前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
皇族の名簿作成、季禄、衣服の支給などを職務とする部署を正親司(おほきみのつかさ)といった。その五位の者を「正親(おほきみ)ノ大夫(たいふ)」という。或る「正親(おほきみ)ノ大夫(たいふ)」がまだ若年だった頃のエピソード。
いつ頃からか、宮仕えしている女性と付き合い始め、夜になるとしばしば女性のもとに通うようになった。とはいえ連日連夜欠かさずというほど熱心ではなく気まぐれなもので、或る日、久しぶりに夜を共にしたいと思い、いつも二人の仲立ちをしている連絡役の女性に「今夜は彼女に会いたいから準備しておいてほしい」と言ってみた。すると仲立ちの女性はいう。「はい、それは簡単です。でも今夜は数年来の知人が地方から我が家に訪問してきて泊まっていくので、殿においでいただいたとしても、しかるべき部屋が空いておりません。困りました」。
「呼(よび)奉ラム事ハ安ケレドモ、今夜、此ノ宿ニ年来(としごろ)知(しり)タル田舎人(ゐなかびと)ノ詣来(まうでき)テ宿(やどり)テ候(さぶら)ヘバ、可御(おはすべ)キ所ノ不候(さぶらは)ヌガ侘(わび)シキ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・118」岩波書店)
正親大夫は「本当か?」と思いつつ仲立ちの女性の家を覗き込んでみる。なるほど馬や下人らが沢山入っている様子。男女が身を隠して逢い引きする所など見当たらない。女性は考え込んでいたが、いい方法を思いついた、という。「ここから西へ行くと無人のお堂があります。今夜はそこへおいで下さいませ」。
「此ノ西ノ方ニ、人モ無キ堂候フ。今夜許(こよひばかり)、其ノ堂ニ御(おはし)マセ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・118」岩波書店)
言うと仲立ちの女性は近くの家まで走って正親大夫の愛人の手を引いて連れてきた。一行は西方向へ100メートルあまり、連れ立って歩くと古いお堂がある。仲立ちの女性はお堂の扉を開けて自分の家から持ってきた畳一畳を敷き、明け方にはまた参りますといい、二人を残して帰っていった。正親大夫とその愛人は畳の上に横になり、愛の囁き合いに耽っているとそのうち夜も更けてきた。一人の従者も連れてきておらず、無人の古寂れたお堂なので何となく薄気味悪い。
夜中になった。もはや真っ暗。すると堂内の本尊の背後から灯火の灯りが仄と揺らめき出てきた。誰か人がいるのかと思って見ていると、一人の童女が灯火を持って現われ、本尊の仏像に奉げて置いた。
「夜中許(よなかばかり)ニモ成(なり)ヤシヌラムト思フ程ニ、堂ノ後(うしろ)ノ方(かた)ニ火ノ光リ出来(いでき)タリ。人ノ有(あり)ケルニコソト思フ程ニ、女(め)ノ童(わらは)一人、火ヲ灯(とも)シテ持来(もてき)テ、仏ノ御前(まへ)ト思(おぼ)シキ所ニ居(すゑ)ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)
正親大夫は何たる異例の事態か、えらいことになったと、ぞっとしていると本尊の背後から独りの女房が出現した。女房はしばらく脇を向いて考え込むような風情で正親大夫を見ていたかと思うと、こういう。ここに入ってきておられるのは一体どのようなお方であろうか。けしからぬことと言わねばならない。私はこの堂の主(あるじ)である。主(あるじ)に向けて何の断わりもなく、そなた、なぜここに居るわけなのか。この堂はこれまで誰一人、宿に使ったことなど一度としてない。
「此(ここ)ニハ何(いか)ナル人ノ入御(いりおは)シタルゾ。糸奇怪(いときくわい)ナル事也。丸(まろ)ハ此(ここ)ノ主(あるじ)也。何(いか)デカ主モ不云(いは)ズシテ、此(かく)ハ来(きた)レル。此(ここ)ニハ、古(いにしへ)ヨリ人来(きた)リ宿ル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)
この場合の、「糸奇怪(いときくわい)ナル事」は「けしからぬぬしの心ぎはかな」(「宇治拾遺物語・巻第十四・二・P.325」角川文庫)、というに近い。「けしからぬことよのう、おぬしの心構えは」。
突然出現した妖怪〔鬼・ものの怪〕と思われる女房の凄まじい気迫に、正親大夫は押し潰されそうな恐怖で一杯になる。そしていう。そういうこととは露知らずとんだ失礼を致しました。女房は命じる。ただちに出て行かれよ。でないと、必ず、そなたの為にならぬと思え。
「速(すみやか)ニ疾(と)ク出給(いでたま)ヒネ。不出給(いでたまは)ズハ悪(あし)カリナム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)
慌てた正親大夫は愛人の手を引っ張り上げ外へ出ようとする。が、愛人は既に汗びっしょりで起き上がることができない。正親大夫は無理にでも起き上がらせようと自分の肩に寄り掛からせて脱出を試みる。立ち上がれなくなっている愛人を、それでも何とか家まで連れ運び門を叩いて開けさせ帰宅させた。正親大夫は自邸へ帰った。
「女、汗水(あせみづ)ニ成(なり)テ否不立(えたて)ヌヲ、強(あながち)ニ引立(ひきたて)テ出(いで)ヌ。男ノ肩ニ引懸(ひきかけ)テ行(ゆき)ケレドモ、否不歩(えあゆま)ヌヲ構(かまへ)テ主(あるじ)ノ家ノ門(かど)ニ将行(ゐてゆき)テ、門ヲ叩(たたき)て、女ヲバ入レツ。正親ノ大夫ハ家ニ返(かへり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)
自邸へ帰った正親大夫は髪の毛が逆立つような恐怖を拭いきれず、体調も崩れてきたようで、翌日はほぼ一日臥せっていた。夕方頃、昨夜の愛人の衰弱し切った姿が気がかりになってきた。そこで様子を聞きに仲立ちの女性の家を訪ねた。女性はいう。あのお方は帰宅されてからまるで魂が抜けたかように、ただ死んでいくばかりの様相で衰弱が激しく、どんなことがあったのかと人に問われても何一つお答えになられません。皆びっくりしてしまって。彼女は身寄りも知人もない方で、さらに回復の見込みもない様子。ともかく死穢を避けようと外に仮小屋を作ってそこへ連れ出したところ、しばらくするとすうっと息を引き取られました。
「其ノ人ハ、返リ給(たまひ)ケルヨリ物モ不思(おぼ)エズ、只死(しに)ニ死(し)ヌル様(やう)ニ見(みえ)ケレバ、『何(いか)ナル事ノ有(あり)ツルゾ』ナド人々被問(とはれ)ケレドモ、物ヲダニ否不宣(のたまは)ザリケレバ、主(あるじ)モ驚(おどろ)キ騒(さわぎ)て、知ル人モ無キ人ニテ有レバ、仮屋(かりや)ヲ造(つくり)テ被出(いだされ)タリケレバ、程モ無ク死(しに)給ヒニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・120」岩波書店)
そう聞かされた正親大夫はいう。実はあのお堂に鬼が出た。ひどい話だ。しかし仲立ちの女性は自分もそんな話はついぞ知らなかったと驚くばかりだった。ところで妖怪〔鬼・ものの怪〕はなぜ「女房姿」で出現したのか。というより、そもそも妖怪〔鬼・ものの怪〕は他の何物にでも変容可能であり、その点で貨幣と異なるところはまるでない。この説話でもそれを立証しにわざわざ登場してきたかのように見えるのはどうしてだろう。
ちなみに後日譚が書かれている。「其ノ堂ハ、于今有(いまにあり)トカヤ。七条大宮(おおみや)ノ辺(わたり)ニ有(あり)トゾ聞ク」。今の京都市下京区七条大宮交差点に立ってみる。すぐそばには西本願寺の広大な敷地が見える。古寂れた堂はもはやどこにも見当たらない。
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皇族の名簿作成、季禄、衣服の支給などを職務とする部署を正親司(おほきみのつかさ)といった。その五位の者を「正親(おほきみ)ノ大夫(たいふ)」という。或る「正親(おほきみ)ノ大夫(たいふ)」がまだ若年だった頃のエピソード。
いつ頃からか、宮仕えしている女性と付き合い始め、夜になるとしばしば女性のもとに通うようになった。とはいえ連日連夜欠かさずというほど熱心ではなく気まぐれなもので、或る日、久しぶりに夜を共にしたいと思い、いつも二人の仲立ちをしている連絡役の女性に「今夜は彼女に会いたいから準備しておいてほしい」と言ってみた。すると仲立ちの女性はいう。「はい、それは簡単です。でも今夜は数年来の知人が地方から我が家に訪問してきて泊まっていくので、殿においでいただいたとしても、しかるべき部屋が空いておりません。困りました」。
「呼(よび)奉ラム事ハ安ケレドモ、今夜、此ノ宿ニ年来(としごろ)知(しり)タル田舎人(ゐなかびと)ノ詣来(まうでき)テ宿(やどり)テ候(さぶら)ヘバ、可御(おはすべ)キ所ノ不候(さぶらは)ヌガ侘(わび)シキ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・118」岩波書店)
正親大夫は「本当か?」と思いつつ仲立ちの女性の家を覗き込んでみる。なるほど馬や下人らが沢山入っている様子。男女が身を隠して逢い引きする所など見当たらない。女性は考え込んでいたが、いい方法を思いついた、という。「ここから西へ行くと無人のお堂があります。今夜はそこへおいで下さいませ」。
「此ノ西ノ方ニ、人モ無キ堂候フ。今夜許(こよひばかり)、其ノ堂ニ御(おはし)マセ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・118」岩波書店)
言うと仲立ちの女性は近くの家まで走って正親大夫の愛人の手を引いて連れてきた。一行は西方向へ100メートルあまり、連れ立って歩くと古いお堂がある。仲立ちの女性はお堂の扉を開けて自分の家から持ってきた畳一畳を敷き、明け方にはまた参りますといい、二人を残して帰っていった。正親大夫とその愛人は畳の上に横になり、愛の囁き合いに耽っているとそのうち夜も更けてきた。一人の従者も連れてきておらず、無人の古寂れたお堂なので何となく薄気味悪い。
夜中になった。もはや真っ暗。すると堂内の本尊の背後から灯火の灯りが仄と揺らめき出てきた。誰か人がいるのかと思って見ていると、一人の童女が灯火を持って現われ、本尊の仏像に奉げて置いた。
「夜中許(よなかばかり)ニモ成(なり)ヤシヌラムト思フ程ニ、堂ノ後(うしろ)ノ方(かた)ニ火ノ光リ出来(いでき)タリ。人ノ有(あり)ケルニコソト思フ程ニ、女(め)ノ童(わらは)一人、火ヲ灯(とも)シテ持来(もてき)テ、仏ノ御前(まへ)ト思(おぼ)シキ所ニ居(すゑ)ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)
正親大夫は何たる異例の事態か、えらいことになったと、ぞっとしていると本尊の背後から独りの女房が出現した。女房はしばらく脇を向いて考え込むような風情で正親大夫を見ていたかと思うと、こういう。ここに入ってきておられるのは一体どのようなお方であろうか。けしからぬことと言わねばならない。私はこの堂の主(あるじ)である。主(あるじ)に向けて何の断わりもなく、そなた、なぜここに居るわけなのか。この堂はこれまで誰一人、宿に使ったことなど一度としてない。
「此(ここ)ニハ何(いか)ナル人ノ入御(いりおは)シタルゾ。糸奇怪(いときくわい)ナル事也。丸(まろ)ハ此(ここ)ノ主(あるじ)也。何(いか)デカ主モ不云(いは)ズシテ、此(かく)ハ来(きた)レル。此(ここ)ニハ、古(いにしへ)ヨリ人来(きた)リ宿ル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)
この場合の、「糸奇怪(いときくわい)ナル事」は「けしからぬぬしの心ぎはかな」(「宇治拾遺物語・巻第十四・二・P.325」角川文庫)、というに近い。「けしからぬことよのう、おぬしの心構えは」。
突然出現した妖怪〔鬼・ものの怪〕と思われる女房の凄まじい気迫に、正親大夫は押し潰されそうな恐怖で一杯になる。そしていう。そういうこととは露知らずとんだ失礼を致しました。女房は命じる。ただちに出て行かれよ。でないと、必ず、そなたの為にならぬと思え。
「速(すみやか)ニ疾(と)ク出給(いでたま)ヒネ。不出給(いでたまは)ズハ悪(あし)カリナム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)
慌てた正親大夫は愛人の手を引っ張り上げ外へ出ようとする。が、愛人は既に汗びっしょりで起き上がることができない。正親大夫は無理にでも起き上がらせようと自分の肩に寄り掛からせて脱出を試みる。立ち上がれなくなっている愛人を、それでも何とか家まで連れ運び門を叩いて開けさせ帰宅させた。正親大夫は自邸へ帰った。
「女、汗水(あせみづ)ニ成(なり)テ否不立(えたて)ヌヲ、強(あながち)ニ引立(ひきたて)テ出(いで)ヌ。男ノ肩ニ引懸(ひきかけ)テ行(ゆき)ケレドモ、否不歩(えあゆま)ヌヲ構(かまへ)テ主(あるじ)ノ家ノ門(かど)ニ将行(ゐてゆき)テ、門ヲ叩(たたき)て、女ヲバ入レツ。正親ノ大夫ハ家ニ返(かへり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)
自邸へ帰った正親大夫は髪の毛が逆立つような恐怖を拭いきれず、体調も崩れてきたようで、翌日はほぼ一日臥せっていた。夕方頃、昨夜の愛人の衰弱し切った姿が気がかりになってきた。そこで様子を聞きに仲立ちの女性の家を訪ねた。女性はいう。あのお方は帰宅されてからまるで魂が抜けたかように、ただ死んでいくばかりの様相で衰弱が激しく、どんなことがあったのかと人に問われても何一つお答えになられません。皆びっくりしてしまって。彼女は身寄りも知人もない方で、さらに回復の見込みもない様子。ともかく死穢を避けようと外に仮小屋を作ってそこへ連れ出したところ、しばらくするとすうっと息を引き取られました。
「其ノ人ハ、返リ給(たまひ)ケルヨリ物モ不思(おぼ)エズ、只死(しに)ニ死(し)ヌル様(やう)ニ見(みえ)ケレバ、『何(いか)ナル事ノ有(あり)ツルゾ』ナド人々被問(とはれ)ケレドモ、物ヲダニ否不宣(のたまは)ザリケレバ、主(あるじ)モ驚(おどろ)キ騒(さわぎ)て、知ル人モ無キ人ニテ有レバ、仮屋(かりや)ヲ造(つくり)テ被出(いだされ)タリケレバ、程モ無ク死(しに)給ヒニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・120」岩波書店)
そう聞かされた正親大夫はいう。実はあのお堂に鬼が出た。ひどい話だ。しかし仲立ちの女性は自分もそんな話はついぞ知らなかったと驚くばかりだった。ところで妖怪〔鬼・ものの怪〕はなぜ「女房姿」で出現したのか。というより、そもそも妖怪〔鬼・ものの怪〕は他の何物にでも変容可能であり、その点で貨幣と異なるところはまるでない。この説話でもそれを立証しにわざわざ登場してきたかのように見えるのはどうしてだろう。
ちなみに後日譚が書かれている。「其ノ堂ハ、于今有(いまにあり)トカヤ。七条大宮(おおみや)ノ辺(わたり)ニ有(あり)トゾ聞ク」。今の京都市下京区七条大宮交差点に立ってみる。すぐそばには西本願寺の広大な敷地が見える。古寂れた堂はもはやどこにも見当たらない。
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