何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

のべつ幕無しの''祈り''

2015-12-21 23:38:33 | ひとりごと
「ワンコの夜鳴きをエールと受け留め」で、病気という究極の「わたくしごと」を、誰が読むとも分からない場所に書く矛盾について書いた。それは分かってはいるが、また書く愚。

家人の高熱も頭痛もおさまらない。
正常値は0.3以下で10を超えると入院治療が必要だというというCRPが7.5。
内科で点滴を受けつつ、歯科で嚢胞もどきの消毒を繰り返してはいるが、なかなか改善されない。
内科でも歯科でも、「菌の増殖をおさえる消毒と体力増強を同時にはからなければならないので、しっかり気長に頑張りましょう」と言われるが、本来ならば気長に頑張る患者の伴走をしてくれるはずの医師が、年末年始で休診になってしまう。
ワンコ介護もそうだが、不測の事態が生じれば家族それぞれが出来る限りの協力は勿論するが、それでもこんな時、医師でもない家族は究極的には祈るしかないと思うのだが、「祈る」という言葉を安易に用いるべきではない、という意見を耳にしたことがあり、それは長年私の心に引っかかっていたので、「祈る」ことを考えてみる。

これからの時期、「御健康を祈る」「御活躍を祈る」「御多幸を祈る」これらの言葉は巷に氾濫する。
そう、年賀状である。
あれは、もはや定型文であり、確かに印刷された「祈る」の文言に真実味を感じることは少ないが、それでも一言添える直筆のメッセージの結びに私は「~を祈っています」と書いてしまう。
敬虔な信仰を持ち合わせているわけではないので、沐浴潔斎して祈るわけでも、断食して祈るわけでも、洛中洛外大回りをして祈るわけでもないが、メッセージに「御多幸を祈る」と書くその時には間違いなく相手の幸せを願っていて、これ以外に書きようがないと思う自分は、発想と真実味が足りない人間なのか。
「サラダ記念日」(俵万智)には、『手紙には愛あふれたりその愛は 消印の日の そのときの愛 』とあるが、消印の日の、その時の祈りではダメなのか?
年賀状の準備が脳裏をかすめながら家人の回復を祈っている私に、気になる記事があった。

<「清志郎いないのが悔しい」坂本龍一、音楽と政治語る> 朝日新聞2015年12月14日11時32分より一部引用
URL http://www.asahi.com/articles/ASHDC34QBHDCUEHF003.html
――パリ同時多発テロの際、テイラー・スウィフトやファレル・ウィリアムスら、多くのミュージシャンが「Pray forParis(パリに祈りを)」などとツイートしました。坂本さんは9・11米同時多発テロの後に出した対談集『反定義 新たな想像力へ』で、「ぼくが嫌いなのは、“祈り”です。祈れば平和がくるみたいなことをいう人がいるけど、そんなものは何にもならないです」と話していましたね。
(坂本氏)パリのテロの後、宗教指導者のダライ・ラマ法王が「いまは祈る時間ではなく、考える時間だ」という趣旨の発言をされていると知って、すごいなと思いました。宗教指導者なんだから、普通は「さあ祈りましょう」と言うのに、言わないんですよ。祈ってるだけじゃダメなんだ、考える時なんだって。ガツーンときましたね。
――以前からの坂本さんの主張とも重なります。
(坂本氏)僕も自分の公式フェイスブックで、あえて「Pray for Paris」ではなくて、「Pray for Paris and Other Places (パリとそのほかの場所へ祈りを)」と書きました。
パリのテロの前日に、ベイルートで40人以上亡くなっています。アラブ、アフリカも含めた世界中で、たくさんの人たちが毎日のように犠牲になっている。なのに、パリだけみんなで祈りましょうっていうのは、命の価値って違うわけ?っていうことでしょ。そんなことはないはずです。
パリの犠牲者がどうでもいいということではなくて、パリの犠牲者を悼むのなら、同じようにアフリカやベイルートやシリアの犠牲者も悼まなきゃ、おかしいじゃないですか。
それこそが「祈る」だけじゃなくて、「考える」ことになるんだと思う。もっと言えば、そういう犠牲者が出ないためにどうしたらいいか、何ができるかっていうことも当然考えないといけない。そこが大切ですよね。


ここにも’’祈り’’というものに懐疑的な人がいる。
気になりパリのテロについて書いた「自由 平等 博愛」を見ると案の定・・・私は書いてるんだな、これが、『フランスのかなしみに心を寄せて、入り日の方角へ祈りを捧げる、夕刻である。』、と。
せめてもの救いは、ただ祈るだけでなく、フランス大統領がこのテロを「世界中で守っている価値に対する戦争行為だ」と位置付けたことから、『心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ』という「星の王子様」(サン・テグジュペリ)の言葉を思い出し、自分なりに考えたことだろうか。
しかし、だからといって自分に何が出来るかということまで考えることはなく、ただ祈っているだけの、私。

やった者勝ち言った者勝ちの傍若無人が大手を振って歩いている世の中に一矢報いたい、誰に理解されなくとも評価されなくとも誠実に懸命に生きる人の幸せを祈りたい、ただ一人こっそり祈るのではなく、応援の声をあげたい、という思いで文章を綴っているが、応援の言葉の結びは「祈っている」になる、私。
祈るしかないこともある、と開き直りながら、「祈る」ことについて考えている・・・つづく、かもしれない。

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