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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/国道1号線外伝・必殺鈴鹿峠

2021年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

熊楠は述べている。

「三重県阿田和(あたわ)の村社、引作(ひきつくり)神社に、周囲二丈の大杉、また全国一という目通り周囲四丈三尺すなわち直径一丈三尺余の大樟あり。これを伐りて三千円とかに売らんとて合祀を迫り、わずか五十余戸の村民これを嘆き、規定の神殿を建て、またさらに二千余円を積み立てしもなお脅迫止まず。合祀を肯(がえ)んぜずんば刑罰を加うべしとの言で、止むを得ず合祀請願書に調印せるは去年末のことという」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.525』河出文庫)

というような山岳地帯が舞台。

「鈴鹿峠(すずかとおげ)」は「鈴香(すずか)ノ山」=「鈴鹿山(すずかやま)」の「峠」。今の滋賀県甲賀市と三重県亀山市との境界に位置する東海道の峠。国道1号線開通により旧街道が残されている。

事件は昼なお暗い日本中世の鈴香峠で起こった。当時、日本中どこでも荒れていないと言えそうな地方は一つもなく、とりわけ「伊勢国(いせのくに)」について「今昔物語」ではこう描かれている。

「伊勢ノ国ハ、極(いみじ)キ、父母(ちちはは)ガ物ヲモ奪取(うばひと)シ、親(したし)キ疎(うと)キヲモ不云(いは)ズ、貴キモ賎(いやし)キヲモ不簡(えらば)ズ、互(たがひ)ニ隙(ひま)ヲ量(はかり)テ魂(たましひ)ヲ暗(くら)マシテ、弱キ者ノ持(もち)タル物ヲバ不憚(はばから)ズ奪取テ、己(おのれ)ガ貯(たくはへ)ト為(す)ル所也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十六・P.378」岩波書店)

ただし、お国柄がどうしたこうしたと言う場合、「伊勢人」と「熊野人」とはまた異なる、という点を上げておく必要がある。

「熊野の地は、紀伊の國の中で一区画をなして居り、其が時代に依つて境を異にしてゐたらしい。昔ほど廣く、北方に擴つてゐて、所謂普通の紀伊國の地域を狭めてゐた。思ふに此は、南紀伊地方にゐた種族の暴威を振ふ者の、勢力を張つた時代は、遥かに北に及び、其衰へた時は、境界線が後退してゐたからだらう。奈良朝前後では、南北東西牟婁郡の範囲も定つて、北西の限界は、日高郡岩代附近と言ふことになつてゐたらしいが、熊野の祭祀の中心たるべき日前(ヒノクマ)・國懸(クニカカス)の社(ヤシロ)が、更にその北にある事は、其以前の熊野領域を示すのだ。古事記・日本紀の文脈を見ると、更に古代の熊野の領域が、北に擴つて居り、紀の川・吉野川南部の山地は、大和・吉野へかけて一体に、熊野人の勢力範囲であり、唯海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た、と言ふ事が出来る」(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」『折口信夫全集16・P.222』中公文庫)

さてそんな折、京の都に一人の水銀商人がいた。伊勢で採掘された水銀を京で売る。金メッキなどの用材として売れる。数年間かけてこの仕事に専念し遂に豪商となった。しかし馬や従者らを連れてこの商売を続けていくためには鈴鹿峠を越えなければならない。他の商人らも同様に鈴鹿峠を利用する。昼夜を問わず暗い街道が打ち続くこの峠を商人たちがどんどん往来していく。当然のように大規模な盗賊団が出没する。しかもいつどこから襲ってくるかわからない。にもかかわらず、この商人だけはいつも無事に往来してくるので周囲の者らは不思議がっていた。だがこの商人とて襲われることはあった。ただ、度重なる襲撃に遭ってもなお、商品はいつも無事に京の都へ届けることができた。

或る日、「小童部(こわらはべ)・女共(おんなども)・馬(うま)」などいつもの旅装で、様々な商品を運びながら伊勢から京へ下っていた。そして鈴鹿峠越えの途中、突如出現した八十人を越える大盗賊団に包囲された。子どもらはあっと言う間もなく走って逃げた。女たちの衣装は売れるので徹底的に衣服を剥ぎ取られ丸裸のまま追い払われた。馬に載せていた大事な商品もすべて盗賊団の手に墜ちた。また水銀商人もその場を一旦放棄し「草馬(めうま)」=「牝馬(めむま)」に乗ってやっとのことで高い峰の上まで逃れた。水銀商人の服装について「浅黄(あさぎ)ノ打衣(うちぎぬ)・打狩袴(うちかりばかま)」とあるが、この「打」は「砧(きぬた)」で「打」って光沢・色艶を出したものと考えられるため富豪だとわかる。

「水銀商ハ、浅黄(あさぎ)ノ打衣(うちぎぬ)ニ青黒(あをぐろ)ノ打狩袴(うちかりばかま)ヲ着テ、練色(ねりいろ)ノ衣(きぬ)ノ綿原(わたあつ)ラカナル三ツ許(ばかり)ヲ着テ、菅笠(すげがさ)ヲ着テ、草馬(めうま)ニ乗テゾ有ケルガ、辛(から)クシテ逃テ、高ク岳(をか)ニ打上(うちのぼり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十六・P.379」岩波書店)

しかし水銀商人は馬で駆け上がった峰の上から盗賊団が引き上げていった谷を見下ろして何喰わぬ顔をしている。そして逆に「虚空(おほそら)ヲ打見上(うちみあげ)」ながら高い声で何かを呼んだ。「どこにいる、遅いぞ!」。一時間ほど経ったろうか。9センチほどの蜂がぶんぶん唸りを立てて近づいてきた。大型のその蜂は水銀商人のすぐそばの木に留まった。商人はさらに気合いを入れて大空に向かい、「遅い、遅い!」と声を上げた。すると大空に、延々と延びた厚さ6メートルばかりの赤い雲が、巨大な積乱雲の如くどっと湧き起こった。

「水銀商、高キ峰ニ打立(うちたち)テ、敢(あへ)テ事トモ不思(おもひ)タラヌ気色ニテ、虚空(おほそら)ヲ打見上(うちみあげ)ツツ音(こゑ)高クシテ、『何(いづ)ラ何ラ、遅シ遅シ』ト云立(いひた)テリケルニ、時半許(ときなかばかり)有テ、大キサ三寸許(ばかり)ナル蜂ノ怖(おそろ)シ気(げ)ナル、空ヨリ出来(いでき)テ、『ブブ』ト云テ、傍(かたはら)ナル木ノ枝ニ居(ゐ)ヌ。水銀商、此レヲ見テ弥(いよい)ヨ念ジ入(いり)テ、『遅シ遅シ』ト云フ程ニ、虚空(おほそら)ニ赤キ雲二丈許(ばかり)ニテ長サ遥(はるか)ニテ、俄(にはか)ニ見ユ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十六・P.379」岩波書店)

峠を越えて行く他の旅人らもそれを見て「何だ、あれは」と空を見上げる。たちまち膨大な塊となった赤い雲はやがて谷間めがけて降下し始めた。真っ先に到着した大型の蜂もその後を追って木を飛び立ち合流する。巨大な積乱雲と見えた赤い塊は何と無数の蜂の群れだった。そうとは知らず鈴鹿峠の谷間を拠点とする盗賊団は強奪してきた物品の鑑定整頓に余念がない。というのも盗賊団は商人や旅人の往来が激しい山間部の谷間に拠点を構えるのが常だったから。

赤い積乱雲の急降下にしか見えない群れ成す蜂の大群は、盗品の仕分けに夢中で我を忘れている盗賊団目がけて一挙に襲いかかった。人一人につきだいたい百、二百匹の蜂が襲いかかったとしよう。なかなか耐え難いのではと思われる。ところがこの時は盗賊一人につき「二、三石(こく)」=「7〜9キログラム」ほどの蜂が全身を覆い尽くし刺し貫いた。防戦むなしく八十人以上の大盗賊団は皆殺しにされ谷間に放置された。しばらくすると蜂はすべて飛び去って、巨龍にも見まごう赤い蜂の積乱雲はすっかり消え失せた。大空はもう、からっと晴れて見える。

「然(さ)テ、若干(そこばく)ノ蜂、盗人毎(ごと)ニ皆付(つき)テ、皆螫(さし)殺シテケリ。一人ニ一(ひゃく)、二百(にひゃく)ノ蜂ノ付(つき)タラムニダニ、何(いか)ナラム者カハ堪(た)ヘムト為(す)ル。其レニ、一人ニ二、三石(こく)ノ蜂ノ付キタラムニハ、少々(せうせう)ヲコソ打殺シケレドモ、皆被螫殺(さしころされ)ニケリ。其ノ後、蜂皆飛去(とびさり)ニケレバ、雲モ晴レヌト見エケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十六・P.380」岩波書店)

ラストで古代信仰にまつわる謎解きが用意されている。この水銀商人は日頃から家の中で神酒を造り置いていた。それを蜂に捧げ、聖なる守護神として信仰していた。

「此の水銀商ハ、家ニ酒ヲ造リ置テ、他(ほか)ノ事ニモ不仕(つかは)ズシテ、役(やく)ト蜂ニ呑(のま)セテナム、此レヲ祭(まつり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十六・P.380」岩波書店)

神酒の成分は書かれていない。が、日本の東北以南の山中ではよく見かけるクヌギの樹液ではと思われる。クヌギにはカブトムシ、クワガタ、蝶々など様々な昆虫類が集まる。特に近年、森林伐採が進んだ結果カブトムシやオオクワガタは急速に減少し、今や貴重品として売買されるようになった。

蜂はスズメバチだろう。人間が死ぬほど強力に作用する主な毒成分はセロトニン、アセチルコリンといった神経毒。またそれら神経毒の注入によって起こるアナフィラキシーショック(急性アレルギー反応)など幾つかの複合要因が重なる。いずれにせよ、この説話もまた動物による「報恩譚」に属する。そのため「猿の恩返し」と同様、柳田國男がいうように「取ると与えるとの釣合いは少しもとれていない」。人間と蜂との債権/債務関係は著しく均衡を逸脱した過剰性=アナーキー性を示す。

「動物はもと人間から、何らの行為を寄せられなかった場合にも、はやり往々にして昔話の主人公を援助している。栗福米福の継子が、継母に命ぜられた大きな仕事に困って泣いていると、沢山の雀が来て嘴で稗の皮を剥いてっくれる。西洋にはそれを実母の亡霊の所為の様にいうものもあるが、日本ではただ雀等が感動して助けに来るというのが多い。瓜子姫が柿の木の梢に縛られて居るのを、教えてくれたという鳥類は色々あったが、これもその時まで主人公と、何かの関係があったとも説かれて居らぬのである。それから同じ報恩という中にも、命を助けて貰ったなどはどんな礼をしてもよいが、たった一つの握飯を分けてやって、鼠の浄土へ招かれて金銀を貰ったり、あるいは蟹寺の如く無数の集まって大蛇と闘ったり、取ると与えるとの釣合いは少しもとれていない。これなどは禽獣蟲魚に対する我々の考え方がかわって、斯様に解釈することが比較的もっともらしくなったからで、こうしてまでも人が非類の物から、大きな援助を受けることがあるものだということを、永く記憶していたのは昔話の賜と言ってよい。人と動物とが対等な交際をした時代があったことを、伝えている歴史というものは昔話の他には無いのである」(柳田國男「口承文藝史考・昔話と傅説と神話・七十八」『柳田國男集・第六巻・P.119』筑摩書房)

ところでこの説話は、あくまでスズメバチの大群が想定されている。スズメバチは針で天敵を刺した後も死なずに巣に戻っていく。けれども蜂は蜂でも「ミツバチ」は天敵に針を突き刺した後、ミツバチ自身も死ぬ。次のようにミツバチを狙う蟾蜍(ひきがえる)の実話が「甲子夜話」に載る。

「住持曰。我寺の堂檐に蜂巣あり。或日蜂子の房にある者自から出て下る。我不審に思ひ下を見るに、床下に蟾あり。これも蜂子を呑んとて、気を以て引きしなり」(「甲子夜話5・巻八十・十八・P.356」東洋文庫)

ただしこの話題は、蟾蜍(ひきがえる)には「蜂の子」を思うがままに吸い寄せる独特の能力があるのでは、という問いの形式が取られている。俗に「蝦蟇(がま)の油売り」というけれども、そもそも「蝦蟇(がま)」は後頭部の耳腺からブフォトキシンという神経伝達物質を分泌して他の生物の神経を麻痺させる。アメリカではこの作用を乱用する薬物依存症者が続出したことに加え、希少動物保護の観点を兼ねて、一九七〇年代に密猟・売買禁止とされた。

おまけの一句。

「蟾(ひき)どのの妻や待(まつ)らん子鳴(なく)らん」(一茶)

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