前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
十月末の闇夜、或る兄弟が山に入っていつもの「待(まち)」を行っていた。「待(まち)」は古くからある猟法。高い樹上の枝の間に横木を渡し、その上に乗って鹿・猪などの獲物が下を通るのを「待ち」、矢を射て仕止める。兄弟はおよそ五十メートルの間を開けて向かい合う格好で樹上にいた。月末の闇夜の頃はたいへん暗いため、獲物が近づく音だけが頼りだ。
夜更けになった。だがその夜は一頭の鹿もやって来ない。しばらくすると、兄が上っている木の上から何物かの手が指し延ばされてきた。その手は、兄の頭の上で髪の毛を束ねた「髻(もとどり)」を握りしめると、ぐいと上へ引き上げようとする。不審に思った兄は髻を掴んでいる手を探ってみた。するとそれはすっかり痩せてからからに乾ききり骨張った人間の手のようである。兄は思う。まさしく鬼に違いない。おれを取ってむさぼり喰らうつもりだろうと。
「兄ガ居タル木ノ上ヨリ、物ノ手ヲ指下(さしおろ)シテ、兄ガ髻(もとどり)ヲ取テ上様(うへざま)ニ引上(ひきあぐ)レバ、兄、奇異(あさまし)ト思(おもひ)テ、髻取(とり)タル手ヲ捜(さぐ)レバ、吉(よ)ク枯(かれ)テ曝(さら)ボヒタル人ノ手ニテ有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十二・P.131」岩波書店)
兄は弟に向かって言う。今まさしく、おれの髻を掴んで木の上へ引き上げようとしている何物かがいる。どうすればいいだろうか。弟は答えていう。見当を付けて矢で射てしまおう。暗闇なので兄の声を頼りにしたいと思う。兄はいう。ではそうしよう。おれの声を頼りに狙いを付けて射てくれ。
弟は鏃(やじり)の先が二股仕様になっている「雁胯(かりまた)」で矢を射た。兄の頭上辺りをかすめたと思った瞬間、矢が何物かを仕止めた手応えがあった。兄は自分の手で頭上を探ってみると髻を掴んでいたと思われる何物かの手が矢で手首を射切られてぶら下がっていた。兄は切断された何物かの手首を手に取ると、今夜のところはこれで家に戻ろうと言った。弟もそれがいいと承知して二人で帰宅した。
「弟、雁胯(かりまた)ヲ以(もつ)テ射タリケレバ、兄ガ頭(かしら)ノ上懸(うへかか)ルト思(おぼ)ユル程ニ、尻答(しりこた)フル心地(ここち)スレバ、弟、『当(あたり)ヌルニコソ有(あん)メレ』ト云フ時ニ、兄、手ヲ以(もつ)テ髻ノ上ヲ捜レバア、腕(かひな)ノ頸(くび)ヨリ、取(とり)タル手被射切(いきられ)テ下(さがリ)タレバ、兄(あ)ニ、此ヲ取(とり)テ弟ニ云ク、『取(とり)タリツル手ハ、既ニ被射切(いきられ)テ有レバ、此(ここ)ニ取(とり)タリ。去来(いざ)、今夜(こよひ)ハ返(かへり)ナム』」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十二・P.131」岩波書店)
高い木の上が鬼の領域に当たる例は以前触れたように「冷泉院東洞院僧都殿霊語(れいぜんゐんひむがしのとうゐんのそうづどののりやうのこと)」に見える。
「向(むかひ)ノ僧都殿ノ戌亥(いぬゐ)ノ角(すみ)ニハ大(おほ)キニ高キ榎(え)ノ木有ケリ、彼(あ)レハ誰(た)ソ時(どき)ニ成レバ、寝殿(しんでん)ノ前ヨリ赤キ単衣(ひとへぎぬ)ノ飛テ、彼(か)ノ戌亥ノ榎ノ木ノ方様(かたざま)ニ飛テ行テ、木ノ末ニナム登(のぼり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四・P.97」岩波書店)
さらに、何物かの手だけが出てきて人を呼び招いてみたり「桃園柱穴指出児手(ももぞののはしらのあなよりさしいづるちごのて)、招人語(ひとをまねくこと)」、指し延ばされた手が人を掴むやたちまち別室の内部へ引きずり込む場合「東人(あづまびと)、宿河原院被取妻語(かはらのゐんにやどりてめをとらるること)」についても以前触れた。
前者の場合。
「寝殿(しんでん)ノ辰巳(たつみ)ノ母屋(もや)ノ柱ニ木ノ節ノ穴開(あき)タリケリ。夜ニ成レバ、其ノ木ノ節ノ穴ヨリ小サキ児(ちご)ノ手ヲ指出(さしいで)テ、人ヲ招ク事ナム有ケル」(「今昔物語集5・巻第二十七・第三・P.96」岩波書店)
後者の場合。
「夕暮方ニ、其ノ居タリケル後ノ方ニ有ケル妻戸(つまど)ヲ、俄(にはか)ニ内ヨリ押開(おしあけ)ケレバ、内ニ人ノ有(あり)テ開(あく)ルナメリト思フ程ニ、何(な)ニトモ不思(おぼ)エヌ物ノ、急(き)ト手ヲ指出(さしいで)テ、此ノ宿(やどり)タル妻(め)ヲ取(とり)テ、妻戸ノ内ニ引入(ひきいれ)ツレバ、夫驚(おどろ)キ騒(さわぎ)テ引留(ひきとど)メムト為(す)レドモ、程モ無ク引入(ひきいれ)ツレバ、怱寄(いそぎより)て妻戸(つまど)ヲ引開(ひきあ)ケムト引ケドモ、程無ク閉(とぢ)ツレバ、不開(あか)ズ成(なり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十七・121」岩波書店)
これらのケースはどれも手の向う側は「異界」とされるのが通例。しかし今回取り上げた説話は、この先の展開がこれら三つの説話とは決定的に異なる。
兄弟には随分年老いて普通に立っていることもままならない母がいた。兄弟は壁で仕切った納戸のような部屋(壺屋=つぼや)を老母に当てがい、兄と弟とは老母の部屋を間に挟んだ形で別々に暮らしていた。山から兄弟が家に戻ったのはまだ夜中過ぎ。すると老母のいる壺屋の中から奇妙なうめき声がしている。なぜうめき声など漏らしてらっしゃるのでしょう、と尋ねてみたが返事がない。周囲は暗がり。とりあえず火を灯してさっき切断してきた何物かの手首を兄弟二人でよく見ると老母の手に似ている。
「山ヨリ返来(かへりき)タルニ、怪(あやし)ウ母ノ吟(ひよひ)ケレバ、子共、『何(な)ド吟(ひよひ)給フゾ』ト問ヘドモ、答(いら)ヘモ不為(せ)ズ。其ノ時ニ、火ヲ燃(とも)シテ、此ノ被射切(いきられ)タル手ヲ二人シテ見ルニ、此ノ母ノ手ニ似タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十二・P.132」岩波書店)
改めて確かめると間違いなく老母の手だ。兄弟は母のいる壺屋の扉を引き開けてみた。と、立居もままならぬはずの老母がぬっと起き上がり、「よくも、お前ら!」と踊りかかってきた。この手は母上の手だったか、と兄弟は山中で切断してきた手を部屋の中へ投げ込み壺屋の扉を引き閉じると、しばらくそこを離れた。
「吉ク見ルニ、只其ノ手ニテ有レバ、子共、母ノ居タル所ノ遣戸(やりど)ヲ引開(ひきあけ)タレバ、母起上(おきあがり)テ、『己等(おのれら)ハ』ト云(いひ)テ取懸(とりかから)ムトスレバ、子共、『此レハ御手カ』ト云(いひ)テ投(なげ)入レテ、引閉(ひきとぢ)テ去(のき)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十二・P.132」岩波書店)
それほど時間を経ないうちに老母は死んだ。兄弟が老母の死体に近寄ってみると、その片方の手は手首を矢で切断され、もはや無かった。
「其ノ後、其ノ母、幾(いくば)ク無クシテ死ニケリ。子共寄(より)テ見レバ、母ノ片手、手ノ頸ヨリ被射切(いきられ)テ無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十二・P.132」岩波書店)
後の文章は事後的な経緯が述べられているばかり。が、「母ガ痛(いた)ウ老(おい)ヒ耄(ほれ)テ鬼ニ成(なり)」とある。「痛(いた)ウ老(おい)ヒ耄(ほれ)テ」を直訳すると、ただ単に「ひどく老いぼれて」で済む。とはいえしかし現代社会では高齢化に伴う認知症・統合失調症・徘徊・自殺など様々な精神疾患に分類可能なだけでなく、むしろどこにでも見かけられる日常生活風景として加速的に浸透してきている。中世ではそのように変化した老母を鬼と見た。「今昔物語」成立期、老婆は鬼となり、また鬼が老婆の姿に化ける話は数限りなく見られる。おそらく最も有名な類話は「産女行南山科(うぶめみなみやましなにゆき)、値鬼逃語(おににあひてにぐること)」だろう。
舞台は平安京の全盛期に貴人らの別荘が営まれた後、五十年以上も過ぎて既に荒れ果てた山中の廃屋。宮仕えしている或る若い女性が妊娠した。誰が夫なのかわからないまま。仕方なく誰も住んでいない空家の一つもあるに違いないと山中を探して入ってみる。そこで出産しようとしていると思いがけず中から老婆が出てきた。
「老(おい)タル女ノ白髪(しらが)生(おひ)タル、出来(いでき)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十五・116」岩波書店)
なぜそんなところにたった一人で老婆がいるのか。さらにどうして、老婆は鬼として登場してこなくてはならなかったのか。「姥捨(うばすて)伝説」と言ってしまえば簡単なのかも知れない。しかし「姥捨」と言ってみたところで、しかしなお、なぜ「鬼」になるかは説明できない。
また、鬼が源頼光(みなもとのよりみつ)の老母(老婆姿)に化けて現われ、奪われた手首を奪還しにやって来る説話は「太平記」に見える。
「鬼切(おにきり)と申すは、元(もと)は、清和源氏(せいわげんじ)の先祖、摂津守頼光(つのかみらいこう)の太刀にぞありける。大和国宇多郡(やまとのくにうだのこおり)に、大きなる森あり。その陰(かげ)に、夜な夜な怪物(ばけもの)あつて、行(い)き来(き)の人を取(と)り喰(く)らひ、牛馬六畜(ぎゅうばろくちく)を撮(つか)み裂(さ)く。頼光、これを聞いて、郎等(ろうどう)渡部源五綱(わたなべごんごつな)と云いける者に、『かの怪物を、討つて奉(まいら)せよ』とて、秘蔵の太刀を賜(た)びてけり。綱、頼光の命(めい)を含んで、宇多郡に行き、甲冑(かっちゅう)を帯(たい)し、夜な夜な森の影にして待ちたりける。この怪物、綱が勢ひにや恐れけん、あへて眼(まなこ)に遮(さえぎ)る事なし。綱、さらば形を替へて謀(たばか)らんと思ひ、髪を解き乱し覆(おお)ひ、鬘(かつら)を懸けて、金黒(かねぐろ)に太眉(ふとまゆ)を作り、薄絹(うすぎぬ)を打ち負(かず)きて、女の如く出で立ちて、朧月夜(おぼろづきよ)の明けぼのに、杜(もり)の下をぞ通りける。俄(にわ)かに虚空(こくう)掻き曇り、杜の上に、物立(た)ち翔(かけ)るやうに見えけるが、空より綱が鬢(びん)の髪(かみ)を爴(つか)んで、中(ちゅう)に取つてぞ上がりける。綱、件(くだん)の太刀を抜いて、虚空を払ひ切りにぞ切つたりける。雲の上に、あつと云ふ音(こゑ)して、血の顔にさつと懸かりけるが、毛の生(お)ひたる手の、指三つありて熊の手の如くなるを、二の腕より切つてぞ落としたりける。綱、この手を取つて頼光に奉る。頼光、これを朱(しゅ)の唐櫃(からひつ)に収めて置かれける後(のち)、夜な夜な懼(おそ)ろしき夢をぞ見給ひける。占夢(せんむ)の博士(はかせ)に問ひ給ひければ、七日(なぬか)が間の重き慎(つつし)みとぞ、占ひ申しける。これによつて、頼光(らいこう)、堅く門戸(もんこ)を閉ぢて、七重(ななえ)の四目(しめ)を曳(ひ)き、四方の門に、十二人の番衆(ばんしゅ)を居(す)ゑ、宿直蟇目(とのいひきめ)をぞ射させらる。物忌(ものい)みすでに七日に満(まん)じける夜(よ)、河内国高安郡(かわちのくにたかやすのこおり)より、頼光の母儀(ぼぎ)来たつて、門(かど)をぞ敲(たた)かせける。物忌(ものい)みの最中なりけれども、正(まさ)しき老母の、対面のためとて遠々(はるばる)と来たりたれば、力なく門を開き、内へ入れ奉つて、珍(ちん)を調(ととの)へ、酒を進め、様々(さまざま)の物語に覃(およ)びける時、頼光、至極(しごく)飲(の)み酔(え)ひて、この事をぞ語り出だされける。老母、持ちたる盃(さかずき)を前に差し置きて、『あな怖(おそ)ろしや。わがあたりの人も、この怪物(ばけもの)に多く取られて、子は親に先立ち、妻は夫に別れたる者、多く候ぞや。さても、いかなる物にて候ふぞや。あはれ、その手を見ばや』と。所望(しょもう)せられければ、『安き程の事にて候ふ』とて、唐櫃(からひつ)の中より、件(くだん)の手を取り出して、老母の前にぞ差し置き給ひける。母、これを取つて、且(しばら)く見る由(よし)しけるが、わが右の手の、臂(ひじ)より切れたるを差し出して、『これは、わが手にて候ひける』と云ひて、差し合はせ、兀(たちまち)長(たけ)二丈ばかりなる牛鬼(うしおに)になつて、酌(しゃく)に立つたりける綱(つな)を、左の手に提(ひっさ)げて、天井の煙出し(けぶりだ)しより上がかりけるを、頼光、件(くだん)の太刀を抜いて、牛鬼の頸(くび)を切つて落とす。その頸、頼光に懸かりけるを、太刀を逆手(さかて)に取り直して、合はせられければ、この頸、太刀の鋒(きっさき)を五寸喰(く)ひ切つて口に含みながら、頸はつひに地に落ちて、忽(たちま)ちに目をぞ塞ぎける。その骸(むくろ)はなほ破風(はふ)より蜚(と)び出(い)でて、曠(はる)かの天に昇りけり」(「太平記5・第三十二・11・鬼丸鬼切の事・P.186~189」岩波文庫)
ところで熊楠は、熊野の山々を巡りつつ悲惨な死を遂げた末に山神と化した王子信仰にこだわる。とともに「人柱の話」では、妖怪〔鬼・ものの怪〕と化しその場の「主(ヌシ)」になった老婆にこだわる。
「世に云ふ。姫路の城中にヲサカベと云妖魅あり。城中に年久く住りと云ふ。或云(あるひはいふ)。天守櫓(やぐら)の上層に居て、常に人の入ることを嫌ふ。年に一度、其城主のみこれに対面す。其余は人怯(おそ)れて不登。城主対面する時、妖其形を現すに老婆なりと云ふ。予過し年、雅楽頭忠以朝臣に此事を問たれば、成程世には然云(しかいう)なれど、天守の上別に替ることなし。常に上る者も有り。然れども、器物を置に不便なれば何も入れず。しかる間、常に行く人も稀なり。上層に昔より日丸の付たる胴丸壱つあり。是のみなりと語られき。其後己酉の東覲、姫路に一宿せし時、宿主に又このこと問(とは)せければ、城中に左様のことも侍り。此処にてはヲサカベとは不言、ハツテンドウと申す。天守櫓の脇に此祠有り。社僧ありて其神に事(つか)ふ。城主も尊仰せらるるとぞ」(「甲子夜話2・巻三十・二十・P.247~248」東洋文庫)
さらに生涯のほとんどを山岳地帯で暮らし、遂に老翁(おきな)となった「山伏」が人柱として立てられたことにこだわる。
「或人曰。大阪の御城代某候、初て彼地に赴(おもむ)かれしとき、御城中の寝処は、前職より誰も寝ざる所と云伝(いひつたへ)たるを、この候は心剛なる人にて、入城の夜その所にねられしが、夜更(ふけ)て便所にゆかん迚(とて)、手燭をともし障子をあけたれば、大男の山伏平伏して居たり。候驚きもせず、山伏に手燭を持て便所の導(みちびき)せよと云はれたれば、山伏不性げに立て案内して便所に到る。候中に入て良(やや)久しく居て出たるに、山伏猶(なほ)居たるゆゑ、候手水をかけよと云はれたれば、山伏乃(すなはち)水をかけたり。候又手燭を持せて寝処へ還られ、夫より快く臥(ふさ)れし。然るに後三夜の程は同じかりしかど、夫よりは出ずなりしと。総じて世の怪物も大抵その由る所あるものなるが、この怪は何の変化せしにや人その由を知らず。又此候は、本多大和守忠堯と云はれしの奥方、相良氏〔舎候の息女〕、後、栄寿院と称せし夫人の徒弟にてありける。此話もこの相良氏の物語られしを正く伝聞す」(「甲子夜話2・巻二十六・十五・P.160」東洋文庫)
熊楠は日本の深層に山神を見ている。しかし見えている以上、熊楠にとってそれはもはや深層ではなく事実上の表層だった。
BGM1
BGM2
BGM3
十月末の闇夜、或る兄弟が山に入っていつもの「待(まち)」を行っていた。「待(まち)」は古くからある猟法。高い樹上の枝の間に横木を渡し、その上に乗って鹿・猪などの獲物が下を通るのを「待ち」、矢を射て仕止める。兄弟はおよそ五十メートルの間を開けて向かい合う格好で樹上にいた。月末の闇夜の頃はたいへん暗いため、獲物が近づく音だけが頼りだ。
夜更けになった。だがその夜は一頭の鹿もやって来ない。しばらくすると、兄が上っている木の上から何物かの手が指し延ばされてきた。その手は、兄の頭の上で髪の毛を束ねた「髻(もとどり)」を握りしめると、ぐいと上へ引き上げようとする。不審に思った兄は髻を掴んでいる手を探ってみた。するとそれはすっかり痩せてからからに乾ききり骨張った人間の手のようである。兄は思う。まさしく鬼に違いない。おれを取ってむさぼり喰らうつもりだろうと。
「兄ガ居タル木ノ上ヨリ、物ノ手ヲ指下(さしおろ)シテ、兄ガ髻(もとどり)ヲ取テ上様(うへざま)ニ引上(ひきあぐ)レバ、兄、奇異(あさまし)ト思(おもひ)テ、髻取(とり)タル手ヲ捜(さぐ)レバ、吉(よ)ク枯(かれ)テ曝(さら)ボヒタル人ノ手ニテ有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十二・P.131」岩波書店)
兄は弟に向かって言う。今まさしく、おれの髻を掴んで木の上へ引き上げようとしている何物かがいる。どうすればいいだろうか。弟は答えていう。見当を付けて矢で射てしまおう。暗闇なので兄の声を頼りにしたいと思う。兄はいう。ではそうしよう。おれの声を頼りに狙いを付けて射てくれ。
弟は鏃(やじり)の先が二股仕様になっている「雁胯(かりまた)」で矢を射た。兄の頭上辺りをかすめたと思った瞬間、矢が何物かを仕止めた手応えがあった。兄は自分の手で頭上を探ってみると髻を掴んでいたと思われる何物かの手が矢で手首を射切られてぶら下がっていた。兄は切断された何物かの手首を手に取ると、今夜のところはこれで家に戻ろうと言った。弟もそれがいいと承知して二人で帰宅した。
「弟、雁胯(かりまた)ヲ以(もつ)テ射タリケレバ、兄ガ頭(かしら)ノ上懸(うへかか)ルト思(おぼ)ユル程ニ、尻答(しりこた)フル心地(ここち)スレバ、弟、『当(あたり)ヌルニコソ有(あん)メレ』ト云フ時ニ、兄、手ヲ以(もつ)テ髻ノ上ヲ捜レバア、腕(かひな)ノ頸(くび)ヨリ、取(とり)タル手被射切(いきられ)テ下(さがリ)タレバ、兄(あ)ニ、此ヲ取(とり)テ弟ニ云ク、『取(とり)タリツル手ハ、既ニ被射切(いきられ)テ有レバ、此(ここ)ニ取(とり)タリ。去来(いざ)、今夜(こよひ)ハ返(かへり)ナム』」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十二・P.131」岩波書店)
高い木の上が鬼の領域に当たる例は以前触れたように「冷泉院東洞院僧都殿霊語(れいぜんゐんひむがしのとうゐんのそうづどののりやうのこと)」に見える。
「向(むかひ)ノ僧都殿ノ戌亥(いぬゐ)ノ角(すみ)ニハ大(おほ)キニ高キ榎(え)ノ木有ケリ、彼(あ)レハ誰(た)ソ時(どき)ニ成レバ、寝殿(しんでん)ノ前ヨリ赤キ単衣(ひとへぎぬ)ノ飛テ、彼(か)ノ戌亥ノ榎ノ木ノ方様(かたざま)ニ飛テ行テ、木ノ末ニナム登(のぼり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第四・P.97」岩波書店)
さらに、何物かの手だけが出てきて人を呼び招いてみたり「桃園柱穴指出児手(ももぞののはしらのあなよりさしいづるちごのて)、招人語(ひとをまねくこと)」、指し延ばされた手が人を掴むやたちまち別室の内部へ引きずり込む場合「東人(あづまびと)、宿河原院被取妻語(かはらのゐんにやどりてめをとらるること)」についても以前触れた。
前者の場合。
「寝殿(しんでん)ノ辰巳(たつみ)ノ母屋(もや)ノ柱ニ木ノ節ノ穴開(あき)タリケリ。夜ニ成レバ、其ノ木ノ節ノ穴ヨリ小サキ児(ちご)ノ手ヲ指出(さしいで)テ、人ヲ招ク事ナム有ケル」(「今昔物語集5・巻第二十七・第三・P.96」岩波書店)
後者の場合。
「夕暮方ニ、其ノ居タリケル後ノ方ニ有ケル妻戸(つまど)ヲ、俄(にはか)ニ内ヨリ押開(おしあけ)ケレバ、内ニ人ノ有(あり)テ開(あく)ルナメリト思フ程ニ、何(な)ニトモ不思(おぼ)エヌ物ノ、急(き)ト手ヲ指出(さしいで)テ、此ノ宿(やどり)タル妻(め)ヲ取(とり)テ、妻戸ノ内ニ引入(ひきいれ)ツレバ、夫驚(おどろ)キ騒(さわぎ)テ引留(ひきとど)メムト為(す)レドモ、程モ無ク引入(ひきいれ)ツレバ、怱寄(いそぎより)て妻戸(つまど)ヲ引開(ひきあ)ケムト引ケドモ、程無ク閉(とぢ)ツレバ、不開(あか)ズ成(なり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十七・121」岩波書店)
これらのケースはどれも手の向う側は「異界」とされるのが通例。しかし今回取り上げた説話は、この先の展開がこれら三つの説話とは決定的に異なる。
兄弟には随分年老いて普通に立っていることもままならない母がいた。兄弟は壁で仕切った納戸のような部屋(壺屋=つぼや)を老母に当てがい、兄と弟とは老母の部屋を間に挟んだ形で別々に暮らしていた。山から兄弟が家に戻ったのはまだ夜中過ぎ。すると老母のいる壺屋の中から奇妙なうめき声がしている。なぜうめき声など漏らしてらっしゃるのでしょう、と尋ねてみたが返事がない。周囲は暗がり。とりあえず火を灯してさっき切断してきた何物かの手首を兄弟二人でよく見ると老母の手に似ている。
「山ヨリ返来(かへりき)タルニ、怪(あやし)ウ母ノ吟(ひよひ)ケレバ、子共、『何(な)ド吟(ひよひ)給フゾ』ト問ヘドモ、答(いら)ヘモ不為(せ)ズ。其ノ時ニ、火ヲ燃(とも)シテ、此ノ被射切(いきられ)タル手ヲ二人シテ見ルニ、此ノ母ノ手ニ似タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十二・P.132」岩波書店)
改めて確かめると間違いなく老母の手だ。兄弟は母のいる壺屋の扉を引き開けてみた。と、立居もままならぬはずの老母がぬっと起き上がり、「よくも、お前ら!」と踊りかかってきた。この手は母上の手だったか、と兄弟は山中で切断してきた手を部屋の中へ投げ込み壺屋の扉を引き閉じると、しばらくそこを離れた。
「吉ク見ルニ、只其ノ手ニテ有レバ、子共、母ノ居タル所ノ遣戸(やりど)ヲ引開(ひきあけ)タレバ、母起上(おきあがり)テ、『己等(おのれら)ハ』ト云(いひ)テ取懸(とりかから)ムトスレバ、子共、『此レハ御手カ』ト云(いひ)テ投(なげ)入レテ、引閉(ひきとぢ)テ去(のき)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十二・P.132」岩波書店)
それほど時間を経ないうちに老母は死んだ。兄弟が老母の死体に近寄ってみると、その片方の手は手首を矢で切断され、もはや無かった。
「其ノ後、其ノ母、幾(いくば)ク無クシテ死ニケリ。子共寄(より)テ見レバ、母ノ片手、手ノ頸ヨリ被射切(いきられ)テ無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十二・P.132」岩波書店)
後の文章は事後的な経緯が述べられているばかり。が、「母ガ痛(いた)ウ老(おい)ヒ耄(ほれ)テ鬼ニ成(なり)」とある。「痛(いた)ウ老(おい)ヒ耄(ほれ)テ」を直訳すると、ただ単に「ひどく老いぼれて」で済む。とはいえしかし現代社会では高齢化に伴う認知症・統合失調症・徘徊・自殺など様々な精神疾患に分類可能なだけでなく、むしろどこにでも見かけられる日常生活風景として加速的に浸透してきている。中世ではそのように変化した老母を鬼と見た。「今昔物語」成立期、老婆は鬼となり、また鬼が老婆の姿に化ける話は数限りなく見られる。おそらく最も有名な類話は「産女行南山科(うぶめみなみやましなにゆき)、値鬼逃語(おににあひてにぐること)」だろう。
舞台は平安京の全盛期に貴人らの別荘が営まれた後、五十年以上も過ぎて既に荒れ果てた山中の廃屋。宮仕えしている或る若い女性が妊娠した。誰が夫なのかわからないまま。仕方なく誰も住んでいない空家の一つもあるに違いないと山中を探して入ってみる。そこで出産しようとしていると思いがけず中から老婆が出てきた。
「老(おい)タル女ノ白髪(しらが)生(おひ)タル、出来(いでき)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十五・116」岩波書店)
なぜそんなところにたった一人で老婆がいるのか。さらにどうして、老婆は鬼として登場してこなくてはならなかったのか。「姥捨(うばすて)伝説」と言ってしまえば簡単なのかも知れない。しかし「姥捨」と言ってみたところで、しかしなお、なぜ「鬼」になるかは説明できない。
また、鬼が源頼光(みなもとのよりみつ)の老母(老婆姿)に化けて現われ、奪われた手首を奪還しにやって来る説話は「太平記」に見える。
「鬼切(おにきり)と申すは、元(もと)は、清和源氏(せいわげんじ)の先祖、摂津守頼光(つのかみらいこう)の太刀にぞありける。大和国宇多郡(やまとのくにうだのこおり)に、大きなる森あり。その陰(かげ)に、夜な夜な怪物(ばけもの)あつて、行(い)き来(き)の人を取(と)り喰(く)らひ、牛馬六畜(ぎゅうばろくちく)を撮(つか)み裂(さ)く。頼光、これを聞いて、郎等(ろうどう)渡部源五綱(わたなべごんごつな)と云いける者に、『かの怪物を、討つて奉(まいら)せよ』とて、秘蔵の太刀を賜(た)びてけり。綱、頼光の命(めい)を含んで、宇多郡に行き、甲冑(かっちゅう)を帯(たい)し、夜な夜な森の影にして待ちたりける。この怪物、綱が勢ひにや恐れけん、あへて眼(まなこ)に遮(さえぎ)る事なし。綱、さらば形を替へて謀(たばか)らんと思ひ、髪を解き乱し覆(おお)ひ、鬘(かつら)を懸けて、金黒(かねぐろ)に太眉(ふとまゆ)を作り、薄絹(うすぎぬ)を打ち負(かず)きて、女の如く出で立ちて、朧月夜(おぼろづきよ)の明けぼのに、杜(もり)の下をぞ通りける。俄(にわ)かに虚空(こくう)掻き曇り、杜の上に、物立(た)ち翔(かけ)るやうに見えけるが、空より綱が鬢(びん)の髪(かみ)を爴(つか)んで、中(ちゅう)に取つてぞ上がりける。綱、件(くだん)の太刀を抜いて、虚空を払ひ切りにぞ切つたりける。雲の上に、あつと云ふ音(こゑ)して、血の顔にさつと懸かりけるが、毛の生(お)ひたる手の、指三つありて熊の手の如くなるを、二の腕より切つてぞ落としたりける。綱、この手を取つて頼光に奉る。頼光、これを朱(しゅ)の唐櫃(からひつ)に収めて置かれける後(のち)、夜な夜な懼(おそ)ろしき夢をぞ見給ひける。占夢(せんむ)の博士(はかせ)に問ひ給ひければ、七日(なぬか)が間の重き慎(つつし)みとぞ、占ひ申しける。これによつて、頼光(らいこう)、堅く門戸(もんこ)を閉ぢて、七重(ななえ)の四目(しめ)を曳(ひ)き、四方の門に、十二人の番衆(ばんしゅ)を居(す)ゑ、宿直蟇目(とのいひきめ)をぞ射させらる。物忌(ものい)みすでに七日に満(まん)じける夜(よ)、河内国高安郡(かわちのくにたかやすのこおり)より、頼光の母儀(ぼぎ)来たつて、門(かど)をぞ敲(たた)かせける。物忌(ものい)みの最中なりけれども、正(まさ)しき老母の、対面のためとて遠々(はるばる)と来たりたれば、力なく門を開き、内へ入れ奉つて、珍(ちん)を調(ととの)へ、酒を進め、様々(さまざま)の物語に覃(およ)びける時、頼光、至極(しごく)飲(の)み酔(え)ひて、この事をぞ語り出だされける。老母、持ちたる盃(さかずき)を前に差し置きて、『あな怖(おそ)ろしや。わがあたりの人も、この怪物(ばけもの)に多く取られて、子は親に先立ち、妻は夫に別れたる者、多く候ぞや。さても、いかなる物にて候ふぞや。あはれ、その手を見ばや』と。所望(しょもう)せられければ、『安き程の事にて候ふ』とて、唐櫃(からひつ)の中より、件(くだん)の手を取り出して、老母の前にぞ差し置き給ひける。母、これを取つて、且(しばら)く見る由(よし)しけるが、わが右の手の、臂(ひじ)より切れたるを差し出して、『これは、わが手にて候ひける』と云ひて、差し合はせ、兀(たちまち)長(たけ)二丈ばかりなる牛鬼(うしおに)になつて、酌(しゃく)に立つたりける綱(つな)を、左の手に提(ひっさ)げて、天井の煙出し(けぶりだ)しより上がかりけるを、頼光、件(くだん)の太刀を抜いて、牛鬼の頸(くび)を切つて落とす。その頸、頼光に懸かりけるを、太刀を逆手(さかて)に取り直して、合はせられければ、この頸、太刀の鋒(きっさき)を五寸喰(く)ひ切つて口に含みながら、頸はつひに地に落ちて、忽(たちま)ちに目をぞ塞ぎける。その骸(むくろ)はなほ破風(はふ)より蜚(と)び出(い)でて、曠(はる)かの天に昇りけり」(「太平記5・第三十二・11・鬼丸鬼切の事・P.186~189」岩波文庫)
ところで熊楠は、熊野の山々を巡りつつ悲惨な死を遂げた末に山神と化した王子信仰にこだわる。とともに「人柱の話」では、妖怪〔鬼・ものの怪〕と化しその場の「主(ヌシ)」になった老婆にこだわる。
「世に云ふ。姫路の城中にヲサカベと云妖魅あり。城中に年久く住りと云ふ。或云(あるひはいふ)。天守櫓(やぐら)の上層に居て、常に人の入ることを嫌ふ。年に一度、其城主のみこれに対面す。其余は人怯(おそ)れて不登。城主対面する時、妖其形を現すに老婆なりと云ふ。予過し年、雅楽頭忠以朝臣に此事を問たれば、成程世には然云(しかいう)なれど、天守の上別に替ることなし。常に上る者も有り。然れども、器物を置に不便なれば何も入れず。しかる間、常に行く人も稀なり。上層に昔より日丸の付たる胴丸壱つあり。是のみなりと語られき。其後己酉の東覲、姫路に一宿せし時、宿主に又このこと問(とは)せければ、城中に左様のことも侍り。此処にてはヲサカベとは不言、ハツテンドウと申す。天守櫓の脇に此祠有り。社僧ありて其神に事(つか)ふ。城主も尊仰せらるるとぞ」(「甲子夜話2・巻三十・二十・P.247~248」東洋文庫)
さらに生涯のほとんどを山岳地帯で暮らし、遂に老翁(おきな)となった「山伏」が人柱として立てられたことにこだわる。
「或人曰。大阪の御城代某候、初て彼地に赴(おもむ)かれしとき、御城中の寝処は、前職より誰も寝ざる所と云伝(いひつたへ)たるを、この候は心剛なる人にて、入城の夜その所にねられしが、夜更(ふけ)て便所にゆかん迚(とて)、手燭をともし障子をあけたれば、大男の山伏平伏して居たり。候驚きもせず、山伏に手燭を持て便所の導(みちびき)せよと云はれたれば、山伏不性げに立て案内して便所に到る。候中に入て良(やや)久しく居て出たるに、山伏猶(なほ)居たるゆゑ、候手水をかけよと云はれたれば、山伏乃(すなはち)水をかけたり。候又手燭を持せて寝処へ還られ、夫より快く臥(ふさ)れし。然るに後三夜の程は同じかりしかど、夫よりは出ずなりしと。総じて世の怪物も大抵その由る所あるものなるが、この怪は何の変化せしにや人その由を知らず。又此候は、本多大和守忠堯と云はれしの奥方、相良氏〔舎候の息女〕、後、栄寿院と称せし夫人の徒弟にてありける。此話もこの相良氏の物語られしを正く伝聞す」(「甲子夜話2・巻二十六・十五・P.160」東洋文庫)
熊楠は日本の深層に山神を見ている。しかし見えている以上、熊楠にとってそれはもはや深層ではなく事実上の表層だった。
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