文より
『両親の不和、離婚から言葉を失った里緒は、治療に効果的だというイルカとのふれあいを求めて、オーストラリアの島にやってきた。研究所のイルカの世話を手伝って暮らす彼女に島に住む老チェリストJBが贈る「フェルマータ・イン・ブルー」の曲。美しいその旋律が夜明けの海に響いたとき、海のかなたから野生のイルカが現れて―。心に傷を持つ人々が織りなすイノセントでピュアな愛の物語。』
主人公・里緒が言葉を失ったのは、単に両親が離婚したという理由ではなく、それが自分の言葉によるものだったからだ。
母の浮気を、父に告げ口した。
それにより両親は離婚し、母はノイローゼのため言葉が聞こえなくなり、自らは言葉を失った。
だから里緒にとって、言葉は否定的な要素となる。
『例えば、六色しかない色鉛筆ー言葉というものは、そういうものじゃないか』、自分の気持ちに何となく似た色はあり、色どうしを混ぜ合わせたりすれば、かなり近いところまで辿りつけることもあるが、でも、そこまでであり、100%正確に表せる色は、結局自分の心の中にしかない、と里緒は思っている。
心の動きは本来、言葉なんかで表されるような単純なものではないはずなのに、世の中は、心の方が言葉に縛られてしまっている、と里緒は信じ込んでいる。
だから、言葉ではなく体を通ってゆく感覚だけに導いてもらうために、海に潜る時やチェロを弾き始める前には、頭のスイッチを切るようになる。
そんな里緒に、かつての名チェリストは、自らが作曲した楽譜を手渡すのだが、そこには夥しい数のフェルマータが記されていた。
チェロのための無伴奏の変奏曲「フェルマータ・イン・ブルー」
本書には、『通常、フェルマータ記号がついている音符や休止符は、それを普通の二倍から三倍「伸ばす」ことになっている。あるいは、楽譜の一番最後に記してあれば、その曲がそこで「終わる」ことを表す』とある。
最近はピアノを弾くこともほとんどないが、フォルテとフォルティッシモで鍵盤を叩くことが常だった私にとって、フェルマータとは「無い」ようなものだった。
だが、山のようにフェルマータを記した変奏曲をつくった老チェリストは、それを「永遠」だという。
その「永遠」を里緒は、『(フェルマータが夥しい数あるために)どの休止符を、それぞれ何拍まで伸ばすかによって、時には旋律までが違って聞こえてくる。演奏者の解釈によって、無限の弾き方が可能になる』、その弾き方の無限さ故だと考える。
音楽におけるフェルマータの意味を考える能力は、勿論私にはないが、無限の弾き方を可能にする(楽譜や音の)解釈は、最終的には言葉によるものだと、私は思う。
心を突き動かす力の全てが言葉ではないとしても、言葉でなければ理解できなものも伝わらないものもある。
だからこそ、言葉によって言葉を失った里緒を直接的に救ったのはイルカやチェロだとしても、それに引き合わせて繋いでくれたのが’’言葉’’だったことに気付いた時に、里緒に声が戻ったのだと思う。
なぜ、これに拘るかというと、海に向かい様々な音色を響かせていたチェロの言葉を、しばらく聞くことができないことを寂しく思っているからだ。が、それを埋めるために読んだ本に、海とチェロと「永遠」が書かれていることは、素直に嬉しかった。
チェロの音(言葉)に一時休止符が置かれても、それまでの音色は褪せることはないわけで、寧ろ伸ばされた音の余韻と意味を考えながら、次の音(言葉)が奏でられる時を待てば良い。
けれど、また海に向かってチェロの音色が響く日が早いことを願っている。
ところで、雲海にお目にかかる僥倖はあっても、海の「青」というものを、この数年自分の目では見ていない。
私にとって自然界の美しい青というと、お山の上に広がる果てしない青い空だ。
海に向かって響くチェロの余韻に浸りながら、私にとっての青を思い浮かべ、本書で印象に残った言葉を考えみようと思う。
『大事なものは、そのとき奪い取らない限り、二度と手に入れることはできないんだよ。
あとになって後悔しても遅い。二度目はないんだ』