昨夜、いや夜明け方までかかって、パソコンを復旧させた。
昨夜パソコンを立ち上げると、ネットに繋がらない。
トラブルシューティングなるものを何度か試したが、うんともすんとも反応しない。
とりあえずタブレットで用事を済ませようとしたが、タブレットにはインストールされていないシステムやメール下書きに膨大に溜め込んだ書類のひな型などをどうしたものか?
半ばパニックになりながらタブレットであれこれ検索し、どうやら直近のwindowsのアップデートが不具合の原因だと推測し、アップデート前の状態に復旧させるという作業を、明け方までかかって行った。
その甲斐あって、どうにか今 現在このパソコンはネットに繋がっているが、10の脆弱性が云われたため7のままにしていることに、そろそろ無理が出ているのかもしれない。
それとも、内臓バッテリーが弱くなっているくらいなのだから、そもそも本体もかなりくたびれているのかもしれないが、お願いだから、あと一年半ほどは頑張っておくれ、とパソコンに語りかけている。
こうしてみると、この私ですら、かなりデジタル機器のお世話になっている。
自分はアナログ人間だと思っているが、それでも、もはやパソコンなしでは一日も回らない。
まして、溜め込んだ資料などが失われたとなれば、正真正銘のパニックに陥ってしまうかもしれない。
そんな恐ろしい経験が、最近読んだ本について書く糸口になった。
「孝謙女帝の遺言 芸亭図書館秘文書」(佃一可)
「孝謙女帝の遺言」の帯より
『我が国で初めての公開図書館・芸亭を設立した石上宅嗣。物部氏の直系である宅嗣のまなざしを通して,激動の孝謙女帝時代を描く。繰り返される政変,つぎつぎと交代する権力者,定まらぬ皇位継承。そのなかにあって,宅嗣は「芸亭」をなぜ創始したのか。 図書館に求めた知識とは,何であったのだろうか。』
「至福の時間は、ただブラブラと図書館で本を探していられる時」という私の図書館好きを知る本仲間が勧めてくれた本だが、本書が「孝謙女帝の遺言」という題名であるだけに、初版発行の2017年12月1日という日を、複雑な思いで見てしまい、読むことも それについて何か書くことも躊躇っていた。
だから、本書についても、定まらぬ皇位継承をめぐり繰り返される政変や次々と交代する権力者などについては、あまり言及したくはない。
だが、帯が読者に問う「そのような時代に、なぜ芸亭が設立されたのか、図書館に求めた知識とは何であったのだろうか」との質問には、まさに そのような不安定な時代であったからこそ、後世に残る記録を(それが たとえ一方的なものであったとしても)一所に寄せる必要があったのではないかと、問いを以て問いに答える心持でいる。
というわけで、(どういう訳かは深追いせず・・・)本書で印象に残った文章だけを、いつ消えてなくなるともしれないデジタル世界に記しておきたいと思っている(苦笑)。
さて、孝謙女帝というと言わずもがなでついてくる道教。
そのアレやコレやの真偽を語るほどのものを持ち合わせてはいないので、道教が説く禅についてだけ記しておこうと思う。(『 』「孝謙女帝の遺言」より)
孝謙天皇の『禅というものはどういうものか』という問いに、道教は以下のように答えている。
『禅は心の持ちようにございます』
『ある人が海に投げ出されたとします。波が高くまわりも見えず必死にばたばたと躯を動かします。すると躯は海に沈んでしまいます。またある人が、海に投げ出され、投げ出されたことを受け入れて躯も心も海に投げ出すと躰は自然に浮いてきます。拙僧の理解する禅とはこのようなものです』
孝謙天皇は、道教の説く禅が果たして正しいものなのかは判断できなかったというが、政変と混乱のただなかにいる御自分の立場を見事に説明しているように思えたという。
そこで、孝謙天皇は「何もかも受け入れ、何もしないというわけにはいかないだろう」と更に問われた。
この問いに対する道教の答え、さすがに禅問答といわれるだけのことはある。
『さようでございます。自分という立場を捨て去り大局に身を任せたとしても、どうしてもしなければならないこともございます』
『それはどこが違うのか』
『その違いは言葉では言い表せません。<敢為>と申しますその心境は、その時にしかわかりません』
『それでは、心持ちではなくてどのような心構えかを話してくれぬか』
『さようでございますな。人にはそれぞれ役目というものがございます』
『宿命ということか』
『いえ、違いまする。上皇様(孝謙天皇)は天皇陛下を御指導されるのがお役目。そのお役目で上皇様の御都合ではなくてご自身から離れたところで物事を御覧になって、するべきことが生じたのならば敢えてどんな障害があっても行う、とういうことでございましょうか』
全てを受け入れ大局に身を任せてこそ浮かぶ瀬もある、と云いつつ、自らに与えられた役目はどのような障害があっても行わねばならないという。
しかも、そのためには自分から離れたところに立って物事を判断せねばならないという。
私ごとき凡人には至ることの出来ない心構えであるが、パソコンの不具合で全ての記録が消えるかもしれないという恐怖を体感したおかげで、(記録を留め置く)図書館が日本に初めて設立された経緯を書いた「孝謙女帝の遺言」を思い出したことに、深い意味を見出したいと、色々迷う私としては思っている。
昨夜パソコンを立ち上げると、ネットに繋がらない。
トラブルシューティングなるものを何度か試したが、うんともすんとも反応しない。
とりあえずタブレットで用事を済ませようとしたが、タブレットにはインストールされていないシステムやメール下書きに膨大に溜め込んだ書類のひな型などをどうしたものか?
半ばパニックになりながらタブレットであれこれ検索し、どうやら直近のwindowsのアップデートが不具合の原因だと推測し、アップデート前の状態に復旧させるという作業を、明け方までかかって行った。
その甲斐あって、どうにか今 現在このパソコンはネットに繋がっているが、10の脆弱性が云われたため7のままにしていることに、そろそろ無理が出ているのかもしれない。
それとも、内臓バッテリーが弱くなっているくらいなのだから、そもそも本体もかなりくたびれているのかもしれないが、お願いだから、あと一年半ほどは頑張っておくれ、とパソコンに語りかけている。
こうしてみると、この私ですら、かなりデジタル機器のお世話になっている。
自分はアナログ人間だと思っているが、それでも、もはやパソコンなしでは一日も回らない。
まして、溜め込んだ資料などが失われたとなれば、正真正銘のパニックに陥ってしまうかもしれない。
そんな恐ろしい経験が、最近読んだ本について書く糸口になった。
「孝謙女帝の遺言 芸亭図書館秘文書」(佃一可)
「孝謙女帝の遺言」の帯より
『我が国で初めての公開図書館・芸亭を設立した石上宅嗣。物部氏の直系である宅嗣のまなざしを通して,激動の孝謙女帝時代を描く。繰り返される政変,つぎつぎと交代する権力者,定まらぬ皇位継承。そのなかにあって,宅嗣は「芸亭」をなぜ創始したのか。 図書館に求めた知識とは,何であったのだろうか。』
「至福の時間は、ただブラブラと図書館で本を探していられる時」という私の図書館好きを知る本仲間が勧めてくれた本だが、本書が「孝謙女帝の遺言」という題名であるだけに、初版発行の2017年12月1日という日を、複雑な思いで見てしまい、読むことも それについて何か書くことも躊躇っていた。
だから、本書についても、定まらぬ皇位継承をめぐり繰り返される政変や次々と交代する権力者などについては、あまり言及したくはない。
だが、帯が読者に問う「そのような時代に、なぜ芸亭が設立されたのか、図書館に求めた知識とは何であったのだろうか」との質問には、まさに そのような不安定な時代であったからこそ、後世に残る記録を(それが たとえ一方的なものであったとしても)一所に寄せる必要があったのではないかと、問いを以て問いに答える心持でいる。
というわけで、(どういう訳かは深追いせず・・・)本書で印象に残った文章だけを、いつ消えてなくなるともしれないデジタル世界に記しておきたいと思っている(苦笑)。
さて、孝謙女帝というと言わずもがなでついてくる道教。
そのアレやコレやの真偽を語るほどのものを持ち合わせてはいないので、道教が説く禅についてだけ記しておこうと思う。(『 』「孝謙女帝の遺言」より)
孝謙天皇の『禅というものはどういうものか』という問いに、道教は以下のように答えている。
『禅は心の持ちようにございます』
『ある人が海に投げ出されたとします。波が高くまわりも見えず必死にばたばたと躯を動かします。すると躯は海に沈んでしまいます。またある人が、海に投げ出され、投げ出されたことを受け入れて躯も心も海に投げ出すと躰は自然に浮いてきます。拙僧の理解する禅とはこのようなものです』
孝謙天皇は、道教の説く禅が果たして正しいものなのかは判断できなかったというが、政変と混乱のただなかにいる御自分の立場を見事に説明しているように思えたという。
そこで、孝謙天皇は「何もかも受け入れ、何もしないというわけにはいかないだろう」と更に問われた。
この問いに対する道教の答え、さすがに禅問答といわれるだけのことはある。
『さようでございます。自分という立場を捨て去り大局に身を任せたとしても、どうしてもしなければならないこともございます』
『それはどこが違うのか』
『その違いは言葉では言い表せません。<敢為>と申しますその心境は、その時にしかわかりません』
『それでは、心持ちではなくてどのような心構えかを話してくれぬか』
『さようでございますな。人にはそれぞれ役目というものがございます』
『宿命ということか』
『いえ、違いまする。上皇様(孝謙天皇)は天皇陛下を御指導されるのがお役目。そのお役目で上皇様の御都合ではなくてご自身から離れたところで物事を御覧になって、するべきことが生じたのならば敢えてどんな障害があっても行う、とういうことでございましょうか』
全てを受け入れ大局に身を任せてこそ浮かぶ瀬もある、と云いつつ、自らに与えられた役目はどのような障害があっても行わねばならないという。
しかも、そのためには自分から離れたところに立って物事を判断せねばならないという。
私ごとき凡人には至ることの出来ない心構えであるが、パソコンの不具合で全ての記録が消えるかもしれないという恐怖を体感したおかげで、(記録を留め置く)図書館が日本に初めて設立された経緯を書いた「孝謙女帝の遺言」を思い出したことに、深い意味を見出したいと、色々迷う私としては思っている。