前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
「肥後国(ひごのくに)」(現・熊本県)の或るところに鷲小屋を設置して飼い育てている者がいた。家の前には榎の大木があった。古来、榎の大木は聖なる樹木とされていたが、そこに「赤単(あかひとへ)」の鬼らしき物が出現した説話については以前述べた。下をクリック↓
「熊楠による熊野案内/紀州と山ノ神の消息」
或る日、神木とされる榎の大木の枝を伝って2メートル半ば近い蛇が這い降りてきた。蛇は鷲小屋の上でとぐろを巻き、頸(くび)を下へ延ばしながら小屋の中の鷲の様子を窺っていた。鷲はよく居眠っているらしい。蛇は小屋の柱をそろそろ伝いこっそり近づくと、居眠っている隙を見て鷲を呑み込み始めた。蛇はまず、鷲の嘴(くちばし)をその根元まで呑み込む。次に尾を使って鷲の頸(くび)から肩、胴体へとどんどん巻き付き、五、六重にも巻き上げた。さらに鷲の片足を三重巻きにした。
「蛇、頭(かしら)ヲ以テ鷲ノ腹ノ許(もと)ニ口ヲ宛(あ)ツ。然(さ)テ、口ヲ開(あけ)テ鷲ノ嘴(くちばし)ヲ本(もと)マデ呑(のみ)テ、尾ヲ以て鷲ノ頸(くび)ヨリ始メテ、身ヲ五(い)ツ辛巻(からまき)六辛巻許(むからまきばかり)巻テ、尚(なほ)残(のこり)タル尾ヲ以テ、鷲ノ片足ヲ三返(みかへ)リ許(ばかり)巻」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十三・P.370~371」岩波書店)
蛇は鷲の胴体が細く縮んでいくほど力強く巻き付き、音もなくじわじわと締め上げていく。ふと鷲は目を見開いてそれに気付いたようだ。既に嘴は根本まで呑み込まれている。が、さしたる反応も示さず再び眠りこけてしまった。
そのうち、気付いた人々が見物しに集まってきた。このままでは鷲があっけなく蛇の餌食になってしまうと心配する者もいれば、逆に蛇が相手だからといって鷲というものはそう簡単に負け去ってしまうことはないと言う者もいる。ともかく様子を見守ることになった。
やがて居眠っていた鷲が再び目を見開いた。そして今度は顔をぶるりと振り回してみると、蛇は鷲の嘴を根本まで呑み込んでさらに引きずり下ろそうとしている。そこで目を覚ました鷲は巻き付かれていない片方の足を上げ、その先端の爪で頸・肩辺りを締め付けている蛇の胴体をぶすりと突き刺して掛け、さっと踏み付けにしてぐいと引っ張った。すると鷲の嘴を呑み込んでいた蛇の頭部がすっぽり抜けた。
「鷲、亦目ヲ見開(みひらき)テ顔ヲ此彼(とかく)篩(ふ)ルニ、嘴ヲ本(もと)マデ呑テ下様(しもざま)ニ引下(ひきさぐ)ル様(やう)ニ為(す)レバ、其ノ時ニ、鷲、不被巻(まかれ)ヌ方(かた)ノ足ヲ持上(もたげ)テ、頸・肩ノ程マデ巻タル蛇ヲ、鷲、爪ヲ以テ爴(つかみ)テ急(き)ト引テ踏(ふま)フレバ、嘴ヲ呑タリツル蛇ノ頭モ抜ケテ離レヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十三・P.371」岩波書店)
次に蛇の尾が巻き付いていたもう一方の足で翼ごと巻き付かれている箇所に爪を引っ掛け引き離し、踏み付けて地面に押さえ込んだ。
「被巻(まかれ)タル片足ヲ持上(もたげ)テ、翼懸(つばさかけ)テ被巻(まかれ)タルヲ亦爴テ、初(はじめ)ノ如ク引テ亦踏(ふま)ヘツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十三・P.371」岩波書店)
そして先にすっぽりと引き抜いた蛇の頭部を爪に引っ掛けて持ち上げ、嘴でぷっつりと切断した。蛇の頭部は30センチほど斬られた格好。
「前(さき)ノ度(たび)爴タリツル所ヲ持上(もたげ)テ、フツリト咋切(くひきり)ツ。然レバ、蛇ノ頭(かしら)ノ方(かた)一尺許(ばかり)切レヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十三・P.371」岩波書店)
さらに鷲の翼をがんじがらめにしている時に鋭い爪で引き離された蛇の胴体もまた噛み切られた。最後に鷲の片方の足に巻き付いていた尾も切り離された。
「後(のち)ニ爴タリツルヲ、足ヲ持上(もたげ)テ亦咋切(くひきり)ツ。然(さ)テ、亦足巻タリツル残(のこり)ヲ亦咋切(くひきり)ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十三・P.371」岩波書店)
蛇は都合「三切(みき)レ」に噛み裂かれて死んだ。鷲はというと一体何があったのかとばかりの風情で、身をぶるっと振るわせて見せると、翼をつくろい尾をささっと打ち振って何気ない様子である。王者の風格を見せ付けられた野次馬連中は「此レハ物ノ王(わう)ナレバ、尚(なほ)魂(たましひ)ハ余(よ)ノ獣(けもの)ニハ殊(こと)ナル者也」と言ってやんやと褒めちぎった。「梁塵秘抄」にこうある。
「鷲(わし)の棲(す)む深山(みやま)には なべての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎(はちまんたろう)は恐ろしや」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・四四四・P.184」新潮社)
「八幡太郎(はちまんたろう)」=「源義家(みなもとのよしいえ)」は同じ源氏でもちょっと違うという意味。それを強調するため「鷲(わし)」のイメージを援用したと考えられている。
だからといって、蛇の価値が下落したというわけではない。むしろ蛇にまつわる無数の神話を利用しつつ、「今昔物語」成立から「梁塵秘抄」成立の時期に世間は大きな価値変動を余儀なくされたという印象操作が必要だった。そのためには蛇は相変わらず神話的世界を代表する象徴として君臨させておかねばならない。けれども、いつも必ず蛇が勝利するとは限らない。鷲もいるだろうと。そういう印象操作は政治的なものだが、この説話は、奈良時代以来の朝廷にせよ新しく台頭してきた新興武士階級にせよ権力維持獲得のためには是非とも必要な本格的武力闘争の時代の幕開けを告げている。そのような歴史に通じていた熊楠はなお蛇に、呪術的なものとは既に異なる価値が付与されていた点に注目する。
熊楠は代表作の一つ「十二支考」所収「蛇に関する民族と伝説・蛇と財宝」の中で「甲子夜話」から次の一説を引いた。「蛇塚(ヘビヅカ)」の中から当時の貨幣「元祐通宝」が出現する。
「丙戌六月二十五日、小石川三百坂にて蛇多く集り、重累して桶の如し。往来の人来を留て皆見る。その辺なる田安殿の小十人高橋百助の子千吉、十四歳なるが云ふには、この如く蛇の重りたる中には必ず宝ありと聞く。いざ取らん迚(とて)、袖をかかげ、右手を累蛇の中にさし入れたるに、肱を没せしが、やや探て果て銭一を獲たり。見るに、篆文の元祐通宝銭なり。是より蛇は散じて行方知れずと。奇異と云べし。予因て『泉貨鑑』に載るものを附出す。追記す。田舎にてはこれを蛇塚(ヘビヅカ)と云て、往々あることとぞ」(「甲子夜話6・巻八十七・四・P.102~103」東洋文庫)
呪術でもなく武力でもなく、ほかならぬ《貨幣》を生む蛇が出てきた。江戸時代。豊臣家の滅亡と共に武士は薄氷の上を歩いて渡るしかない階級へ転倒した。もはや商品資本の時代が幕を開けていた。
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「肥後国(ひごのくに)」(現・熊本県)の或るところに鷲小屋を設置して飼い育てている者がいた。家の前には榎の大木があった。古来、榎の大木は聖なる樹木とされていたが、そこに「赤単(あかひとへ)」の鬼らしき物が出現した説話については以前述べた。下をクリック↓
「熊楠による熊野案内/紀州と山ノ神の消息」
或る日、神木とされる榎の大木の枝を伝って2メートル半ば近い蛇が這い降りてきた。蛇は鷲小屋の上でとぐろを巻き、頸(くび)を下へ延ばしながら小屋の中の鷲の様子を窺っていた。鷲はよく居眠っているらしい。蛇は小屋の柱をそろそろ伝いこっそり近づくと、居眠っている隙を見て鷲を呑み込み始めた。蛇はまず、鷲の嘴(くちばし)をその根元まで呑み込む。次に尾を使って鷲の頸(くび)から肩、胴体へとどんどん巻き付き、五、六重にも巻き上げた。さらに鷲の片足を三重巻きにした。
「蛇、頭(かしら)ヲ以テ鷲ノ腹ノ許(もと)ニ口ヲ宛(あ)ツ。然(さ)テ、口ヲ開(あけ)テ鷲ノ嘴(くちばし)ヲ本(もと)マデ呑(のみ)テ、尾ヲ以て鷲ノ頸(くび)ヨリ始メテ、身ヲ五(い)ツ辛巻(からまき)六辛巻許(むからまきばかり)巻テ、尚(なほ)残(のこり)タル尾ヲ以テ、鷲ノ片足ヲ三返(みかへ)リ許(ばかり)巻」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十三・P.370~371」岩波書店)
蛇は鷲の胴体が細く縮んでいくほど力強く巻き付き、音もなくじわじわと締め上げていく。ふと鷲は目を見開いてそれに気付いたようだ。既に嘴は根本まで呑み込まれている。が、さしたる反応も示さず再び眠りこけてしまった。
そのうち、気付いた人々が見物しに集まってきた。このままでは鷲があっけなく蛇の餌食になってしまうと心配する者もいれば、逆に蛇が相手だからといって鷲というものはそう簡単に負け去ってしまうことはないと言う者もいる。ともかく様子を見守ることになった。
やがて居眠っていた鷲が再び目を見開いた。そして今度は顔をぶるりと振り回してみると、蛇は鷲の嘴を根本まで呑み込んでさらに引きずり下ろそうとしている。そこで目を覚ました鷲は巻き付かれていない片方の足を上げ、その先端の爪で頸・肩辺りを締め付けている蛇の胴体をぶすりと突き刺して掛け、さっと踏み付けにしてぐいと引っ張った。すると鷲の嘴を呑み込んでいた蛇の頭部がすっぽり抜けた。
「鷲、亦目ヲ見開(みひらき)テ顔ヲ此彼(とかく)篩(ふ)ルニ、嘴ヲ本(もと)マデ呑テ下様(しもざま)ニ引下(ひきさぐ)ル様(やう)ニ為(す)レバ、其ノ時ニ、鷲、不被巻(まかれ)ヌ方(かた)ノ足ヲ持上(もたげ)テ、頸・肩ノ程マデ巻タル蛇ヲ、鷲、爪ヲ以テ爴(つかみ)テ急(き)ト引テ踏(ふま)フレバ、嘴ヲ呑タリツル蛇ノ頭モ抜ケテ離レヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十三・P.371」岩波書店)
次に蛇の尾が巻き付いていたもう一方の足で翼ごと巻き付かれている箇所に爪を引っ掛け引き離し、踏み付けて地面に押さえ込んだ。
「被巻(まかれ)タル片足ヲ持上(もたげ)テ、翼懸(つばさかけ)テ被巻(まかれ)タルヲ亦爴テ、初(はじめ)ノ如ク引テ亦踏(ふま)ヘツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十三・P.371」岩波書店)
そして先にすっぽりと引き抜いた蛇の頭部を爪に引っ掛けて持ち上げ、嘴でぷっつりと切断した。蛇の頭部は30センチほど斬られた格好。
「前(さき)ノ度(たび)爴タリツル所ヲ持上(もたげ)テ、フツリト咋切(くひきり)ツ。然レバ、蛇ノ頭(かしら)ノ方(かた)一尺許(ばかり)切レヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十三・P.371」岩波書店)
さらに鷲の翼をがんじがらめにしている時に鋭い爪で引き離された蛇の胴体もまた噛み切られた。最後に鷲の片方の足に巻き付いていた尾も切り離された。
「後(のち)ニ爴タリツルヲ、足ヲ持上(もたげ)テ亦咋切(くひきり)ツ。然(さ)テ、亦足巻タリツル残(のこり)ヲ亦咋切(くひきり)ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十三・P.371」岩波書店)
蛇は都合「三切(みき)レ」に噛み裂かれて死んだ。鷲はというと一体何があったのかとばかりの風情で、身をぶるっと振るわせて見せると、翼をつくろい尾をささっと打ち振って何気ない様子である。王者の風格を見せ付けられた野次馬連中は「此レハ物ノ王(わう)ナレバ、尚(なほ)魂(たましひ)ハ余(よ)ノ獣(けもの)ニハ殊(こと)ナル者也」と言ってやんやと褒めちぎった。「梁塵秘抄」にこうある。
「鷲(わし)の棲(す)む深山(みやま)には なべての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎(はちまんたろう)は恐ろしや」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・四四四・P.184」新潮社)
「八幡太郎(はちまんたろう)」=「源義家(みなもとのよしいえ)」は同じ源氏でもちょっと違うという意味。それを強調するため「鷲(わし)」のイメージを援用したと考えられている。
だからといって、蛇の価値が下落したというわけではない。むしろ蛇にまつわる無数の神話を利用しつつ、「今昔物語」成立から「梁塵秘抄」成立の時期に世間は大きな価値変動を余儀なくされたという印象操作が必要だった。そのためには蛇は相変わらず神話的世界を代表する象徴として君臨させておかねばならない。けれども、いつも必ず蛇が勝利するとは限らない。鷲もいるだろうと。そういう印象操作は政治的なものだが、この説話は、奈良時代以来の朝廷にせよ新しく台頭してきた新興武士階級にせよ権力維持獲得のためには是非とも必要な本格的武力闘争の時代の幕開けを告げている。そのような歴史に通じていた熊楠はなお蛇に、呪術的なものとは既に異なる価値が付与されていた点に注目する。
熊楠は代表作の一つ「十二支考」所収「蛇に関する民族と伝説・蛇と財宝」の中で「甲子夜話」から次の一説を引いた。「蛇塚(ヘビヅカ)」の中から当時の貨幣「元祐通宝」が出現する。
「丙戌六月二十五日、小石川三百坂にて蛇多く集り、重累して桶の如し。往来の人来を留て皆見る。その辺なる田安殿の小十人高橋百助の子千吉、十四歳なるが云ふには、この如く蛇の重りたる中には必ず宝ありと聞く。いざ取らん迚(とて)、袖をかかげ、右手を累蛇の中にさし入れたるに、肱を没せしが、やや探て果て銭一を獲たり。見るに、篆文の元祐通宝銭なり。是より蛇は散じて行方知れずと。奇異と云べし。予因て『泉貨鑑』に載るものを附出す。追記す。田舎にてはこれを蛇塚(ヘビヅカ)と云て、往々あることとぞ」(「甲子夜話6・巻八十七・四・P.102~103」東洋文庫)
呪術でもなく武力でもなく、ほかならぬ《貨幣》を生む蛇が出てきた。江戸時代。豊臣家の滅亡と共に武士は薄氷の上を歩いて渡るしかない階級へ転倒した。もはや商品資本の時代が幕を開けていた。
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