「命と純粋&責任の物語」のつづき
純粋さのなかにも責任感の萌芽がみられる12歳の少女のニュースを見て、「ユートピア」(湊かなえ)を思い出したといえば、大きなお叱りを受けるかもしれないが、この少女の作文を契機に善意のボランティア活動が立ち上がり、それがマスコミやネットの力で広がりをみせる過程は、「ユートピア」のそれと瓜二つだ。
『善意は、悪意より恐ろしい』
これは、帯にでかでか書かれている本作のキャッチコピーであり、小さく『「誰かのために役に立ちたい」という思いを抱え、それぞれの理想郷を探すが』とも書かれている。
「ユートピア」は、交通事故で足が不自由になった小1の久美香を献身的に支える小4の少女・彩也子が書いた作文を切っ掛けに設立されたボランティア基金「クララの翼」が舞台となる。
彩也子が、「足が不自由な久美香に翼があれば、車いすで生活している久美香ちゃんは、でこぼこ道も段差も気にせず簡単に進むことができるから、久美香ちゃんに翼を付けてあげたい」との願いで書いた「翼をください」という作文は新聞に掲載され反響をよぶ。
『鳥に翼があるように、昔は、人間にも翼があったんじゃないかな。
でも今は、片方の翼しか持てなくなってしまった。
それは神様からのメッセージ。仲良く手をつなぎ合いなさいっていう。
わたしの翼と久美香ちゃんの翼を合せれば、二人でいっしょに飛ぶことができる。
みんなの翼を合せれば、もっと高く、もっと遠くまで飛ぶことができる。
そうだとしたら、私の願いごとは、みんなが自分の心の中に片方だけ持っている翼に気付くことだ』
この作文を契機に設立された「クララの翼」(足が不自由な子供達のため、翼をモチーフにしたグッズを販売し収益を寄付する団体)は、「誰かのために役に立ちたい」という純粋な願いから生まれたもののはずだったが、それと同時に、人には自分だけのユートピアを求める性や業や弱さがある。
生まれ育った古い田舎町で足の不自由な子供を守る母が心の開放感を求める、ユートピア
夫の転勤で田舎に越してきた女性が精神的充足感を求る、ユートピア
田舎暮らしと少女の作文に芸術家としての新境地を求める、ユートピア
「クララの翼」が「誰かの役に立ちたい」という善意から設立されたとしても、集う人間はそれぞれ異なる事情を抱えているので求めるユートピアも異なってくる。そこに芽生える小さな齟齬が、徐々に人の心に悪意を沁みこませ、過去の殺人事件の真相を炙り出していくあたりの筆致は、さすがイヤミスの女王。
本作は、ボランティアという一見善意の活動にある、いや善意と称するからこそ紛れ込む人の弱さや悪意と、その無自覚さ故の恐さを書いているが、同じ恐さは、誰もが胸にしまっている小さな秘密にも通じるものがある。
善意の積極的活動にはあまり縁がないと思っている人間、たとえば子供でも、小さな秘密の一つや二つは抱えている。
秘密にする理由が人を思いやる優しさであっても、その秘密が些細であっても、結果的には大きな悪を生み出すこともある、そんな恐ろしさも織り込まれているイヤミスの女王が書く「ユートピア」。
「ユートピア」が書く「善意は、悪意より恐ろしい」の善意と悪意は誰の心にも潜んでいるものなので、老婆心ながら、設定をほぼ同じくしているこの度のニュースが少しばかり気になったのだが、命の大切さを子供に伝えるという意義ある活動なので、成功を心から祈っている。
ところで、本書のなかで心因性の病気の理解について書かれている場面があった。
久美香は、交通事故で足が不自由になったため車いすで移動しているのだが、歩くことができない理由は、事故による器質的疾患ではなく、心因性のものだった。
これを騙されたと感じる陶芸家を、別の芸術家が窘める言葉は、印象的だ。
『心因性の病気で苦しんでいる人たちはたくさんいるじゃない。
関節や筋を痛めていて歩けないなら同情できるけど、心の病で動かせなくなっている人はただの仮病だって言ってるようなものじゃない。
そんな目を向けられたんじゃ、菜々子さんも(足が不自由な少女の母)も苦しんできたでしょうね』
『私たち芸術家は人の心に届くものを作りたいと思っている。
心を相手にしている私たちが心の病を否定するなんて一番あってはならないことだと思うの。』
この言葉が思い出されたのは、心の病に苦しまれる雅子妃殿下に対して今尚「本当の病と、自分が病と思っているものは違うのだ」などという批判が向けられていると知り、驚いたからだ。
「鬼はもとより」(青山文平)で主人公・抄一郎 が心身ともに疲労困憊している元家老・清明に「逃げ」を勧める際に言っている。
『體の深くに、無数の(精神的)疵を溜めこんでいく。
いまは顎の震え程度で済んでいるが、遠からず、その疵は別の形で、清明を壊すかもしれなかった。
内なる疵が重なれば、體の強い者は心を壊し、心の強い者は體を壊す。
そうなる前に、いまの席から清明を離れさせなければならない』(参照、「責めを負う覚悟」 「生きることと見付けたり」)
心に疵を受け続ければ、体が頑丈な者は心を壊し、心の強い者は体を壊すという。
にもかかわらず、長く心の病に苦しむ者に、「本当の病と、自分が病と思っているものは違うのだ」と批判するとは、何と冷たく恐ろしいことかと驚いたので、「ユートピア」のこの一節が浮かんだのだが、負のイメージだけでは情けないので、子供の純粋な想いが傷つくことがないよう良い活動となることを願っていると、再度記しておきたい。
純粋さのなかにも責任感の萌芽がみられる12歳の少女のニュースを見て、「ユートピア」(湊かなえ)を思い出したといえば、大きなお叱りを受けるかもしれないが、この少女の作文を契機に善意のボランティア活動が立ち上がり、それがマスコミやネットの力で広がりをみせる過程は、「ユートピア」のそれと瓜二つだ。
『善意は、悪意より恐ろしい』
これは、帯にでかでか書かれている本作のキャッチコピーであり、小さく『「誰かのために役に立ちたい」という思いを抱え、それぞれの理想郷を探すが』とも書かれている。
「ユートピア」は、交通事故で足が不自由になった小1の久美香を献身的に支える小4の少女・彩也子が書いた作文を切っ掛けに設立されたボランティア基金「クララの翼」が舞台となる。
彩也子が、「足が不自由な久美香に翼があれば、車いすで生活している久美香ちゃんは、でこぼこ道も段差も気にせず簡単に進むことができるから、久美香ちゃんに翼を付けてあげたい」との願いで書いた「翼をください」という作文は新聞に掲載され反響をよぶ。
『鳥に翼があるように、昔は、人間にも翼があったんじゃないかな。
でも今は、片方の翼しか持てなくなってしまった。
それは神様からのメッセージ。仲良く手をつなぎ合いなさいっていう。
わたしの翼と久美香ちゃんの翼を合せれば、二人でいっしょに飛ぶことができる。
みんなの翼を合せれば、もっと高く、もっと遠くまで飛ぶことができる。
そうだとしたら、私の願いごとは、みんなが自分の心の中に片方だけ持っている翼に気付くことだ』
この作文を契機に設立された「クララの翼」(足が不自由な子供達のため、翼をモチーフにしたグッズを販売し収益を寄付する団体)は、「誰かのために役に立ちたい」という純粋な願いから生まれたもののはずだったが、それと同時に、人には自分だけのユートピアを求める性や業や弱さがある。
生まれ育った古い田舎町で足の不自由な子供を守る母が心の開放感を求める、ユートピア
夫の転勤で田舎に越してきた女性が精神的充足感を求る、ユートピア
田舎暮らしと少女の作文に芸術家としての新境地を求める、ユートピア
「クララの翼」が「誰かの役に立ちたい」という善意から設立されたとしても、集う人間はそれぞれ異なる事情を抱えているので求めるユートピアも異なってくる。そこに芽生える小さな齟齬が、徐々に人の心に悪意を沁みこませ、過去の殺人事件の真相を炙り出していくあたりの筆致は、さすがイヤミスの女王。
本作は、ボランティアという一見善意の活動にある、いや善意と称するからこそ紛れ込む人の弱さや悪意と、その無自覚さ故の恐さを書いているが、同じ恐さは、誰もが胸にしまっている小さな秘密にも通じるものがある。
善意の積極的活動にはあまり縁がないと思っている人間、たとえば子供でも、小さな秘密の一つや二つは抱えている。
秘密にする理由が人を思いやる優しさであっても、その秘密が些細であっても、結果的には大きな悪を生み出すこともある、そんな恐ろしさも織り込まれているイヤミスの女王が書く「ユートピア」。
「ユートピア」が書く「善意は、悪意より恐ろしい」の善意と悪意は誰の心にも潜んでいるものなので、老婆心ながら、設定をほぼ同じくしているこの度のニュースが少しばかり気になったのだが、命の大切さを子供に伝えるという意義ある活動なので、成功を心から祈っている。
ところで、本書のなかで心因性の病気の理解について書かれている場面があった。
久美香は、交通事故で足が不自由になったため車いすで移動しているのだが、歩くことができない理由は、事故による器質的疾患ではなく、心因性のものだった。
これを騙されたと感じる陶芸家を、別の芸術家が窘める言葉は、印象的だ。
『心因性の病気で苦しんでいる人たちはたくさんいるじゃない。
関節や筋を痛めていて歩けないなら同情できるけど、心の病で動かせなくなっている人はただの仮病だって言ってるようなものじゃない。
そんな目を向けられたんじゃ、菜々子さんも(足が不自由な少女の母)も苦しんできたでしょうね』
『私たち芸術家は人の心に届くものを作りたいと思っている。
心を相手にしている私たちが心の病を否定するなんて一番あってはならないことだと思うの。』
この言葉が思い出されたのは、心の病に苦しまれる雅子妃殿下に対して今尚「本当の病と、自分が病と思っているものは違うのだ」などという批判が向けられていると知り、驚いたからだ。
「鬼はもとより」(青山文平)で主人公・抄一郎 が心身ともに疲労困憊している元家老・清明に「逃げ」を勧める際に言っている。
『體の深くに、無数の(精神的)疵を溜めこんでいく。
いまは顎の震え程度で済んでいるが、遠からず、その疵は別の形で、清明を壊すかもしれなかった。
内なる疵が重なれば、體の強い者は心を壊し、心の強い者は體を壊す。
そうなる前に、いまの席から清明を離れさせなければならない』(参照、「責めを負う覚悟」 「生きることと見付けたり」)
心に疵を受け続ければ、体が頑丈な者は心を壊し、心の強い者は体を壊すという。
にもかかわらず、長く心の病に苦しむ者に、「本当の病と、自分が病と思っているものは違うのだ」と批判するとは、何と冷たく恐ろしいことかと驚いたので、「ユートピア」のこの一節が浮かんだのだが、負のイメージだけでは情けないので、子供の純粋な想いが傷つくことがないよう良い活動となることを願っていると、再度記しておきたい。