前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
次の説話は国名郡名ともに欠字。主要登場人物は或る兄弟。だが帯刀を許されていることから何らかの下級役人だったのだろう。さらに家に死者が出た場合、普通はすぐさま埋葬しなければならないが、この説話では数日間家に安置した上で葬送する日取りが決められている。従ってそれなりの役職に付いていたことがわかる。そこから話は始まっているわけだが、死者というのは兄弟の親。「一間(ひとま)有(あり)ケル離(はなれ)タル所」=「離れの一部屋」に棺を置き、数日の間そこに安置しておくのが通例。しかし離れとはいっても数日間敷地内に置いておくと、使用人などは用事ですぐそばを通り過ぎることが当然ある。
しばらくすると、夜中に離れの部屋の中から何かが光を発している様子を見た、何だか怪しいという話が兄弟の耳に上がってきた。
「此ノ死人(しにん)置(おき)タル所ノ、夜半許(よなかばかり)ニ光ル事ナム有ル。怪(あやし)キ事也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十五・P.156」岩波書店)
兄弟は慎重に協議した。もしかすると死人《が》妖怪〔鬼・ものの怪〕になったか、もう一つは死人《に》妖怪〔鬼・ものの怪〕が取り憑いたか、どちらかだろうと。貨幣に置き換えると前者がそのケースに当たる。後者なら貨幣ではなく諸商品の系列の一商品でしかない。それがもし買われなければそれはそのまま死物としていずれ廃棄処分されて終わる。早く正体を明らかにしないといけない、と。
「此レハ若(も)シ、死人ノ、物ナドニ成(なり)テ光ルニヤ有ラム、亦(また)、死人ノ所ニ物ノ来(きた)ルニヤ有ラム。然(さ)ラバ、此レ構ヘテ見顕(みあらは)カサバヤ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十五・P.156」岩波書店)
そこで弟は棺のすぐそばで妖魔の出現を待つことにする。手応えがあれば人を呼ぶ。その声が聞こえたら間髪入れず兄は灯火を持って部屋の中へ滑り込んでくることにしようと。妖怪〔鬼・ものの怪〕退散には刀をかざしたり灯火で照らし上げたりして、その正体を暴き出すことが効果的と考えられていた。弟は棺が安置してある離れの部屋へこっそり赴き、棺の蓋(ふた)をいったん取り外して逆に置き直し、衣服を脱いで裸になり、その上へ仰向けで横になった。刀をぴたりと身に引き付けている。なぜ裸になるのか。というのは当時、貴族ででもない限り、死者は裸で道端に転がっているものだとされていたから。別の条(悪行・巻第二十九・第十九)では、死刑になるところ恩赦を受けて京の都から追放された盗賊団が東国へ落ち延びようとしていた時、夜中の逢坂山の街道筋でわざわざ裸になって路上に打ち棄てられた死人のふりを装い、のこのこ近づいてきた武士の刀・衣服・馬を次々と奪い去って逃亡に成功した話が載っている。
夜中になった。死人のふりをした弟が細目に様子を窺っていると天井が光って見えた。
「弟、蜜(ひそか)ニ彼(か)ノ棺ノ許(もと)ニ行(ゆき)テ、棺ノ蓋(ふた)ヲ仰様(のけざま)ニ置(おき)テ、其ノ上ニ裸ニテ髻(もとどり)ヲ放(はなち)テ仰様ニ臥シテ、刀ヲ身ニ引副(ひきそ)ヘテ隠シテ持つ(も)タリケルニ、夜半(よなか)ニハ成(なり)ヌラムト思フ程ニ、和(やは)ラ細目(ほそめ)ニ見ケレバ、天井(てんじやう)ニ光ル様(やう)ニス」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十五・P.156」岩波書店)
二度ほど光を放ったかと思うと天井の板を引き搔き開けて部屋へ降りてくる何物かがいる。よく見えないので判然としない。ただ、巨体なのは確かなようで、板敷の床に降り立った音はずしんと大きい。そして使用人らの報告通り不気味な光を放っている。死人のふりをして棺の蓋の上で息をこらしていると、何物かはその蓋を取り払い側にのけようとした。瞬間、弟は何物かの体にぴたりと抱き付き「獲った!」と声を上げ、すかさず相手の脇腹の辺り目掛けて刀の刃を柄のあたりまでずぶりと突き立てた。と、たちまち光は消え失せた。
「大キヤカナル者、板敷(いたじき)ニドウト着(つき)ヌナリ。此(かか)ル程ニ、真(ま)サオニ光(ひかり)タリ。此ノ者、臥(ふし)タル棺ノ蓋ヲ取(とり)テ傍(かたはら)ニ置(おか)ムト為(す)ルヲ、押量(おしはかり)テヒタト抱付(いだきつき)テ、音(こゑ)ヲ高ク挙(あげ)テ、『得タリ、ヲウ』ト云(いひ)テ、脇ト思(おぼ)シキ所ニ刀ヲ𣠽口(つかぐち)マデ突立(つきた)テツ。其ノ時ニ光(ひか)リモ失(うせ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十五・P.156~157」岩波書店)
弟の呼び声を聞いた兄は灯火を持って駆け込んだ。照らし出してみると、抱き付かれているのは年老いて既に体毛も綻びなくなっている「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」である。その脇には刀が突き立っており、もはや死んでいた。
「兄、程無ク火ヲ燃(ともし)テ持来(もてき)タリ。抱キ付(つき)乍(なが)ラ見レバ、大キナル野猪(くさゐなぎ)ノ毛モ無キニ抱付(いだきつき)テ、脇ニ刀ヲ被突立(つきたてられ)テ死(しに)テ有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十五・P.157」岩波書店)
江戸時代になって「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」に滑稽な姿形が与えられるようになったことはよく知られている。しかし中世ではまだ化けて出る妖怪〔鬼・ものの怪〕の一種に類別されていた。変身を得意とする妖怪〔鬼・ものの怪〕のうち、狸に似た待遇を受けていたのは狐だ。どちらも時々人間を化かす。けれども前回取り上げた「唐橋の鬼」ほどの凄まじさはちっともない。しばしば正体を露わにされて失敗している。その意味で狸も狐も、妖怪〔鬼・ものの怪〕《としては》一般的に下級な部類に属するとされていた。跡形もなく見事に変身し去ることはできなかった。その点で貨幣失格というわけだ。
代わりに逆説的だが、貨幣失格という条件がかえって村落共同体を営む人間生活に、馴染みの深い愛嬌ものとして長く愛されることになっていくのである。また狐は稲作農耕の守護神としてだけでなく、何かといえば美女に化けるのを得意とする。狸が独特の愛嬌を持っているように。さらに狸は日本を含む東アジア原産であり、ヨーロッパ方面で狸に類別されている種とはまた遺伝子が異なる。
猫もまた化ける。しかし稲作農耕文化の全国化とともに神格化され、さらに狐が稲荷大社にまで昇格すればもはやわざわざ怨霊と化す必要性がなくなったと同時に、今やむしろ賽銭箱に化けたかのようですらある。その反面、急速に問題とされているのは犬だ。犬はいったん飼主とその家族になつくともはや疑うということを知らない。飼主の散歩中に危機を感じるとそれこそ体を張り、相手次第とはいえ逆に殺されてしまうまで闘い抜くケースが稀でない。
ところで話題を戻すと、普段は「離れの間」として使われている部屋だが、死者が出るとその部屋自体が変容することに注目しておきたい。日本独特の「穢(けが)れ」の観念は中国よりも東南アジア一帯とインドのヒンドゥー教の側に遥かに近い。記紀神話の時代に描かれたエピソードが今なお生きている点において驚異的な類似性を示している。日本の高級官僚の中には東日本大震災の被災地視察に赴いた際、水溜りを自分自身の足で歩かず、職員におんぶしてもらっていた光景はまだ記憶に新らしい。地面に近ければ近いほどそこで働く人々を扱いするのはインド(十三億五千万人)ではまだまだ強烈な差別構造を形成するカースト制度の産物。日本では違法な金銭問題で騒がれているようだが、世界から見ればむしろヒンドゥー教のカースト制度の頑固な支持者が日本では高級官僚として扱われているかのように映って見えたという衝撃こそ遥かに大きかった点にもっと留意すべきだろう。テレビ・ニュースで流れたため今や世界中に知れ渡った後なのだが。
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次の説話は国名郡名ともに欠字。主要登場人物は或る兄弟。だが帯刀を許されていることから何らかの下級役人だったのだろう。さらに家に死者が出た場合、普通はすぐさま埋葬しなければならないが、この説話では数日間家に安置した上で葬送する日取りが決められている。従ってそれなりの役職に付いていたことがわかる。そこから話は始まっているわけだが、死者というのは兄弟の親。「一間(ひとま)有(あり)ケル離(はなれ)タル所」=「離れの一部屋」に棺を置き、数日の間そこに安置しておくのが通例。しかし離れとはいっても数日間敷地内に置いておくと、使用人などは用事ですぐそばを通り過ぎることが当然ある。
しばらくすると、夜中に離れの部屋の中から何かが光を発している様子を見た、何だか怪しいという話が兄弟の耳に上がってきた。
「此ノ死人(しにん)置(おき)タル所ノ、夜半許(よなかばかり)ニ光ル事ナム有ル。怪(あやし)キ事也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十五・P.156」岩波書店)
兄弟は慎重に協議した。もしかすると死人《が》妖怪〔鬼・ものの怪〕になったか、もう一つは死人《に》妖怪〔鬼・ものの怪〕が取り憑いたか、どちらかだろうと。貨幣に置き換えると前者がそのケースに当たる。後者なら貨幣ではなく諸商品の系列の一商品でしかない。それがもし買われなければそれはそのまま死物としていずれ廃棄処分されて終わる。早く正体を明らかにしないといけない、と。
「此レハ若(も)シ、死人ノ、物ナドニ成(なり)テ光ルニヤ有ラム、亦(また)、死人ノ所ニ物ノ来(きた)ルニヤ有ラム。然(さ)ラバ、此レ構ヘテ見顕(みあらは)カサバヤ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十五・P.156」岩波書店)
そこで弟は棺のすぐそばで妖魔の出現を待つことにする。手応えがあれば人を呼ぶ。その声が聞こえたら間髪入れず兄は灯火を持って部屋の中へ滑り込んでくることにしようと。妖怪〔鬼・ものの怪〕退散には刀をかざしたり灯火で照らし上げたりして、その正体を暴き出すことが効果的と考えられていた。弟は棺が安置してある離れの部屋へこっそり赴き、棺の蓋(ふた)をいったん取り外して逆に置き直し、衣服を脱いで裸になり、その上へ仰向けで横になった。刀をぴたりと身に引き付けている。なぜ裸になるのか。というのは当時、貴族ででもない限り、死者は裸で道端に転がっているものだとされていたから。別の条(悪行・巻第二十九・第十九)では、死刑になるところ恩赦を受けて京の都から追放された盗賊団が東国へ落ち延びようとしていた時、夜中の逢坂山の街道筋でわざわざ裸になって路上に打ち棄てられた死人のふりを装い、のこのこ近づいてきた武士の刀・衣服・馬を次々と奪い去って逃亡に成功した話が載っている。
夜中になった。死人のふりをした弟が細目に様子を窺っていると天井が光って見えた。
「弟、蜜(ひそか)ニ彼(か)ノ棺ノ許(もと)ニ行(ゆき)テ、棺ノ蓋(ふた)ヲ仰様(のけざま)ニ置(おき)テ、其ノ上ニ裸ニテ髻(もとどり)ヲ放(はなち)テ仰様ニ臥シテ、刀ヲ身ニ引副(ひきそ)ヘテ隠シテ持つ(も)タリケルニ、夜半(よなか)ニハ成(なり)ヌラムト思フ程ニ、和(やは)ラ細目(ほそめ)ニ見ケレバ、天井(てんじやう)ニ光ル様(やう)ニス」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十五・P.156」岩波書店)
二度ほど光を放ったかと思うと天井の板を引き搔き開けて部屋へ降りてくる何物かがいる。よく見えないので判然としない。ただ、巨体なのは確かなようで、板敷の床に降り立った音はずしんと大きい。そして使用人らの報告通り不気味な光を放っている。死人のふりをして棺の蓋の上で息をこらしていると、何物かはその蓋を取り払い側にのけようとした。瞬間、弟は何物かの体にぴたりと抱き付き「獲った!」と声を上げ、すかさず相手の脇腹の辺り目掛けて刀の刃を柄のあたりまでずぶりと突き立てた。と、たちまち光は消え失せた。
「大キヤカナル者、板敷(いたじき)ニドウト着(つき)ヌナリ。此(かか)ル程ニ、真(ま)サオニ光(ひかり)タリ。此ノ者、臥(ふし)タル棺ノ蓋ヲ取(とり)テ傍(かたはら)ニ置(おか)ムト為(す)ルヲ、押量(おしはかり)テヒタト抱付(いだきつき)テ、音(こゑ)ヲ高ク挙(あげ)テ、『得タリ、ヲウ』ト云(いひ)テ、脇ト思(おぼ)シキ所ニ刀ヲ𣠽口(つかぐち)マデ突立(つきた)テツ。其ノ時ニ光(ひか)リモ失(うせ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十五・P.156~157」岩波書店)
弟の呼び声を聞いた兄は灯火を持って駆け込んだ。照らし出してみると、抱き付かれているのは年老いて既に体毛も綻びなくなっている「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」である。その脇には刀が突き立っており、もはや死んでいた。
「兄、程無ク火ヲ燃(ともし)テ持来(もてき)タリ。抱キ付(つき)乍(なが)ラ見レバ、大キナル野猪(くさゐなぎ)ノ毛モ無キニ抱付(いだきつき)テ、脇ニ刀ヲ被突立(つきたてられ)テ死(しに)テ有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十五・P.157」岩波書店)
江戸時代になって「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」に滑稽な姿形が与えられるようになったことはよく知られている。しかし中世ではまだ化けて出る妖怪〔鬼・ものの怪〕の一種に類別されていた。変身を得意とする妖怪〔鬼・ものの怪〕のうち、狸に似た待遇を受けていたのは狐だ。どちらも時々人間を化かす。けれども前回取り上げた「唐橋の鬼」ほどの凄まじさはちっともない。しばしば正体を露わにされて失敗している。その意味で狸も狐も、妖怪〔鬼・ものの怪〕《としては》一般的に下級な部類に属するとされていた。跡形もなく見事に変身し去ることはできなかった。その点で貨幣失格というわけだ。
代わりに逆説的だが、貨幣失格という条件がかえって村落共同体を営む人間生活に、馴染みの深い愛嬌ものとして長く愛されることになっていくのである。また狐は稲作農耕の守護神としてだけでなく、何かといえば美女に化けるのを得意とする。狸が独特の愛嬌を持っているように。さらに狸は日本を含む東アジア原産であり、ヨーロッパ方面で狸に類別されている種とはまた遺伝子が異なる。
猫もまた化ける。しかし稲作農耕文化の全国化とともに神格化され、さらに狐が稲荷大社にまで昇格すればもはやわざわざ怨霊と化す必要性がなくなったと同時に、今やむしろ賽銭箱に化けたかのようですらある。その反面、急速に問題とされているのは犬だ。犬はいったん飼主とその家族になつくともはや疑うということを知らない。飼主の散歩中に危機を感じるとそれこそ体を張り、相手次第とはいえ逆に殺されてしまうまで闘い抜くケースが稀でない。
ところで話題を戻すと、普段は「離れの間」として使われている部屋だが、死者が出るとその部屋自体が変容することに注目しておきたい。日本独特の「穢(けが)れ」の観念は中国よりも東南アジア一帯とインドのヒンドゥー教の側に遥かに近い。記紀神話の時代に描かれたエピソードが今なお生きている点において驚異的な類似性を示している。日本の高級官僚の中には東日本大震災の被災地視察に赴いた際、水溜りを自分自身の足で歩かず、職員におんぶしてもらっていた光景はまだ記憶に新らしい。地面に近ければ近いほどそこで働く人々を扱いするのはインド(十三億五千万人)ではまだまだ強烈な差別構造を形成するカースト制度の産物。日本では違法な金銭問題で騒がれているようだが、世界から見ればむしろヒンドゥー教のカースト制度の頑固な支持者が日本では高級官僚として扱われているかのように映って見えたという衝撃こそ遥かに大きかった点にもっと留意すべきだろう。テレビ・ニュースで流れたため今や世界中に知れ渡った後なのだが。
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