何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

那古野 なごや でもよい②

2018-05-09 22:15:00 | ひとりごと
「那古野 なごや ではない①」より

「那古野 なごや ではない①」で、「那古野」は「なごや ではない」としたのには理由がある。

実はタクシーで名古屋城へ向かっている時、’’那古野’’の標識を見つけ「昔は、この文字で なごやじょう だったな」と呟いた私に、運転手さんが「いえ、それは なごや ではなく なごの と読むのです。他府県の人は間違えますけどね」と仰った。

たしか織田信長は、信秀(信長の父)が今川から奪った那古野城(なごやじょう)で誕生し幼くして那古野城主になったはず、その後 信長は清州城に移り、清州城から桶狭間の合戦に出陣したはず・・・と幼い頃に読んだ山岡荘八「織田信長」を思い出していたが、もう長らく信長関連の本を読んでいない為、黙って運転手さんのお話に耳を傾けていた。

今ちょいと検索してみると、現在の名古屋城は、那古野(なごや)城のあとに家康が築造したものだ。

家康が、信長所縁の「那古野 なごや」では験が悪いと判断し、城の名では文字を変え、地名では読みを変えたのかもしれないが、土地勘のない人間が那古野を’’なごや’’と読んでしまうのは、あながち間違いとは言えないのではないか、と今頃思ったりしている。

この日は晴天で多くの観光客で賑わっており、とても戦乱の世に思いを馳せるという気分にはならなかったが、「恩賜元離宮名古屋城」の石碑や、正門のから入ってまず目に飛び込んでくる西南隅櫓の説明書きを読むと、この城にも’’菊と葵の物語’’の微妙な力関係が働いたことが伺える。
西南隅櫓(木の立札より)
慶長17年(1612年)ごろ建てられ未申櫓と呼ばれた。外観二重、内部三階建ての珍しい形態である。二階の西、南両には張出しがあり、この下には「石落し」がある。床に開閉式の穴があり、石垣に接近した敵兵を銃撃する仕掛けであった。櫓は明治後期から大正にかけ自然災害により倒壊したが、大正12年(1923年)宮内省により古材を用いて修理された。鬼瓦などに菊紋が見られるのはそのためである。


あの日は時間がないなか大急ぎで見て回ったので、どれが一の門だか二の門だか分からないまま、とにかく美しい桜と白壁だけを撮っていたが、いずれゆっくりと再訪したいと思っている。


お濠と(おそらく)一の門も二の門も越え、そろりと本丸御殿へ、
次回へつづく

那古野 なごや ではない①

2018-05-07 12:00:00 | ニュース
桜が咲き始めた頃、名古屋城に立ち寄った。
あの時は、晴天の名古屋の街がとても楽しげに見えたため遊び心が働いたのだが、あれから一月半で入場禁止になったことを考えると、なかなかに運が良かったのかもしれない。

<コンクリ天守「上り納め」名古屋城、木造化工事へ> 日本経済新聞2018/5/6 19:45配信より一部引用
名古屋のシンボルとして再建から約60年間親しまれてきたコンクリート製の名古屋城天守閣が6日午後、閉鎖された。名古屋市が進める木造復元が完成する予定の2022年末まで入場禁止となる。
-連休後半の入場者、前年より45%多く-
名古屋市によると、大型連休後半の5月3~5日の名古屋城の入場者数は前年より45%多い約8万6千人(速報値)で、記録が残る過去10年で最多だった。入場禁止に伴う「駆け込み」訪問や、近くに3月開業した商業施設「金シャチ横丁」も入場者数の増加に寄与したとみられるという。
名古屋城の天守閣は1612年に完成し、1945年の空襲で焼失。現天守閣は59年にコンクリートで再建された。ただ、震度6強の地震で倒壊する恐れがあるとして、河村たかし市長が木造復元を決めた。
市の計画では、国特別史跡の天守台石垣の調査に続き、19年に現天守閣の解体に着手する。同じく空襲で焼失した本丸御殿は復元が完成し、今年6月に全面公開される予定。

なるほど、これのための、あのニュースだったのか。
少し前のことになるが、あるニュースを見て、今ではタイトルも忘れてしまった推理小説を思い出していた。
それは確か、上高地から穂高岳だか槍ケ岳だかにロープウェイをかけるという計画をめぐり殺人事件が起こるというものだったが、「めっそうもない」という怒りが先走り、もう推理どころではなかった事しか印象にない。

ロープウェイ推進派の国交省や観光業界などは、「ヨーロッパアルプスの山岳列車は、見事に景観にマッチしているのだから大丈夫だ」と主張するし、福祉団体は「足が不自由な人も、その頂に立たせてあげたい」と言い張る。

この手の問題は、どう書いても誤解を招きかねないので あまり言及したくはないが、鉄道列車で有名なユングフラウヨッホの空間的広がりと、河童橋から仰ぎ見る穂高連峰の繊細な美しさを比較することが、私にはそもそも無理があると思われる。
そして、日常生活を越えた空間の場合、自分の足で歩き辿り着ける場所が、自分が楽しめる場所だと思っている(日常生活的空間のバリアフリーは重要)。

名古屋城木造再建で話題となっているのが、コンクリ天守の手前(桜の向こう)に見える歪な建造物。

天守閣内部にもエレベーターがついていたが、大変混雑しているため、大方の人は汗を拭き拭き「ひーひー」言いながら階段を上っていた。
そうして、てっぺんから見えた景色は、こういうもの。


再建される木造建築に敢えて設置してまで見なければならないほどのものではない、と言うと、推進派に叱られるのだろうか、それとも名古屋市民230万人の怒りを買うのだろうか。

てっぺんから睥睨しなくとも、素晴らしいものが名古屋城には多くあった。
それについては又つづく

正史が残さぬ真実もあるが

2018-05-03 20:25:31 | 
昨夜、いや夜明け方までかかって、パソコンを復旧させた。

昨夜パソコンを立ち上げると、ネットに繋がらない。
トラブルシューティングなるものを何度か試したが、うんともすんとも反応しない。

とりあえずタブレットで用事を済ませようとしたが、タブレットにはインストールされていないシステムやメール下書きに膨大に溜め込んだ書類のひな型などをどうしたものか?

半ばパニックになりながらタブレットであれこれ検索し、どうやら直近のwindowsのアップデートが不具合の原因だと推測し、アップデート前の状態に復旧させるという作業を、明け方までかかって行った。

その甲斐あって、どうにか今 現在このパソコンはネットに繋がっているが、10の脆弱性が云われたため7のままにしていることに、そろそろ無理が出ているのかもしれない。
それとも、内臓バッテリーが弱くなっているくらいなのだから、そもそも本体もかなりくたびれているのかもしれないが、お願いだから、あと一年半ほどは頑張っておくれ、とパソコンに語りかけている。

こうしてみると、この私ですら、かなりデジタル機器のお世話になっている。
自分はアナログ人間だと思っているが、それでも、もはやパソコンなしでは一日も回らない。
まして、溜め込んだ資料などが失われたとなれば、正真正銘のパニックに陥ってしまうかもしれない。

そんな恐ろしい経験が、最近読んだ本について書く糸口になった。

「孝謙女帝の遺言 芸亭図書館秘文書」(佃一可)

「孝謙女帝の遺言」の帯より
『我が国で初めての公開図書館・芸亭を設立した石上宅嗣。物部氏の直系である宅嗣のまなざしを通して,激動の孝謙女帝時代を描く。繰り返される政変,つぎつぎと交代する権力者,定まらぬ皇位継承。そのなかにあって,宅嗣は「芸亭」をなぜ創始したのか。 図書館に求めた知識とは,何であったのだろうか。』

「至福の時間は、ただブラブラと図書館で本を探していられる時」という私の図書館好きを知る本仲間が勧めてくれた本だが、本書が「孝謙女帝の遺言」という題名であるだけに、初版発行の2017年12月1日という日を、複雑な思いで見てしまい、読むことも それについて何か書くことも躊躇っていた。

だから、本書についても、定まらぬ皇位継承をめぐり繰り返される政変や次々と交代する権力者などについては、あまり言及したくはない。

だが、帯が読者に問う「そのような時代に、なぜ芸亭が設立されたのか、図書館に求めた知識とは何であったのだろうか」との質問には、まさに そのような不安定な時代であったからこそ、後世に残る記録を(それが たとえ一方的なものであったとしても)一所に寄せる必要があったのではないかと、問いを以て問いに答える心持でいる。

というわけで、(どういう訳かは深追いせず・・・)本書で印象に残った文章だけを、いつ消えてなくなるともしれないデジタル世界に記しておきたいと思っている(苦笑)。

さて、孝謙女帝というと言わずもがなでついてくる道教。
そのアレやコレやの真偽を語るほどのものを持ち合わせてはいないので、道教が説く禅についてだけ記しておこうと思う。(『 』「孝謙女帝の遺言」より)

孝謙天皇の『禅というものはどういうものか』という問いに、道教は以下のように答えている。
『禅は心の持ちようにございます』
『ある人が海に投げ出されたとします。波が高くまわりも見えず必死にばたばたと躯を動かします。すると躯は海に沈んでしまいます。またある人が、海に投げ出され、投げ出されたことを受け入れて躯も心も海に投げ出すと躰は自然に浮いてきます。拙僧の理解する禅とはこのようなものです』

孝謙天皇は、道教の説く禅が果たして正しいものなのかは判断できなかったというが、政変と混乱のただなかにいる御自分の立場を見事に説明しているように思えたという。
そこで、孝謙天皇は「何もかも受け入れ、何もしないというわけにはいかないだろう」と更に問われた。

この問いに対する道教の答え、さすがに禅問答といわれるだけのことはある。

『さようでございます。自分という立場を捨て去り大局に身を任せたとしても、どうしてもしなければならないこともございます』
『それはどこが違うのか』
『その違いは言葉では言い表せません。<敢為>と申しますその心境は、その時にしかわかりません』
『それでは、心持ちではなくてどのような心構えかを話してくれぬか』
『さようでございますな。人にはそれぞれ役目というものがございます』
『宿命ということか』
『いえ、違いまする。上皇様(孝謙天皇)は天皇陛下を御指導されるのがお役目。そのお役目で上皇様の御都合ではなくてご自身から離れたところで物事を御覧になって、するべきことが生じたのならば敢えてどんな障害があっても行う、とういうことでございましょうか』

全てを受け入れ大局に身を任せてこそ浮かぶ瀬もある、と云いつつ、自らに与えられた役目はどのような障害があっても行わねばならないという。
しかも、そのためには自分から離れたところに立って物事を判断せねばならないという。

私ごとき凡人には至ることの出来ない心構えであるが、パソコンの不具合で全ての記録が消えるかもしれないという恐怖を体感したおかげで、(記録を留め置く)図書館が日本に初めて設立された経緯を書いた「孝謙女帝の遺言」を思い出したことに、深い意味を見出したいと、色々迷う私としては思っている。

ワンコ物語 空の彼方への道

2018-05-01 12:00:00 | ひとりごと
「ワンコ物語への道 ①」 「ワンコ物語への道 ②」 「ワンコ物語への道 ③」より

ねぇワンコ
今月のワンコお告げの本二冊は、それぞれバラバラに読んでいるとメッセージが分かりにくかったけれど、
合せて読むと、伝わるものがあったよ ワンコ

キーワードは、夢と道だね

「物語のおわり」(湊かなえ)は、人生の岐路にあって『夢を追い求める人、夢をあきらめる人、夢を手助けする人、夢を妨害する人』が未完の小説「空の彼方」を読み、新しい一歩を踏み出そうとする物語なのだけど、
「蒼き山嶺」(馳星周)も、登山を通じて、夢を追う環境と能力がある者、現実と妥協せざるをえない者、宿命により夢を諦めるしかない者が描かれているんだよ

私の場合はさ、
小難しいことではなく、努力と が足りなかっただけなんだけど、
そして、今でも諦めきったわけではないのだけれど、
生来の応援団気質と、年齢的なものもあり、
頑張る人や大好きな人の夢が叶うように応援することに徹することも悪くないな、とは思い始めているんだよ

そりゃ、それは方法論としては当初の道とは全く違っているけれど、
最終目的としては、そう違っているものではないんじゃないかなあ?なんてね

そんなことを思いながら「蒼き山嶺」を読み返していると、味わい深い件に気づいたんだよ。

『自ら歩くところが道なのだ』

向こうに達するために、山を越えようと、海を越えようと、空の彼方に掲げるものが確かなら、
自分が歩いていくところが、道になる

そう思った時に、この春の家族旅の写真が目に浮かんだよ ワンコ

いつもは、お山のてっぺんから待つ日の出を、
ホテルのお部屋で、窓越しに待っているのは、少しばかり変な気分だったけれど、
ワンコと私に、真っ直ぐ光の道が届くのを拝し、
神聖な気持ちになったよね ワンコ

それでも、時にはグズグズと思い悩むこともあるのだけれど、
そんな時、若者仕事仲間が私の側で口ずさんでいた歌が、ふと耳に届いたんだよ

♪自分のこと大切にして 誰かのことそっと 想うみたいに♪

不覚にも涙ぐんでしまったさ
これは、小田和正氏の「たしかなこと」という歌なんだよ

歌詞をよくよく聴いてみるとね、そこには
「時をこえて」とか「空を見て考えてた」なんて件があるんだよ

でさ、短編集「物語のおわり」には「時を超えて」という章があるんだよ
そこには、こんな言葉があるんだよ
『夢を叶えるために必要な努力とは何だと考えているのか。
 リミットを設けるのか。
 夢を叶えるために何を守り、何を失う覚悟ができているのか』

ワンコの仕業だな
これからもグダグダ愚痴ることもあると思うけれど、
自分のためにも、応援する人のためにも、
「歩いたところが道になる」と云えるよう頑張るよ ワンコ