前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
熊楠は「人柱の話」の中で旧・加藤清正邸について「甲子夜話(かっしやわ)」の次の箇所を引いている。
「鳥羽侯〔稲垣氏〕の邸は麹町八丁目にありて、伯母光照夫人ここに坐せしゆゑ、予中年の頃までは縷々此邸に往けり。邸の裏道を隔て、向は彦根侯〔井伊氏〕の中荘にして、高崖の上に大なる屋見ゆ。千畳鋪と人云ふ。又云ふ。この屋は以前加藤清正の邸なりし時のものにて、屋瓦の面にはその家紋、円中に桔梗花を出せりと。又この千畳鋪の天井に乗物を〔駕籠を云〕釣下げてあり。人の開き見ることを禁ず。或は云。清正の妻の屍を容れてあり。或は云。この中妖怪ゐて、時として内より戸を開くを見るに、老婆の形なる者見ゆと。数人の所話の如し。然るにその後彼荘火災の為に類焼して、千畳鋪も烏有となれり。定めて天井の乗物も焚亡せしならん。妖も鬼も倶に三界火宅なりき」(「甲子夜話4・巻五十九・五・P.194」東洋文庫)
そして熊楠はいう。
「これはドイツで人柱の代りに空棺を埋めたごとく、人屍の代りに葬式の乗物を釣り下げて千畳敷のヌシとしたのであるまいか」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.244』河出文庫)
また柳田國男は次のように述べつつ、それが「最も威霊のある女性の神であった」点に注意を促している。
「姫路の城の姥石は、現に絵葉書もできているくらいの一名物であるが、これがまた中凹の、ちょっとした石の枕といってもよい石である。今でも城の石垣の間に置いてある。加藤清正この石垣を築く時、積んでも積んでも一夜の中(うち)に崩れ、当惑の折から、名も知らぬ老婆現れ来たり、臼のような小さい石を一つ、石垣の上に置いたら、それから無事に積み上げることができたと、現今では説明せられている。この城の守護神は老女では決してないが、最も威霊のある女性の神であったことは、この話とともに注意してみねばならぬ」(柳田國男「史料としての伝説・関のおば石」『柳田国男全集4・P.362~363』ちくま文庫)
しかし「最も威霊のある女性の神」とは何だろうか。それは「老婆」姿で現われる。一度ならず述べてきた。日本最初の山姥(やまんば)として。伊弉冉尊(イザナミノミコト)にほかならないと。
また特定の生業を営む女性に特権的聖性が認められていた時代はそれほど遠くない。むしろ長い。童子が元服する際の名付けを比丘尼に託す風習は中世から江戸時代一杯を通してずっと定着していた。
「むかしの人が十の九まで仏弟子として剃髪せしことは、『狂言記』の『比丘貞(びくさだ)』などでも分かり候。すなわち、かな法師という男児が成人して名を付くるに、お寮様(比丘尼の頭領)に名を改めてもらう。お寮は自分のことを人々が《お庵》というにあやかれとて、庵太郎と付けた、とあり」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.459』河出文庫)
「甲子夜話(かっしやわ)」にこうある。
「五月二十三日、観世が宅の能を見物に往たるとき、鷺仁右衛門が比丘貞の狂言せしに、この比丘貞の狂言は、金(カナ)法師と云る少年を其父のつれ出て、比丘尼某の許に来り、元服させその名を請ふ。比丘尼始め、身女子たるを以て辞せども、止むことを得ず、遂に称をあん太郎と呼び、名を比丘貞と授く。貞はその家の通名、比丘は己が称呼に拠るなり。因てかの父携来た酒樽を比丘尼へ与へ、比丘尼も亦かの子に米(メメ)五十石、銭(オアシ)百貫を祝儀として与へ、且かの子の舞を請ければ、少年起て舞ふ」(「甲子夜話5・巻八十・八・P.344」東洋文庫)
またニーチェがいうように人間は常に勘違いする動物だ。
「粘菌が原形体として朽木枯葉を食いまわること(イ)やや久しくして、日光、日熱、湿気、風等の諸因縁に左右されて、今は原形体で止まり得ず、(ロ)原形体がわき上がりその原形体の分子どもが、あるいはまずイ’なる茎(くき)となり、他の分子どもが茎をよじ登りてロ’なる胞子となり、それと同時にある分子どもが(ハ)なる胞壁となりて胞子を囲う。それと同時にまた(ニ)なる分子どもが糸状体となって茎と胞子と胞壁とをつなぎ合わせ、風等のために胞子が乾き、糸状体が乾きて折れるときはたちまち胞壁破れて胞子散飛し、もって他日また原形体と化成して他所に蕃殖するの備えをなす。かく出来そろうたを見て、やれ粘菌が生えたといいはやす。しかるに、まだ乾かぬうちに大風や大雨があると、一旦、茎、胞壁、胞子、糸状体となりかけたる諸分子がたちまちまた跡を潜めてもとの原形体となり、災害を避けて木の下とか葉の裏に隠れおり、天気が恢復すればまたその原形体が再びわき上がりて胞囊を作るなり。原形体は活動して物を食いありく。茎、胞囊、胞子、糸状体と化しそろうた上は少しも活動せず。ただ後日の蕃殖のために胞子を擁護して、好機会をまちて飛散せしめんとかまうるのみなり。故に、人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰(たん)様の半流動体と蔑視さるるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人間の見解がまるで間違いおる。すなわち人が鏡下にながめて、それ原形体が胞子を生じた、それ胞壁を生じた、それ茎を生じたと悦ぶは、実は活動する原形体が死んで胞子や胞壁に固まり化するので、一旦、胞子、胞壁に固まらんとしかけた原形体が、またお流れになって原形体に戻るのは、粘菌が死んだと見えて実は原形体となって活動を始めたのだ。今もニューギニア等の土蕃は死を哀れむべきこととせず、人間が卑下の現世を脱して微妙高尚の未来世に生するのを一段階に過ぎずとするも、むやみに笑うべきでない」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.335~337』河出文庫)
早くから熊楠はそう述べていたにもかかわらず、周囲の人々からはほとんど相手にされなかった。「燕石考」がイギリスのネイチャー誌に掲載されてなお周囲はその事実を知らなかった。明治時代だったため一般的にはわからなくても仕方がなかったと言える。もっとも、僅かばかりの一部の知識人階級は腰を抜かすほど驚嘆したわけだが。それはそうと再び猫関連の説話に戻ると、猫もまた勘違いする。
或る時、鼠を追いかけていた猫が家にいた女性の衣服の袖に飛び込んだ鼠の後を追い、同じように女性の衣服の中へ飛び込んだ。何なの、と女性は緊張のあまりびっくりしていると、その陰毛を鼠と勘違いした猫が女性器に噛み付き酷い創(きず)になった。その創(きず)が重症化して女性はほとんど死にかけたらしい。
「一老尼来話す。近頃一婦家にありて、立ゐたる折ふし、畜猫、鼠を逐来りたるが、鼠その婦の裾より逃入り、懐中に昇り、衣内を出去たるを、猫もつづきて衣中に入りたるが、婦は蒼皇狼狽したるとき、猫は鼠と思たると覚しく、その陰戸(ほと)に齰(かみ)つきたり。婦懼痛して、ふり離さんとすれども、猫弥(いよいよ)つよく齰て、遂に重創となり、今は殆ど死に垂(なんな)んとすと。定めて陰毛を鼠とか思けんと。聞人皆噱(わらひ)ける」(「甲子夜話4・巻五十七・十・P.155」東洋文庫)
さらに官医を勤める男性医師のケース。男性が風呂上がりに湯衣姿でくつろいでいたところ、自らの飼い猫が鼠を追いかけてやって来た。鼠は男性の湯衣の裾からひょいと中に入った。猫も後を追って飛び込んだ。どう勘違いしたのか猫は飼い主の男性器に齰(かみ)ついた。すぐに猫を追いのけたものの創(きず)は重症化。男性は遂に死んだ。が、家族は恥ずかしく思ったのだろう、事実を口にすることができない。表向きは「病没」で済ませた。
「五十七巻に猫誤て婦女の陰戸(ほと)を齰(かむ)ことを記す。其後、或酒席にて聞に、先年吉田盛万院〔官医〕、正月元日、沐浴より出、湯衣を着てゐたる所に、常に愛せし猫、鼠を捕り来り、院が前にて弄びゐしが、鼠ふと逃去て、院が浴衣のすそに入る。猫遂入(おひいり)て、院が陰茎に齰つく。院即遂のけしが、この創(きず)遂に本となり、尋(つい)で死せり。その家人これを秘して、病没と披露せしとぞ」(「甲子夜話4・巻五十九・十二・P.198~199」東洋文庫)
ところが平戸藩主・松浦静山の耳に入り、その著書「甲子夜話」に記載されることとなった。
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熊楠は「人柱の話」の中で旧・加藤清正邸について「甲子夜話(かっしやわ)」の次の箇所を引いている。
「鳥羽侯〔稲垣氏〕の邸は麹町八丁目にありて、伯母光照夫人ここに坐せしゆゑ、予中年の頃までは縷々此邸に往けり。邸の裏道を隔て、向は彦根侯〔井伊氏〕の中荘にして、高崖の上に大なる屋見ゆ。千畳鋪と人云ふ。又云ふ。この屋は以前加藤清正の邸なりし時のものにて、屋瓦の面にはその家紋、円中に桔梗花を出せりと。又この千畳鋪の天井に乗物を〔駕籠を云〕釣下げてあり。人の開き見ることを禁ず。或は云。清正の妻の屍を容れてあり。或は云。この中妖怪ゐて、時として内より戸を開くを見るに、老婆の形なる者見ゆと。数人の所話の如し。然るにその後彼荘火災の為に類焼して、千畳鋪も烏有となれり。定めて天井の乗物も焚亡せしならん。妖も鬼も倶に三界火宅なりき」(「甲子夜話4・巻五十九・五・P.194」東洋文庫)
そして熊楠はいう。
「これはドイツで人柱の代りに空棺を埋めたごとく、人屍の代りに葬式の乗物を釣り下げて千畳敷のヌシとしたのであるまいか」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.244』河出文庫)
また柳田國男は次のように述べつつ、それが「最も威霊のある女性の神であった」点に注意を促している。
「姫路の城の姥石は、現に絵葉書もできているくらいの一名物であるが、これがまた中凹の、ちょっとした石の枕といってもよい石である。今でも城の石垣の間に置いてある。加藤清正この石垣を築く時、積んでも積んでも一夜の中(うち)に崩れ、当惑の折から、名も知らぬ老婆現れ来たり、臼のような小さい石を一つ、石垣の上に置いたら、それから無事に積み上げることができたと、現今では説明せられている。この城の守護神は老女では決してないが、最も威霊のある女性の神であったことは、この話とともに注意してみねばならぬ」(柳田國男「史料としての伝説・関のおば石」『柳田国男全集4・P.362~363』ちくま文庫)
しかし「最も威霊のある女性の神」とは何だろうか。それは「老婆」姿で現われる。一度ならず述べてきた。日本最初の山姥(やまんば)として。伊弉冉尊(イザナミノミコト)にほかならないと。
また特定の生業を営む女性に特権的聖性が認められていた時代はそれほど遠くない。むしろ長い。童子が元服する際の名付けを比丘尼に託す風習は中世から江戸時代一杯を通してずっと定着していた。
「むかしの人が十の九まで仏弟子として剃髪せしことは、『狂言記』の『比丘貞(びくさだ)』などでも分かり候。すなわち、かな法師という男児が成人して名を付くるに、お寮様(比丘尼の頭領)に名を改めてもらう。お寮は自分のことを人々が《お庵》というにあやかれとて、庵太郎と付けた、とあり」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.459』河出文庫)
「甲子夜話(かっしやわ)」にこうある。
「五月二十三日、観世が宅の能を見物に往たるとき、鷺仁右衛門が比丘貞の狂言せしに、この比丘貞の狂言は、金(カナ)法師と云る少年を其父のつれ出て、比丘尼某の許に来り、元服させその名を請ふ。比丘尼始め、身女子たるを以て辞せども、止むことを得ず、遂に称をあん太郎と呼び、名を比丘貞と授く。貞はその家の通名、比丘は己が称呼に拠るなり。因てかの父携来た酒樽を比丘尼へ与へ、比丘尼も亦かの子に米(メメ)五十石、銭(オアシ)百貫を祝儀として与へ、且かの子の舞を請ければ、少年起て舞ふ」(「甲子夜話5・巻八十・八・P.344」東洋文庫)
またニーチェがいうように人間は常に勘違いする動物だ。
「粘菌が原形体として朽木枯葉を食いまわること(イ)やや久しくして、日光、日熱、湿気、風等の諸因縁に左右されて、今は原形体で止まり得ず、(ロ)原形体がわき上がりその原形体の分子どもが、あるいはまずイ’なる茎(くき)となり、他の分子どもが茎をよじ登りてロ’なる胞子となり、それと同時にある分子どもが(ハ)なる胞壁となりて胞子を囲う。それと同時にまた(ニ)なる分子どもが糸状体となって茎と胞子と胞壁とをつなぎ合わせ、風等のために胞子が乾き、糸状体が乾きて折れるときはたちまち胞壁破れて胞子散飛し、もって他日また原形体と化成して他所に蕃殖するの備えをなす。かく出来そろうたを見て、やれ粘菌が生えたといいはやす。しかるに、まだ乾かぬうちに大風や大雨があると、一旦、茎、胞壁、胞子、糸状体となりかけたる諸分子がたちまちまた跡を潜めてもとの原形体となり、災害を避けて木の下とか葉の裏に隠れおり、天気が恢復すればまたその原形体が再びわき上がりて胞囊を作るなり。原形体は活動して物を食いありく。茎、胞囊、胞子、糸状体と化しそろうた上は少しも活動せず。ただ後日の蕃殖のために胞子を擁護して、好機会をまちて飛散せしめんとかまうるのみなり。故に、人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰(たん)様の半流動体と蔑視さるるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人間の見解がまるで間違いおる。すなわち人が鏡下にながめて、それ原形体が胞子を生じた、それ胞壁を生じた、それ茎を生じたと悦ぶは、実は活動する原形体が死んで胞子や胞壁に固まり化するので、一旦、胞子、胞壁に固まらんとしかけた原形体が、またお流れになって原形体に戻るのは、粘菌が死んだと見えて実は原形体となって活動を始めたのだ。今もニューギニア等の土蕃は死を哀れむべきこととせず、人間が卑下の現世を脱して微妙高尚の未来世に生するのを一段階に過ぎずとするも、むやみに笑うべきでない」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.335~337』河出文庫)
早くから熊楠はそう述べていたにもかかわらず、周囲の人々からはほとんど相手にされなかった。「燕石考」がイギリスのネイチャー誌に掲載されてなお周囲はその事実を知らなかった。明治時代だったため一般的にはわからなくても仕方がなかったと言える。もっとも、僅かばかりの一部の知識人階級は腰を抜かすほど驚嘆したわけだが。それはそうと再び猫関連の説話に戻ると、猫もまた勘違いする。
或る時、鼠を追いかけていた猫が家にいた女性の衣服の袖に飛び込んだ鼠の後を追い、同じように女性の衣服の中へ飛び込んだ。何なの、と女性は緊張のあまりびっくりしていると、その陰毛を鼠と勘違いした猫が女性器に噛み付き酷い創(きず)になった。その創(きず)が重症化して女性はほとんど死にかけたらしい。
「一老尼来話す。近頃一婦家にありて、立ゐたる折ふし、畜猫、鼠を逐来りたるが、鼠その婦の裾より逃入り、懐中に昇り、衣内を出去たるを、猫もつづきて衣中に入りたるが、婦は蒼皇狼狽したるとき、猫は鼠と思たると覚しく、その陰戸(ほと)に齰(かみ)つきたり。婦懼痛して、ふり離さんとすれども、猫弥(いよいよ)つよく齰て、遂に重創となり、今は殆ど死に垂(なんな)んとすと。定めて陰毛を鼠とか思けんと。聞人皆噱(わらひ)ける」(「甲子夜話4・巻五十七・十・P.155」東洋文庫)
さらに官医を勤める男性医師のケース。男性が風呂上がりに湯衣姿でくつろいでいたところ、自らの飼い猫が鼠を追いかけてやって来た。鼠は男性の湯衣の裾からひょいと中に入った。猫も後を追って飛び込んだ。どう勘違いしたのか猫は飼い主の男性器に齰(かみ)ついた。すぐに猫を追いのけたものの創(きず)は重症化。男性は遂に死んだ。が、家族は恥ずかしく思ったのだろう、事実を口にすることができない。表向きは「病没」で済ませた。
「五十七巻に猫誤て婦女の陰戸(ほと)を齰(かむ)ことを記す。其後、或酒席にて聞に、先年吉田盛万院〔官医〕、正月元日、沐浴より出、湯衣を着てゐたる所に、常に愛せし猫、鼠を捕り来り、院が前にて弄びゐしが、鼠ふと逃去て、院が浴衣のすそに入る。猫遂入(おひいり)て、院が陰茎に齰つく。院即遂のけしが、この創(きず)遂に本となり、尋(つい)で死せり。その家人これを秘して、病没と披露せしとぞ」(「甲子夜話4・巻五十九・十二・P.198~199」東洋文庫)
ところが平戸藩主・松浦静山の耳に入り、その著書「甲子夜話」に記載されることとなった。
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