何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

プロが辿り着いた答え

2016-11-25 21:54:05 | 
「七転び八起きならぬナナフシ」 「名花が志す名もなき花」より

先日11月22日の福島沖の地震がなければ、少しばかり冗長的で中途半端な話だったという印象だけで終わったのかもしれないが、早朝からラジオが様々な言語で’’フクシマ’’と叫び、テレビ画面が真っ赤な文字で「津波 逃げて」と表示しているのを見たとき、「リーチ先生」(原田マハ)のある場面が蘇ってきたのだ。

それは、関東大震災で東京中が廃墟となったことを、イギリスのリーチ先生やカメちゃんに知らせる柳宗悦の手紙の一文にある。(『 』「リーチ先生」より)
『災害後のこのような非常時に、芸術がなんの役に立つのかと、自分も、芸術家たちも、当初は落ち込んだ。
 しかし、こんなときだからこそ、すさんだ人の心を豊かにする芸術が必要なのではないかと、思い直した』

この思いこそ、災害が頻発する日本で芸術論をを中心とした作家活動をする原田氏の躊躇いではないか、そして答えではないかと、思い至ったのだ。

地震で家屋を壊され、津波に家が流され、土砂に家を潰され、災害で大切な家族や友人を喪うという経験をする人が次々と増えていく、日本。
誰しも、自分に何ができるのか悩むが、芸術に携わる人のそれは、悩みとして深いものがあるのかもしれない。
だが、そのような時こそ、人の心を豊かにするものが必要でありそれが芸術だと、柳宗悦氏の手紙を借りて原田氏が訴えているような気がしたのだ。
そして、それはキュレーターでもある原田氏の叫びではないかと思った時、「ナナフシ」幸田真音氏が力点をおいたことも別にあったのだはないかと思い直したのだ。

幸田氏は、米国系銀行や証券会社で債券ディーラーや大手金融法人を相手に外国債券セールスを手掛けていたという。
ブラックマンデーも日本のバブルもその崩壊も、おそらく第一線で経験された幸田氏が、作家生活に入った後には、山一・拓銀・長銀などの経営破綻が続いたが、日本には、まだ「財務省」と看板を掛け替え財政規律に取り組む体力が残っていたのではないだろうか。この時期の作品には、市場の恐ろしさや厳しい現実が書かれてはいるものの、そこに希望のようなものが示されていたようにも感じられるのだ。
だが、思えばリーマンショック前後から、その作風に変化が生じていたように思われる。
そうであれば、三年前2013年に出版された「天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債」は我々への警告であり、「ナナフシ」は金融マンだった作者の一つの答えなのかもしれない。 (参照、「繋がっている歴史から学ぶ」

「ナナフシ」には、主人公が再就職した外資系金融機関が再度破綻する場面があるが、そこから立ち上がる主人公が「人生と金との向き合い方」について語る場面がある。(『 』「ナナフシ」より)
『金を忌み嫌い、極端に避けていた時期もあった。だが、そうしながらも、金を恃むしかない人間社会がある。嫌悪しながらも、必要性が身に沁みる。金に翻弄されないためには、金の怖さから逃げずに対峙することだ。金さえあればなんでもできると傲慢になることも、金には懲りたと背を向けるのも間違いだろう。金は汚いと批判しても、金がなければ人を救うことも出来ないのだから。
ならば、人生と金が上手く折り合いを見つけられるように、正しい助言をし、手助けをする商売があってもいいはずだ。そんな深尾社長の信念に寄り添い、新生ラインハルトは力強く甦った』

もちろん読者としては、『人生と金が上手く折り合いを見つけられるよう』な正しい助言と手助けの’’内容’’こそを掘り下げて書いて欲しいと思うので、それがない作品には物足りなさも感じてしまう。
だが、日常生活とは切り離された空間で巨万の富を操る人を描いてきた作者が、金融のプロとは何かと試行錯誤した結果に辿り着いた答えが、「金を忌み嫌うでなく拝金主義に走るでなく、人生と金が上手く折り合いをつけられるよう正しいアドバイスすること」だったのではないかと感じたとき、「ナナフシ」への私の印象は大きく変わったのだ。

ともに専門的知識を要する職歴をもつ作家である、原田マハ氏と幸田真音氏。
芸術の素晴らしさ、金の流れを熟知する一方で、その虚しさと人を狂わせうる恐ろしさも知り尽くしている、二人の作家。
この二人が辿り着いた答えが素朴なものであったために、読解力が足りない私は一読では理解できなかったのかもしれないが、今はやはり好きな作家さんだと確信し、次作を心待ちにしている。

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