前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
宮中で湯沐・灯火・薪油・庭の清掃などを司る「主殿寮(とのもりづかさ・とのもれう)」。「源氏物語」成立から約百年後、「源章家(みなもとのあきいへ)」という人物が主殿寮(とのもりづかさ・とのもれう)長官になった。主殿寮は大内裏の東北角に設置された「茶園」の西側に位置した。今の京都市上京区一条通(いちじょうとおり)と大宮通(おおみやとおり)との交差点から西へ向かい智恵光院通(ちえのこういんとおり)までの間の南側、鏡石町(かがみいしちょう)付近にあったと考えられる。
源章家(みなもとのあきいへ)が「肥後(ひご)ノ守(かみ)」を務めていた頃のエピソード。肥後(ひご)は今の熊本県。章家(あきいえ)にはまだ幼い男の子がいたが重病を患っており家族ら周囲はたいへん気遣っていた。そんな折、章家は秋の名物である木鷹狩(こだかがり)に出かけた。近い身内の者が重病に陥っている時には慎むべきとされている殺生行為にわざわざ出かけるなど、付き従う警護の武士や同行する親族にすれば、なんと忌まわしいことかと不吉な感情を覚えた。そう思っている間もなく男の子は死んでしまった。母は胸の潰れる思いでもはや消えいってしまわんばかり。男の子の死体から片時も離れず、気持ちは折れてしまいただただ泣き臥せっていた。数年来仕えている女官や武士らも男の子が生きていた頃から見馴れた、無邪気にはしゃいで可愛らしく思われた様子が脳裏をよぎり、堪えきれずに嗚咽さえ漏らしていた。ところが父の章家は幼児の死を見届けただけで、もうその日一日すら置くことなくさっさと狩りに出かけた。その姿を見ていた家中の者は、何を言っても仕方のない、恥一つ知らぬ無慈悲な人だと諦めていた。
「肥後(ひご)ノ守(かみ)ニテ有ケル時、其ノ国ニ有ケルニ、極(いみじ)ク愛シケル男子有(あり)ケルガ、日来(ひごろ)重ク煩(わずらひ)ケレバ、此レヲ歎キ繚(あつかひ)ケル程ニ、小鷹狩(こだかがり)シニ出(いで)ケルヲダニ、郎等(らうどう)・眷属(くゑんぞく)、世ニ不知(しら)ヌ疎(う)キ事ニ思ヒ云ケルニ、其ノ子遂ニ失(うせ)ニケレバ、其ノ母死入(しにいり)タル如クニテ、其ノ死(しに)タル児(ちご)ノ傍(かたはら)ヲ不離(はなれ)ズシテ、泣沈(なきしづ)ミテ臥(ふし)タリケリ。女房・侍(さぶらひ)ナドモ、年来(としごろ)其ノ児ヲ見馴(みなれ)テ、心バヘノ厳(いつくし)カリケルヲ思ヒ出(いで)ツツ、難忍(しのびがた)ク泣キ迷(まど)ヒ合ヘリケルニ、章家ハ、児死(しに)ヌト見置テ、其ノ日ヲダニ不過(すぐ)サズ、狩ニ出テ行ニケレバ、此レヲ見(み)ト見ケル者ハ、云フ甲斐(かひ)無ク慙(はぢ)無キ事ニナム思ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.354」岩波書店)
高名な僧侶もそれを見て、肥後守の機嫌をそこねないよう慎重な言葉遣いで何か進言しようと思うものの、かといって急に妙案が思い浮かぶわけもない。ただ、尋常一様の心ばえではない、妖怪〔鬼・ものの怪〕に取り憑かれてらっしゃるのでしょうと言えば言えるに過ぎなかった。
ところで正月十八日は観世音菩薩に詣る縁日。観音が衆生の前に姿を現わす日とされ、人々はこの日に願を掛けて祈った。章家も従者を引き連れて寺院に詣でる。その途中、章家は、野焼きの後に少しばかり残っている草原を見つけた。きっと菟が隠れているはずだと言い、従者に命じて狩らせてみたところ、菟の子を六匹捕獲できた。それを見た従者らはいう。今日は年始の十八日。観音詣の日でございましょう。せめて帰途ならましとはいうものの、今はならぬものです。
「年ノ始メノ十八日ニ御物詣(ものまうで)セサセ給フニ、此レ不候(さぶらふ)マジキ事也。責(せめ)テハ還向(ぐゑんかう)ニモ非(あら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.355」岩波書店)
だが章家は聞かない。自ら野に火を放ち、菟が飛び出してくるのを待った。しかし見つかったのはついさっき捕らえた子菟の親と思われる菟一匹。従者に打ち殺させた。生捕りにした六匹の子菟はそれぞれ従者らに持たせて置き、参詣を終えて官舎へ帰った。さて、官舎に設けてある武士の詰所の入り口に「平(たいら)ナル石ノ大(おほき)ナル」=「沓(くつ)脱ぎの石」が置いてある。章家はその石の上に立ち、観音参詣の際に捕獲した六匹の子菟を持って来させると両手でひと抱えにして「いい子だ、いい子だ」とあやしている。見ていると、年頭の「走リ者」=「鹿、猪、菟など」をこのまま生かしておいて喰ってしまわないのは縁起がよくない、と言い出すやいなや詰所入口の大きな石に六匹の子菟を打ちつけ殺し潰してしまった。
「『年ノ始メノ走リ者ヲ生(いけ)テ、不食(くは)ざらむは忌々(いまいま)シキ事也』ト云フママニ、其ノ平ナル石ニ、六ツノ菟ノ子ヲ一度ニ打(うち)ヒシゲテケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.355~356」岩波書店)
従者らは常日頃から主人の狩りを面白がって囃し立てたりしていたが、この時ばかりはひどい痛々しさを覚え、みんなとっとと立ち去ってしまった。肥後守はひと抱えにした六匹の子菟をその日のうちに焼き鳥にして残さずたいらげた。
さらに。肥後国に「飽田(あきた)」という狩猟場が設けてあった。「飽田(あきた)」は今の熊本県熊本市の一部に編入され消滅。かつて「飽託郡(ほうたぐん)」といった。狩猟場としては良好なのだが元々は倒木が多く、大小取り混ぜて石がごろごろ転がっていた。そのままでは馬を上手く走らせることができない。十頭の鹿が出てきたとしても必ず六、七頭は逃げられてしまう。そこで肥後国から三千人の人員を集めて倒木を撤去し石を拾い高低差を滑らかに整備し直した。また、他の山々から鹿を大量に追わせて整備した狩猟場へ駆り立てた。すると十頭の鹿が出てきた場合、今度は十頭すべてを狩り獲ることができるようになった。章家はたまらず悦び溢れ、狩れる限りの鹿を無数に狩り獲った。
「此ノ守、国ノ人ヲ発(おこ)シテ三千人許(ばかり)ヲ以テ、其ノ石ヲ皆拾(ひろ)ヒ去(のけ)サセテ、窪(くぼ)ミタル所ニハ其ノ石ヲイ掘(ほ)リ埋(うづみ)テ、上ニ土ヲ直(うるは)シク置(おか)セ、高キ所ヲバ、馬ノ走リ不当(あたる)マジキ程ニ引(ひか)セナドシテ、其ノ後、異山々(ことやまやま)ノ鹿ヲ、多(おほく)ノ人ヲ集メテ其ノ山ニ追ヒ懸(かけ)ケレバ、十出来(いでく)ル鹿ノ、一ツ遁(のがる)ル事無カリケリ。然レバ、守極(いみじ)ク喜ビテ、員不知(かずしら)ヌ鹿ヲ取ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.356」岩波書店)
肥後国の人々には捕らえた鹿の皮をなめして献上するよう命じ、一方章家は鹿の肉ばかりを肥後国庁公舎の南の庭一面に隙間なくぎゅうぎゅう詰めに並べ置かせた。肉はまだまだ集まったのでさらに東の庭にも隈なく並べ置かせた。この作業は休日なく続けられた。人々はそれを「罪」と見た。
「其ノ鹿ノ皮共ヲバ、国ノ物共ニ、『出(いだ)シ奉レ』トテ預ケテ、鹿ノ身ノ限(かぎり)ヲ国府ニ運バセテ、館(たち)ノ南面(みなみおもて)ノ遥々(はるばる)ト広クテ木モ無キ庭ニ、隙(ひま)モ無ク並ベ置(おか)セタリケレバ、其レニモ置キ余リテ、東面ノ庭ニゾ置タリケル。此様(かやう)ニ昼夜朝暮(ちうやてうぼ)ニ緩(たゆ)ム月日モ無ク、罪ヲナム造ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.356」岩波書店)
ところで、章家の行為は警護の武士や家族らからも忌まわしく思われるほど「罪」なものだったのだろうか。なるほど当時の価値観を妥当させて考えてみれば確かにそう見えはしたろう。だが章家は自分自身に向けて集中される「罪」について、その「罪」が重ければ重いほど「罪」ゆえにますます「快感」に感じていることは明らかと言わねばならない。宮廷から狩猟専属の人員として指定されたわけでもない。また、その種の特異な嗜好性の持ち主として突出していたわけでもおそらくない。例えばニーチェの場合、古代ギリシアから近代にかけて哲学者としてだけでなく歴史家として膨大な知識を持っていた。ニーチェから見れば苦しんで考え込むまでもない凡庸な人間の特徴の一つに分類される。
「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫)
次のようにも述べる。「狂気」と述べているがニーチェにすれば何ら「狂気」ではない。ただ、世間では広く知られていないため、そう書いているに過ぎない。
「そのほかにも狂気がある。それは行為の《まえ》の狂気である。ああ、君たちはそのような狂気をもった魂の奥に十分深く穿(うが)ち入ることがなかったのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・青白い犯罪者・P.57」中公文庫)
とはいえ、わかりにくい文章なのも確か。それについてフロイトはこう論じている。
「ひどく逆説的に聞こえるかもしれないが、私はこう主張せざるをえない、つまり、罪の意識のほうが犯行よりも前に存在していたのである。罪の意識が犯行から生じたのではなく、逆に、犯行が罪の意識から生じたのだ、と。だから、これらの犯罪者たちを、罪の意識からの犯罪者と名づけることは、きわめて正しいことだと思う」(フロイト「精神分析的研究からみた二、三の性格類型」『フロイト著作集6・P.134』人文書院)
事実上の罪など何一つ犯されてはいない。だが「罪の意識」はただ単なる観念に過ぎないにもかかわらず、いったん頭の中へ潜り込んでくるといつまで経ってもまとわりついて離れなくなる。どうすべきか。意識に上ってきた「罪の観念」を実行に移し現実化することで気持ちがすっきりと落ち着く。人間にはもともとそういう傾向がある。それを「マゾヒズム」と呼ぶことにしよう。ドゥルーズはこの種の「マゾヒズム」に「ユーモア」を、「服従のうちにひそむ嘲弄」を、「逆説的なしかたで発見」された快感を思う存分舐め尽くし身に沁みて味わい尽くす態度を、抽出している。
「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫)
というふうに実際、なおかつ徹底的に馬鹿にされているのは誰だろうか。考えてもみよう。著しく釣り合いが取れていない《かのように》見えて、実を言うと、極めて妥当な等価性が秘められてはいないだろうか。とすれば、この上ない嘲弄を込めて今の日本政府を眺め下ろすこともできない相談ではない。
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宮中で湯沐・灯火・薪油・庭の清掃などを司る「主殿寮(とのもりづかさ・とのもれう)」。「源氏物語」成立から約百年後、「源章家(みなもとのあきいへ)」という人物が主殿寮(とのもりづかさ・とのもれう)長官になった。主殿寮は大内裏の東北角に設置された「茶園」の西側に位置した。今の京都市上京区一条通(いちじょうとおり)と大宮通(おおみやとおり)との交差点から西へ向かい智恵光院通(ちえのこういんとおり)までの間の南側、鏡石町(かがみいしちょう)付近にあったと考えられる。
源章家(みなもとのあきいへ)が「肥後(ひご)ノ守(かみ)」を務めていた頃のエピソード。肥後(ひご)は今の熊本県。章家(あきいえ)にはまだ幼い男の子がいたが重病を患っており家族ら周囲はたいへん気遣っていた。そんな折、章家は秋の名物である木鷹狩(こだかがり)に出かけた。近い身内の者が重病に陥っている時には慎むべきとされている殺生行為にわざわざ出かけるなど、付き従う警護の武士や同行する親族にすれば、なんと忌まわしいことかと不吉な感情を覚えた。そう思っている間もなく男の子は死んでしまった。母は胸の潰れる思いでもはや消えいってしまわんばかり。男の子の死体から片時も離れず、気持ちは折れてしまいただただ泣き臥せっていた。数年来仕えている女官や武士らも男の子が生きていた頃から見馴れた、無邪気にはしゃいで可愛らしく思われた様子が脳裏をよぎり、堪えきれずに嗚咽さえ漏らしていた。ところが父の章家は幼児の死を見届けただけで、もうその日一日すら置くことなくさっさと狩りに出かけた。その姿を見ていた家中の者は、何を言っても仕方のない、恥一つ知らぬ無慈悲な人だと諦めていた。
「肥後(ひご)ノ守(かみ)ニテ有ケル時、其ノ国ニ有ケルニ、極(いみじ)ク愛シケル男子有(あり)ケルガ、日来(ひごろ)重ク煩(わずらひ)ケレバ、此レヲ歎キ繚(あつかひ)ケル程ニ、小鷹狩(こだかがり)シニ出(いで)ケルヲダニ、郎等(らうどう)・眷属(くゑんぞく)、世ニ不知(しら)ヌ疎(う)キ事ニ思ヒ云ケルニ、其ノ子遂ニ失(うせ)ニケレバ、其ノ母死入(しにいり)タル如クニテ、其ノ死(しに)タル児(ちご)ノ傍(かたはら)ヲ不離(はなれ)ズシテ、泣沈(なきしづ)ミテ臥(ふし)タリケリ。女房・侍(さぶらひ)ナドモ、年来(としごろ)其ノ児ヲ見馴(みなれ)テ、心バヘノ厳(いつくし)カリケルヲ思ヒ出(いで)ツツ、難忍(しのびがた)ク泣キ迷(まど)ヒ合ヘリケルニ、章家ハ、児死(しに)ヌト見置テ、其ノ日ヲダニ不過(すぐ)サズ、狩ニ出テ行ニケレバ、此レヲ見(み)ト見ケル者ハ、云フ甲斐(かひ)無ク慙(はぢ)無キ事ニナム思ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.354」岩波書店)
高名な僧侶もそれを見て、肥後守の機嫌をそこねないよう慎重な言葉遣いで何か進言しようと思うものの、かといって急に妙案が思い浮かぶわけもない。ただ、尋常一様の心ばえではない、妖怪〔鬼・ものの怪〕に取り憑かれてらっしゃるのでしょうと言えば言えるに過ぎなかった。
ところで正月十八日は観世音菩薩に詣る縁日。観音が衆生の前に姿を現わす日とされ、人々はこの日に願を掛けて祈った。章家も従者を引き連れて寺院に詣でる。その途中、章家は、野焼きの後に少しばかり残っている草原を見つけた。きっと菟が隠れているはずだと言い、従者に命じて狩らせてみたところ、菟の子を六匹捕獲できた。それを見た従者らはいう。今日は年始の十八日。観音詣の日でございましょう。せめて帰途ならましとはいうものの、今はならぬものです。
「年ノ始メノ十八日ニ御物詣(ものまうで)セサセ給フニ、此レ不候(さぶらふ)マジキ事也。責(せめ)テハ還向(ぐゑんかう)ニモ非(あら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.355」岩波書店)
だが章家は聞かない。自ら野に火を放ち、菟が飛び出してくるのを待った。しかし見つかったのはついさっき捕らえた子菟の親と思われる菟一匹。従者に打ち殺させた。生捕りにした六匹の子菟はそれぞれ従者らに持たせて置き、参詣を終えて官舎へ帰った。さて、官舎に設けてある武士の詰所の入り口に「平(たいら)ナル石ノ大(おほき)ナル」=「沓(くつ)脱ぎの石」が置いてある。章家はその石の上に立ち、観音参詣の際に捕獲した六匹の子菟を持って来させると両手でひと抱えにして「いい子だ、いい子だ」とあやしている。見ていると、年頭の「走リ者」=「鹿、猪、菟など」をこのまま生かしておいて喰ってしまわないのは縁起がよくない、と言い出すやいなや詰所入口の大きな石に六匹の子菟を打ちつけ殺し潰してしまった。
「『年ノ始メノ走リ者ヲ生(いけ)テ、不食(くは)ざらむは忌々(いまいま)シキ事也』ト云フママニ、其ノ平ナル石ニ、六ツノ菟ノ子ヲ一度ニ打(うち)ヒシゲテケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.355~356」岩波書店)
従者らは常日頃から主人の狩りを面白がって囃し立てたりしていたが、この時ばかりはひどい痛々しさを覚え、みんなとっとと立ち去ってしまった。肥後守はひと抱えにした六匹の子菟をその日のうちに焼き鳥にして残さずたいらげた。
さらに。肥後国に「飽田(あきた)」という狩猟場が設けてあった。「飽田(あきた)」は今の熊本県熊本市の一部に編入され消滅。かつて「飽託郡(ほうたぐん)」といった。狩猟場としては良好なのだが元々は倒木が多く、大小取り混ぜて石がごろごろ転がっていた。そのままでは馬を上手く走らせることができない。十頭の鹿が出てきたとしても必ず六、七頭は逃げられてしまう。そこで肥後国から三千人の人員を集めて倒木を撤去し石を拾い高低差を滑らかに整備し直した。また、他の山々から鹿を大量に追わせて整備した狩猟場へ駆り立てた。すると十頭の鹿が出てきた場合、今度は十頭すべてを狩り獲ることができるようになった。章家はたまらず悦び溢れ、狩れる限りの鹿を無数に狩り獲った。
「此ノ守、国ノ人ヲ発(おこ)シテ三千人許(ばかり)ヲ以テ、其ノ石ヲ皆拾(ひろ)ヒ去(のけ)サセテ、窪(くぼ)ミタル所ニハ其ノ石ヲイ掘(ほ)リ埋(うづみ)テ、上ニ土ヲ直(うるは)シク置(おか)セ、高キ所ヲバ、馬ノ走リ不当(あたる)マジキ程ニ引(ひか)セナドシテ、其ノ後、異山々(ことやまやま)ノ鹿ヲ、多(おほく)ノ人ヲ集メテ其ノ山ニ追ヒ懸(かけ)ケレバ、十出来(いでく)ル鹿ノ、一ツ遁(のがる)ル事無カリケリ。然レバ、守極(いみじ)ク喜ビテ、員不知(かずしら)ヌ鹿ヲ取ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.356」岩波書店)
肥後国の人々には捕らえた鹿の皮をなめして献上するよう命じ、一方章家は鹿の肉ばかりを肥後国庁公舎の南の庭一面に隙間なくぎゅうぎゅう詰めに並べ置かせた。肉はまだまだ集まったのでさらに東の庭にも隈なく並べ置かせた。この作業は休日なく続けられた。人々はそれを「罪」と見た。
「其ノ鹿ノ皮共ヲバ、国ノ物共ニ、『出(いだ)シ奉レ』トテ預ケテ、鹿ノ身ノ限(かぎり)ヲ国府ニ運バセテ、館(たち)ノ南面(みなみおもて)ノ遥々(はるばる)ト広クテ木モ無キ庭ニ、隙(ひま)モ無ク並ベ置(おか)セタリケレバ、其レニモ置キ余リテ、東面ノ庭ニゾ置タリケル。此様(かやう)ニ昼夜朝暮(ちうやてうぼ)ニ緩(たゆ)ム月日モ無ク、罪ヲナム造ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.356」岩波書店)
ところで、章家の行為は警護の武士や家族らからも忌まわしく思われるほど「罪」なものだったのだろうか。なるほど当時の価値観を妥当させて考えてみれば確かにそう見えはしたろう。だが章家は自分自身に向けて集中される「罪」について、その「罪」が重ければ重いほど「罪」ゆえにますます「快感」に感じていることは明らかと言わねばならない。宮廷から狩猟専属の人員として指定されたわけでもない。また、その種の特異な嗜好性の持ち主として突出していたわけでもおそらくない。例えばニーチェの場合、古代ギリシアから近代にかけて哲学者としてだけでなく歴史家として膨大な知識を持っていた。ニーチェから見れば苦しんで考え込むまでもない凡庸な人間の特徴の一つに分類される。
「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫)
次のようにも述べる。「狂気」と述べているがニーチェにすれば何ら「狂気」ではない。ただ、世間では広く知られていないため、そう書いているに過ぎない。
「そのほかにも狂気がある。それは行為の《まえ》の狂気である。ああ、君たちはそのような狂気をもった魂の奥に十分深く穿(うが)ち入ることがなかったのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・青白い犯罪者・P.57」中公文庫)
とはいえ、わかりにくい文章なのも確か。それについてフロイトはこう論じている。
「ひどく逆説的に聞こえるかもしれないが、私はこう主張せざるをえない、つまり、罪の意識のほうが犯行よりも前に存在していたのである。罪の意識が犯行から生じたのではなく、逆に、犯行が罪の意識から生じたのだ、と。だから、これらの犯罪者たちを、罪の意識からの犯罪者と名づけることは、きわめて正しいことだと思う」(フロイト「精神分析的研究からみた二、三の性格類型」『フロイト著作集6・P.134』人文書院)
事実上の罪など何一つ犯されてはいない。だが「罪の意識」はただ単なる観念に過ぎないにもかかわらず、いったん頭の中へ潜り込んでくるといつまで経ってもまとわりついて離れなくなる。どうすべきか。意識に上ってきた「罪の観念」を実行に移し現実化することで気持ちがすっきりと落ち着く。人間にはもともとそういう傾向がある。それを「マゾヒズム」と呼ぶことにしよう。ドゥルーズはこの種の「マゾヒズム」に「ユーモア」を、「服従のうちにひそむ嘲弄」を、「逆説的なしかたで発見」された快感を思う存分舐め尽くし身に沁みて味わい尽くす態度を、抽出している。
「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫)
というふうに実際、なおかつ徹底的に馬鹿にされているのは誰だろうか。考えてもみよう。著しく釣り合いが取れていない《かのように》見えて、実を言うと、極めて妥当な等価性が秘められてはいないだろうか。とすれば、この上ない嘲弄を込めて今の日本政府を眺め下ろすこともできない相談ではない。
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