今日はどこまで行っても高速道路1000円乗り放題の日
以前より家族で計画していた岐阜方面のショッピングと観光を兼ねた小旅行に行く。
朝6時頃岐阜県本巣市にある大型ショッピングセンターのモレラ岐阜に向かう。
三連休初日のためか高速道路は普段に比べ混んでいる。
モレラ岐阜へは2006年4月にオープンしてから何回も足を運んでいるがショッピングと観光を兼ね計画。
モレラ岐阜の中には約240店舗が入っていてショッピングはもちろん、映画館、グルメ、お医者さんまで有る。
本巣市は富有柿が有名で街の通りでは柿農家の人が無人販売所を出して販売している。
着いたのが9時30分頃、10時になるのを待ちかねてお客さんが並ぶ。
今日は朝から大行列2000人近くの人が並んでいる。
何の行列か聞くと"今や若者の間では大人気のHIP HOPグループのFUNKY MONKEY BABYSがモレラにやって来るとのこと。
遠くは福岡から来たそうでビックリ。
開店と同時に店内に
約240店舗が入っている店内は外の行列に比べまだまだ人が少ない。
11時頃になると店内は混雑してくる。
店内には2階を貫く大きなクリスマスツリーが飾ってあり購買意欲をかりたたせている。
ここでショッピング組と観光組に分かれ午後6時まで自由行動。
観光組はまづ墨俣一夜城へと向かう。
国道31号線が長良川を渡る長良大橋から川沿いに行くと、犀川が2つに分かれる。その三角形の股の部分が墨俣城跡である。
金の鯱(しゃちほこ)が目を惹く五階の天守を築いて「墨俣一夜城歴史資料館」となっている。
木下藤吉郎が築いた墨俣城は木造の砦であり、この資料館とは全然違うが資料館の中には木下藤吉郎の一夜城築城の様子をはじめ、墨俣の歴史資料などが展示されている。
秀吉の「天下人」への出発点になった古き昔に思いを馳せた一刻。
墨俣一夜城は小公園になっていて、ちょっと寒かったが紅葉が綺麗。
この川の流れを秀吉も見ていると思うと栄枯盛衰、時の流れを感じる。
ここから美濃(岐阜)の稲葉山城(岐阜城)まで距離は12キロ。
今でも肉眼でその城のある金華山は十分見る事が出来る。
「交通の要である州俣(墨俣)を制するものは美濃(今の岐阜県)を制し、美濃を制するものは天下を制す」と...。
今でこそ岐阜の街にはビルが立ち並ぶが、昔はこうだったかも
ビッ、ビルがなくなっとる。
馬柵を境に斎藤軍と藤吉郎を総大将とする尾張方軍の攻防が続いた
ひょっとしてこんな感じだったかも...。
ここでちょっと真面目に歴史談義。
永録3年5月、桶狭間で今川義元を討ち取った織田信長は、その勢いに乗じて墨俣に塁を築き美濃攻めを行うが増水のため敗退。当時墨俣は無数の大小河川・沼地・深田で囲まれており、孫子の兵法に「死地又生地なり」とある通り築城は至難の業であった。永録8年暮れ、信長は密かに秀吉を呼び寄せ「短期間に少数の兵で築城をやれ」と蜜令。秀吉は直ちに蜂須賀小六の所へ行き「この機会を失えば、この世に出る機会もなしと存ずる次第、何卒御諒承あれ」と協力を依頼、ねねの弟・小一郎の頼みが加わるが、小六暫時口を閉じて語らず、しばらくして口開き、「墨俣のこと御引き受け申す」と。かくて墨俣陣の首脳である藤吉郎、小一郎、小六、長康の命を賭けた同盟関係が成立する。
墨俣押出惣勢子
一、前野長康 312人
一、日比野六太夫 250人
一、稲田大炊介 656人
一、山方衆 是は八層衆七層衆を含むものなり 河口久助 156人 梶田隼人 187人 長江半之丞 222人
一、草井船頭衆 48人
一、犬山船頭衆 75人
一、大工棟梁方 26人
一、青山新七 足軽鉄砲隊 74名
一、蜂須賀小六 手の者 133人
一、惣大将 木下藤吉郎
一、メ惣勢子 2140人是有。
永録9年1月2月3月七層八層の山々で桧と松を切り出し、4月5月6月に雪解け、五月雨、梅雨前線を利用し木曽川の支流・飛騨川を筏で流す。7月8月には松倉(川島町)において2間半と1間半に製材し、組立するばかりにした。9月12日午前2時、のろしを合図に松倉瀬上より、木曽川の一大分流・境川を墨俣まで川舟・田舟を使い綱で引張る。15粁のとろこを10時間かかって正午に着く。直ちに築城と戦いの準備に入る。昼間は馬柵、夜は城作り。「至極難儀に候。生涯30の砦、50の城を攻めたが、これほど苦しいことはなかった」と秀吉は述懐している。翌9月13日、小雨の中東北より稲葉山軍の500人ばかり攻め来る。9月14日、馬柵が大略出来上がる。敵軍2000の兵が攻め来るも、馬柵と鉄砲で守り通し敵は退却、築城と戦いは成功したが、尾張方は15%の戦死者を出す激しい戦いであった。
墨俣築城の規模は下の通り。
一、高やぐら・・・・・・5棟、これは2層、高さ21尺、間口4間半、奥行2間半
一、平やぐら・・・・・・3棟、これは高さ14尺、間口7間、長屋にて武者溜まり
一、土居・・・・・・・・・250間、これは高さ6尺。
一、高塀・・・・・・・・・136間、東北に向い取付け。木組の上、ぢかべに堅固に構える。高さ5尺。
一、馬止め柵・・・・・1800間、高さ6尺。前野長康受持。昼夜分かたず働く。
一、堀切り・・・・・・・350間。幅10尺ばかり。稲田の手の者仕る。在郷百姓衆合力600人。
一、信長公座敷・・・間口3間半、奥行2間半。
一、城木戸・・・・・・・大手、搦手口2カ所。
天の時を待つばかりとなった翌年の永録10年(1567年)8月1日、信長一斉に宿願の稲葉山城攻略の陣触を出す。8月15日秀吉の組は沢井左衛門・山内一豊等の寄騎衆と共に、30余艘の舟で長良川を攻め上がり、水の手谷道より駆け登る。搦手の門より突入し、一番乗りを上げる。柴田勝家等の主力部隊は七曲道より二の丸を経て本丸へ。稲葉山城は早朝からの攻撃で、午前10時に落去。信長入城。信長は父信秀以来30有余年遠き道であった美濃攻略を果たす。
かくて天下平定の道は信長と秀吉この二人の英雄によって開かれ、戦国時代より安土桃山時代へと時は移りゆき、中世から近世へと日本史は転換してゆくことになる。
(墨俣一夜城歴史資料館発行資料参照)
外には栴檀(せんだん)の木の実が太陽に輝いて光っている。
すごくキレイだ
墨俣一夜城を後にして木曾三川公園に向かう。
もうお昼を回りお腹も空いてきたので"道の駅クレール平田"で昼食
ここでウナギ卵とじ定食で舌鼓。
食事終了後、店内で深紅の山茶花と柘植の鉢植えをゲット
木曾三川公園に到着
風がさむ~い。
イルミネーションの飾りつけで職員は忙しそう
寒くて外には観光客はあまりいない。
地上65mの展望タワー木曾三川と濃尾平野が一望できる。
展望タワー入場料 大人600円 子供300円。
ビジターセンター内では木曾三川流域の公園、名所、観光スポットを紹介している。
展望タワーからの眺望はすばらし~ぃ
木曾川、長良川、揖斐川が行儀よく綺麗に三本並んでいる。
洪水の治水対策した結果だ
昔は洪水が頻繁に起きていた。堤を築き今や平静の河川になった。
それぞれの大河の水の輝きが綺麗だ。
帰りは大垣に回り樽見鉄道沿いに海津でミカンをゲット
午後6時モレラ岐阜に到着
午後10時帰省走行距離550kmの日帰り旅行を満喫した。
以前より家族で計画していた岐阜方面のショッピングと観光を兼ねた小旅行に行く。
朝6時頃岐阜県本巣市にある大型ショッピングセンターのモレラ岐阜に向かう。
三連休初日のためか高速道路は普段に比べ混んでいる。
モレラ岐阜へは2006年4月にオープンしてから何回も足を運んでいるがショッピングと観光を兼ね計画。
モレラ岐阜の中には約240店舗が入っていてショッピングはもちろん、映画館、グルメ、お医者さんまで有る。
本巣市は富有柿が有名で街の通りでは柿農家の人が無人販売所を出して販売している。
着いたのが9時30分頃、10時になるのを待ちかねてお客さんが並ぶ。
今日は朝から大行列2000人近くの人が並んでいる。
何の行列か聞くと"今や若者の間では大人気のHIP HOPグループのFUNKY MONKEY BABYSがモレラにやって来るとのこと。
遠くは福岡から来たそうでビックリ。
開店と同時に店内に
約240店舗が入っている店内は外の行列に比べまだまだ人が少ない。
11時頃になると店内は混雑してくる。
店内には2階を貫く大きなクリスマスツリーが飾ってあり購買意欲をかりたたせている。
ここでショッピング組と観光組に分かれ午後6時まで自由行動。
観光組はまづ墨俣一夜城へと向かう。
国道31号線が長良川を渡る長良大橋から川沿いに行くと、犀川が2つに分かれる。その三角形の股の部分が墨俣城跡である。
金の鯱(しゃちほこ)が目を惹く五階の天守を築いて「墨俣一夜城歴史資料館」となっている。
木下藤吉郎が築いた墨俣城は木造の砦であり、この資料館とは全然違うが資料館の中には木下藤吉郎の一夜城築城の様子をはじめ、墨俣の歴史資料などが展示されている。
秀吉の「天下人」への出発点になった古き昔に思いを馳せた一刻。
墨俣一夜城は小公園になっていて、ちょっと寒かったが紅葉が綺麗。
この川の流れを秀吉も見ていると思うと栄枯盛衰、時の流れを感じる。
ここから美濃(岐阜)の稲葉山城(岐阜城)まで距離は12キロ。
今でも肉眼でその城のある金華山は十分見る事が出来る。
「交通の要である州俣(墨俣)を制するものは美濃(今の岐阜県)を制し、美濃を制するものは天下を制す」と...。
今でこそ岐阜の街にはビルが立ち並ぶが、昔はこうだったかも
ビッ、ビルがなくなっとる。
馬柵を境に斎藤軍と藤吉郎を総大将とする尾張方軍の攻防が続いた
ひょっとしてこんな感じだったかも...。
ここでちょっと真面目に歴史談義。
永録3年5月、桶狭間で今川義元を討ち取った織田信長は、その勢いに乗じて墨俣に塁を築き美濃攻めを行うが増水のため敗退。当時墨俣は無数の大小河川・沼地・深田で囲まれており、孫子の兵法に「死地又生地なり」とある通り築城は至難の業であった。永録8年暮れ、信長は密かに秀吉を呼び寄せ「短期間に少数の兵で築城をやれ」と蜜令。秀吉は直ちに蜂須賀小六の所へ行き「この機会を失えば、この世に出る機会もなしと存ずる次第、何卒御諒承あれ」と協力を依頼、ねねの弟・小一郎の頼みが加わるが、小六暫時口を閉じて語らず、しばらくして口開き、「墨俣のこと御引き受け申す」と。かくて墨俣陣の首脳である藤吉郎、小一郎、小六、長康の命を賭けた同盟関係が成立する。
墨俣押出惣勢子
一、前野長康 312人
一、日比野六太夫 250人
一、稲田大炊介 656人
一、山方衆 是は八層衆七層衆を含むものなり 河口久助 156人 梶田隼人 187人 長江半之丞 222人
一、草井船頭衆 48人
一、犬山船頭衆 75人
一、大工棟梁方 26人
一、青山新七 足軽鉄砲隊 74名
一、蜂須賀小六 手の者 133人
一、惣大将 木下藤吉郎
一、メ惣勢子 2140人是有。
永録9年1月2月3月七層八層の山々で桧と松を切り出し、4月5月6月に雪解け、五月雨、梅雨前線を利用し木曽川の支流・飛騨川を筏で流す。7月8月には松倉(川島町)において2間半と1間半に製材し、組立するばかりにした。9月12日午前2時、のろしを合図に松倉瀬上より、木曽川の一大分流・境川を墨俣まで川舟・田舟を使い綱で引張る。15粁のとろこを10時間かかって正午に着く。直ちに築城と戦いの準備に入る。昼間は馬柵、夜は城作り。「至極難儀に候。生涯30の砦、50の城を攻めたが、これほど苦しいことはなかった」と秀吉は述懐している。翌9月13日、小雨の中東北より稲葉山軍の500人ばかり攻め来る。9月14日、馬柵が大略出来上がる。敵軍2000の兵が攻め来るも、馬柵と鉄砲で守り通し敵は退却、築城と戦いは成功したが、尾張方は15%の戦死者を出す激しい戦いであった。
墨俣築城の規模は下の通り。
一、高やぐら・・・・・・5棟、これは2層、高さ21尺、間口4間半、奥行2間半
一、平やぐら・・・・・・3棟、これは高さ14尺、間口7間、長屋にて武者溜まり
一、土居・・・・・・・・・250間、これは高さ6尺。
一、高塀・・・・・・・・・136間、東北に向い取付け。木組の上、ぢかべに堅固に構える。高さ5尺。
一、馬止め柵・・・・・1800間、高さ6尺。前野長康受持。昼夜分かたず働く。
一、堀切り・・・・・・・350間。幅10尺ばかり。稲田の手の者仕る。在郷百姓衆合力600人。
一、信長公座敷・・・間口3間半、奥行2間半。
一、城木戸・・・・・・・大手、搦手口2カ所。
天の時を待つばかりとなった翌年の永録10年(1567年)8月1日、信長一斉に宿願の稲葉山城攻略の陣触を出す。8月15日秀吉の組は沢井左衛門・山内一豊等の寄騎衆と共に、30余艘の舟で長良川を攻め上がり、水の手谷道より駆け登る。搦手の門より突入し、一番乗りを上げる。柴田勝家等の主力部隊は七曲道より二の丸を経て本丸へ。稲葉山城は早朝からの攻撃で、午前10時に落去。信長入城。信長は父信秀以来30有余年遠き道であった美濃攻略を果たす。
かくて天下平定の道は信長と秀吉この二人の英雄によって開かれ、戦国時代より安土桃山時代へと時は移りゆき、中世から近世へと日本史は転換してゆくことになる。
(墨俣一夜城歴史資料館発行資料参照)
外には栴檀(せんだん)の木の実が太陽に輝いて光っている。
すごくキレイだ
墨俣一夜城を後にして木曾三川公園に向かう。
もうお昼を回りお腹も空いてきたので"道の駅クレール平田"で昼食
ここでウナギ卵とじ定食で舌鼓。
食事終了後、店内で深紅の山茶花と柘植の鉢植えをゲット
木曾三川公園に到着
風がさむ~い。
イルミネーションの飾りつけで職員は忙しそう
寒くて外には観光客はあまりいない。
地上65mの展望タワー木曾三川と濃尾平野が一望できる。
展望タワー入場料 大人600円 子供300円。
ビジターセンター内では木曾三川流域の公園、名所、観光スポットを紹介している。
展望タワーからの眺望はすばらし~ぃ
木曾川、長良川、揖斐川が行儀よく綺麗に三本並んでいる。
洪水の治水対策した結果だ
昔は洪水が頻繁に起きていた。堤を築き今や平静の河川になった。
それぞれの大河の水の輝きが綺麗だ。
帰りは大垣に回り樽見鉄道沿いに海津でミカンをゲット
午後6時モレラ岐阜に到着
午後10時帰省走行距離550kmの日帰り旅行を満喫した。
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