前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
或る時、大和国(やまとのくに)に一人の女子がいた。「形美麗(かたちびれい)ニシテ、心労(らう)タカリケレバ」=「美少女でとても気立てがよく」、両親は大切に育てていた。一方、河内国(かはちのくに)に一人の男子がいた。「年若クシテ、美(うるはし)カリケレバ」=「若くから端正な顔立ちで」、京の都へ宮仕えに出ており、笛が巧み、性格は折目正しく魅力的だったため、両親は心から大切に思っていた。
そのうち、大和国の女性の評判が河内国の男性の耳に入ってきた。男性は心のこもった丁寧な恋文をしたため贈ったが、しばらくの間は聞き入れてもらえなかった。男性は根気よく自分の気持ち伝えることにした。するとやがて女性の両親も話を聞き入れてくれ、女性に会わせてくれると承知した。
二人は夫婦になる。相思相愛の間柄でたちまちのうちに深く愛し合うようになった。たいへん順調な結婚生活を続けるうちに三年が経った。するとその頃、思いも寄らぬことに夫が病を患った。月日を経ても治ることなく、とうとう死んでしまった。
「其ノ後、無限(かぎりな)ク相思(あひおもひ)テ棲(すみ)ケル程ニ、三年許(ばかり)有テ、此ノ夫(をうと)、不思懸(おもひかけ)ズ身ニ病(やまひ)ヲ受テ、日来(ひごろ)煩(わづらひ)ケル程ニ、遂ニ失(うせ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十五・P.138」岩波書店)
妻は夫を精一杯愛していたから、ふいのことに嘆き悲しんで戸惑うばかり。しかし夫の訃報を聞きつけた他の男性らからどんどん求婚の申し込みが舞い込んできた。それでも妻は夫のことが忘れられず恋慕ったまま既に三年を経るに至った。
ところで、死後三年経てばそれは一つの区切りとされる。しかし残された妻は亡き夫のことを忘れられようはずもなく、悲嘆に暮れ泣き悲しむばかりの日々を送っていた。そんな或る日の真夜中。遠くから笛の音色が聞こえる。妻は思う。「しみじみと趣深い笛の音色、まるで亡くなった夫のよう」。ますます愛しさが募ってきた。涙に暮れて聴いていると、笛の音はだんだん家のそばまで近づいていた。そして妻の部屋の蔀(しとみ=板で出来た窓)の前までやって来ると立ち止まった。「この蔀を開けてくれ」と声がする。ほかでもない亡き夫の声だ。しみじみと情は動くものの、あまりの怪異に恐る恐る起き上がって蔀の隙間からそっと外を窺ってみると、まぎれもない亡き夫が突っ立っている。
「女、常ヨリモ涙ニ溺(おほほ)レテ泣キ臥(ふし)タリケルニ、夜半許(よなかばかり)ニ、笛ヲ吹ク音(ね)ノ遠ク聞エケレバ、『哀レ、昔人(むかしびと)ニ似タル物カナ』ト、弥(いよい)ヲ哀(あは)レニ、思(おぼえ)ケルニ、漸(やうや)ク近ク来(き)テ、其ノ女ノ居タリケル蔀(しとみ)ノ許(もと)ニ寄来(よりき)テ、『此レ開ケヨ』ト云フ音(こゑ)、只昔ノ夫ノ音(こゑ)ナレバ、奇異(あさまし)ク哀レナル物カラ怖(おそろ)シクテ、和(やは)ラ起(おき)テ蔀ノ迫(はさま)ヨリ臨(のぞき)ケレバ、男現(あらは)ニ有テ立(た)テリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十五・P.138」岩波書店)
夫は装束の紐を解いていて、はらりとぶら下がっている。さらにその体から煙が立ち上っている。「身ヨリ煙(けぶり)ノ立(たち)」は「身を焦がす恋情・萌ゆる恋心」を表わすとともに、地獄で受けている拷問の凄まじい名残りゆえに熱を帯びて湧き立つもの。妻は怖ろしさを覚え言葉を失ってしまう。それを見た亡き夫はいう。「そなたが絶句するのも道理だ。この激しい愛情を抑えきれず、許されるはずのない時間を頂いて会いに来たわけだが、これほど怖がっておられる。ではもう帰ることにしよう。地獄では日に三度の拷問を受けているよ」。そう言うやふと消え失せてしまった。
「紐(ひも)をぞ解(とき)テ有(あり)ケル。亦、身ヨリ煙(けぶり)ノ立(たち)ケレバ、女怖シクテ物モ不云(いは)ザリケレバ、男、『理也(ことわりなり)ヤ。極(いみじ)ク恋(こひ)給フガ哀レニアレバ、破無(わりな)キ暇(いとま)ヲ申シテ参リ来(き)タルニ、此(か)ク恐(お)ヂ給ヘバ、罷(まか)リ返(かへり)ナム。日ニ三度(みたび)燃(もゆ)ル苦(く)ヲナム受(うけ)タル』ト云(いひ)テ、掻消(かきけ)ツ様(やう)ニ失(うせ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十五・P.139」岩波書店)
残された妻は夢かと思ったがそんなはずはなく、笛の音も姿形も確かにありし日の夫のもの。奇妙なことだなあと思っていたが、いずれにせよ考えても仕方ないことなのだろう。
さて、経済的取引で「引き合う」という。互いに等価な取引の場合を指していうが、本当に「引き合う」ことなど実に稀なケースだ。また恋愛において相思相愛の場合、互いに「呼び合う」。それがいつからかなまって「夜這い」になったと柳田國男はいっている。そこでこの説話を通して見えるものはなんだろうか。第一に「亡き夫=亡霊」としての再登場。第二に相思相愛関係における「呼び合い=夜這い」。第三にまぎれもない「性」について。変換してみよう。「貨幣循環・反復される言語・三年という風習的区切りに関係なく連綿と打ち続いていく性の力」。ということになる。
なお、差異性と反復について。繰り返しニーチェが参照されなくてはならないだろう。
「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫)
一度ならず二度三度と困難もまた繰り返されるほかない。
BGM1
BGM2
BGM3
或る時、大和国(やまとのくに)に一人の女子がいた。「形美麗(かたちびれい)ニシテ、心労(らう)タカリケレバ」=「美少女でとても気立てがよく」、両親は大切に育てていた。一方、河内国(かはちのくに)に一人の男子がいた。「年若クシテ、美(うるはし)カリケレバ」=「若くから端正な顔立ちで」、京の都へ宮仕えに出ており、笛が巧み、性格は折目正しく魅力的だったため、両親は心から大切に思っていた。
そのうち、大和国の女性の評判が河内国の男性の耳に入ってきた。男性は心のこもった丁寧な恋文をしたため贈ったが、しばらくの間は聞き入れてもらえなかった。男性は根気よく自分の気持ち伝えることにした。するとやがて女性の両親も話を聞き入れてくれ、女性に会わせてくれると承知した。
二人は夫婦になる。相思相愛の間柄でたちまちのうちに深く愛し合うようになった。たいへん順調な結婚生活を続けるうちに三年が経った。するとその頃、思いも寄らぬことに夫が病を患った。月日を経ても治ることなく、とうとう死んでしまった。
「其ノ後、無限(かぎりな)ク相思(あひおもひ)テ棲(すみ)ケル程ニ、三年許(ばかり)有テ、此ノ夫(をうと)、不思懸(おもひかけ)ズ身ニ病(やまひ)ヲ受テ、日来(ひごろ)煩(わづらひ)ケル程ニ、遂ニ失(うせ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十五・P.138」岩波書店)
妻は夫を精一杯愛していたから、ふいのことに嘆き悲しんで戸惑うばかり。しかし夫の訃報を聞きつけた他の男性らからどんどん求婚の申し込みが舞い込んできた。それでも妻は夫のことが忘れられず恋慕ったまま既に三年を経るに至った。
ところで、死後三年経てばそれは一つの区切りとされる。しかし残された妻は亡き夫のことを忘れられようはずもなく、悲嘆に暮れ泣き悲しむばかりの日々を送っていた。そんな或る日の真夜中。遠くから笛の音色が聞こえる。妻は思う。「しみじみと趣深い笛の音色、まるで亡くなった夫のよう」。ますます愛しさが募ってきた。涙に暮れて聴いていると、笛の音はだんだん家のそばまで近づいていた。そして妻の部屋の蔀(しとみ=板で出来た窓)の前までやって来ると立ち止まった。「この蔀を開けてくれ」と声がする。ほかでもない亡き夫の声だ。しみじみと情は動くものの、あまりの怪異に恐る恐る起き上がって蔀の隙間からそっと外を窺ってみると、まぎれもない亡き夫が突っ立っている。
「女、常ヨリモ涙ニ溺(おほほ)レテ泣キ臥(ふし)タリケルニ、夜半許(よなかばかり)ニ、笛ヲ吹ク音(ね)ノ遠ク聞エケレバ、『哀レ、昔人(むかしびと)ニ似タル物カナ』ト、弥(いよい)ヲ哀(あは)レニ、思(おぼえ)ケルニ、漸(やうや)ク近ク来(き)テ、其ノ女ノ居タリケル蔀(しとみ)ノ許(もと)ニ寄来(よりき)テ、『此レ開ケヨ』ト云フ音(こゑ)、只昔ノ夫ノ音(こゑ)ナレバ、奇異(あさまし)ク哀レナル物カラ怖(おそろ)シクテ、和(やは)ラ起(おき)テ蔀ノ迫(はさま)ヨリ臨(のぞき)ケレバ、男現(あらは)ニ有テ立(た)テリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十五・P.138」岩波書店)
夫は装束の紐を解いていて、はらりとぶら下がっている。さらにその体から煙が立ち上っている。「身ヨリ煙(けぶり)ノ立(たち)」は「身を焦がす恋情・萌ゆる恋心」を表わすとともに、地獄で受けている拷問の凄まじい名残りゆえに熱を帯びて湧き立つもの。妻は怖ろしさを覚え言葉を失ってしまう。それを見た亡き夫はいう。「そなたが絶句するのも道理だ。この激しい愛情を抑えきれず、許されるはずのない時間を頂いて会いに来たわけだが、これほど怖がっておられる。ではもう帰ることにしよう。地獄では日に三度の拷問を受けているよ」。そう言うやふと消え失せてしまった。
「紐(ひも)をぞ解(とき)テ有(あり)ケル。亦、身ヨリ煙(けぶり)ノ立(たち)ケレバ、女怖シクテ物モ不云(いは)ザリケレバ、男、『理也(ことわりなり)ヤ。極(いみじ)ク恋(こひ)給フガ哀レニアレバ、破無(わりな)キ暇(いとま)ヲ申シテ参リ来(き)タルニ、此(か)ク恐(お)ヂ給ヘバ、罷(まか)リ返(かへり)ナム。日ニ三度(みたび)燃(もゆ)ル苦(く)ヲナム受(うけ)タル』ト云(いひ)テ、掻消(かきけ)ツ様(やう)ニ失(うせ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十五・P.139」岩波書店)
残された妻は夢かと思ったがそんなはずはなく、笛の音も姿形も確かにありし日の夫のもの。奇妙なことだなあと思っていたが、いずれにせよ考えても仕方ないことなのだろう。
さて、経済的取引で「引き合う」という。互いに等価な取引の場合を指していうが、本当に「引き合う」ことなど実に稀なケースだ。また恋愛において相思相愛の場合、互いに「呼び合う」。それがいつからかなまって「夜這い」になったと柳田國男はいっている。そこでこの説話を通して見えるものはなんだろうか。第一に「亡き夫=亡霊」としての再登場。第二に相思相愛関係における「呼び合い=夜這い」。第三にまぎれもない「性」について。変換してみよう。「貨幣循環・反復される言語・三年という風習的区切りに関係なく連綿と打ち続いていく性の力」。ということになる。
なお、差異性と反復について。繰り返しニーチェが参照されなくてはならないだろう。
「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫)
一度ならず二度三度と困難もまた繰り返されるほかない。
BGM1
BGM2
BGM3
