前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
「狗山(いぬやま)」については前回述べた。普段から何頭かの犬〔狗〕を飼っておき、訓練し、猟師は山の奥深くに入る。鹿や猪を見つけると、連れて来た猟犬を巧みに操り獲物を咋殺(くひころ)させて生業にする猟法(または猟師)のこと。数日間も深い山間部に入ることが稀でない経験から、山岳地帯で発生する危険に関してはかなりの専門知識を持ち合わせている。そんな狗山であってなお思いがけない事態に遭遇することがしばしばあった。次の説話は前回取り上げたものとは趣きが違い、狗山とその飼い犬との信頼関係に関する。
或る時、「陸奥(みちのく)ノ国」(今の青森県、秋田県、宮城県、福島県)で暮らしている狗山が、いつものように猟に出かけ山に入った。何匹か連れている猟犬たちも主人の前に立ち、あるいは後ろに従い、とてもうれしそうだ。そのうち日が落ち始めた。寝ぐらを探していると「大(おほ)キナル木ノ空(うつほ)」を見つけた。今夜はこの空洞の中で休むことにしようと、粗末ながらも持ってきた胡録(やなぐひ)・弓・大刀(たち)などの武具類を大木の周囲に立てて置き、さらに火を焚いて怠らず警戒することにした。ちなみに大木の根元辺りにできる空洞は狐や山猫が棲み付いたりする一方、修験者や旅人や猟師らが一時の寝ぐらとして利用することも多かった。とりわけ天候が急変した際の雨宿りの場としてよく使われた。
さて、夜も更けて真夜中になった。数匹連れてきた狗どもはすっかり眠っている。ただ、他の狗より突出して聡明な狗がいて、常から主人は大切に可愛がって育てていた。その狗だけが突然起き出したかと思うと、主人が休んでいる大木の空(うつほ)に向けてけたたましく吠え出した。主人自身が吠えられている格好なので「なぜこちらに向かって吠えるのか」と訝しみながらすぐ傍を見渡してみたが狗が大声で吠えなければならないようなものは何一つ見当たらない。
「『此(こ)ハ何ヲ吠(ほゆ)ルニカ有ラム』ト怪ク思テ、喬平(そばひら)ヲ見レドモ、可吠(ほゆべ)キ物モ無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十二・P.368」岩波書店)
不審な物は何らないというのにこれほど吠えるのはどうしてだろうと思っていると、狗は吠えながら遂に主人の体に踊りかかってきた。数年来の愛犬ではあるものの、遂に主人のことを忘れてしまったかと、持ってきた大刀(たち)を抜いて脅してみた。けれども狗は一向に態度を変えない。こうなっては狗を斬り殺すほかないと考えた主人はいったん、休んでいた大木の狭い空(うつほ)から飛び出した。主人が大木の狭い空(うつほ)から外へ出るや狗は主人の頭上を飛び越え、空(うつほ)のさらに上へ踊り上がり、何物かに喰い付いた。
「『此(かか)ル狭(せば)キ空(うつほ)ニテ此ノ奴(やつ)咋付(くひつき)ナバ悪(あし)カリナム』ト思テ、木ノ空(うつほ)ヨリ外(と)ニ踊出(をどりいづ)ル時ニ、此ノ狗、我ガ居タリツル空(うつほ)ノ上ノ方ニ踊上(をどりあがり)テ、物ニ咋付(くひつき)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十二・P.369」岩波書店)
それを見た主人はようやく気付く。狗はおれを喰おうとしていたわけではない。とすれば一体何に、と思って見ていると、大木の空洞の上から異様な圧力を発する何か巨大なものがどしんと落ちてきた。
「主、『我レヲ咋(く)ハムトテ吠ケルニ非(あら)ザリケリ』ト思テ、『此奴(こやつ)ハ何(なに)ニ咋付(くひつき)タルニカ有ラム』ト見ル程ニ、空(うつほ)ノ上ヨリ器量(いかめし)キ物落ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十二・P.369」岩波書店)
狗が喰い付いた何物かの姿をよく見ると大蛇だ。胴の幅2メートルばかり、全長20メートル以上はあろうかと思われる。主人は戦慄した。それでもなお狗は大蛇の頭部に噛み付いて離さない。その間に主人は恐る恐る近づき大刀(たち)で大蛇を斬り殺した。そこでようやく狗は大蛇から退き離れた。主人は、何とそういうことだったのかと驚きながらも、次第に腑に落ちたようだ。巨木に出来た空(うつほ)にはしばしば何物かが宿るというが、そのような場合、通例は人間の目に見えない。ところがこの場合は大蛇だが、物音一つ立てず主人の頭上へすうっと降りてくる姿が、この狗だけには見えた。そこで猛然と吠え立てたというわけだ。もし主人が狗の本意に気づかず逆に狗を斬り殺していたとしたら主人は大蛇の側に喰い殺され、二度と家に帰ることはできなくなっていたに違いない。
「早(はや)ウ、木末(こずゑ)遥(はるか)ニ高キ大キナル木ノ空(うつほ)ノ中ニ、大キナル蛇ノ住ケルヲ不知(しら)ズシテ、寄臥(よりふし)タリケルヲ、呑(のま)ムト思テ蛇ノ下(おり)ケルガ頭(かしら)ヲ見テ、此ノ狗ハ踊懸リツツ吠ケル也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十二・P.369」岩波書店)
ところでこの説話がただ単なる「忠犬譚」でないことはもはや明らか。長年大切に育てられた狗だというばかりでなく、山間部での狩猟を生業とする狗山のような専門的技術者でさえ見えない妖怪〔鬼・ものの怪〕の姿がこの狗には見えたという点について少し考えよう。この狗について本文では、「数(あまた)ノ狗ノ中ニ、殊(こと)ニ勝(すぐ)レテ賢カリケル狗」、とある。猟犬としては同じでも感受性が他の猟犬とは比較にならないほどずば抜けていることを意味している。言い換えれば、この狗もまた妖怪〔鬼・ものの怪〕の一種だと考えられるわけだ。ゆえに大蛇と化して大木の空洞に棲み付いていた妖怪〔鬼・ものの怪〕の姿が見えた。
類話について、以前、熊楠が俵藤太(たわらのとうた)伝説に関して述べた巨大蜈蚣(むかで)と大蛇との闘争を描いた「今昔物語集・巻第二十六・加賀国諍蛇蜈島行人(かがのくにのへみとむかでとあらそふしまにゆきたるひと)、助蛇住島語(へみをたすけてしまにすむこと)・第九」を参照したい。そこで描かれているのは一方の妖怪〔鬼・ものの怪〕ともう一方の妖怪〔鬼・ものの怪〕との闘争であり、助けを乞うために人間姿に化けて出てきた大蛇の側を支援した船乗りたちが、勝利の後、得難い豊穣の土地を譲り受けられるという「蛇の恩返し」だった。下をクリック↓
「熊楠による熊野案内/蛇神と稲作文化圏」
さて。熊楠は「人柱の話」の中で「甲子夜話」を引き、姫路城に出現する「ヲサカベ」と呼ばれる妖魅について触れている。これもまた江戸時代になってなお「人柱」の風習が残っていた痕跡ではないかと。
「世に云ふ。姫路の城中にヲサカベと云妖魅あり。城中に年久く住りと云ふ。或云(あるひはいふ)。天守櫓(やぐら)の上層に居て、常に人の入ることを嫌ふ。年に一度、其城主のみこれに対面す。其余は人怯(おそ)れて不登。城主対面する時、妖其形を現すに老婆なりと云ふ。予過し年、雅楽頭忠以朝臣に此事を問たれば、成程世には然云(しかいう)なれど、天守の上別に替ることなし。常に上る者も有り。然れども、器物を置に不便なれば何も入れず。しかる間、常に行く人も稀なり。上層に昔より日丸の付たる胴丸壱つあり。是のみなりと語られき。其後己酉の東覲、姫路に一宿せし時、宿主に又このこと問(とは)せければ、城中に左様のことも侍り。此処にてはヲサカベとは不言、ハツテンドウと申す。天守櫓の脇に此祠有り。社僧ありて其神に事(つか)ふ。城主も尊仰せらるるとぞ」(「甲子夜話2・巻三十・二十・P.247~248」東洋文庫)
生身の人間を犠牲にしていた風習は熊楠のいうように世界中どこにでもあった。
「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)
近代になって徐々に世界は様変わりした。しかし自然災害はいつどこで発生するか予測がつかない。折衷案が提出されてくるようになる。農耕地域で発展した方法では、以前の生き埋めに代わり「人形」で代用される。次のように。
「田蟲は稼を害すること甚し、予が領内にて田の蟲づきたるときは、これを逐(おふ)に、芻(わら)を束て人形を造り、逐者これを捧げて田畔を巡行す。従ふ者は金鼓を鳴し、衆音に念仏を唱へ、鳥銃を放て勢を助く。この偶人を実盛と呼ぶ。曰。昔実盛田の辺に戦死す。その屍田中に朽て、皆蟲となると。その説笑ふべし。此如くして終は人形を田畔に居置き、銃を以てこれを打(うち)、遂に海に投ず。斯すれば蟲悉く群聚隊を作して散じ去る」(「甲子夜話5・巻八十一・六・P.381」東洋文庫)
田んぼの畔(あぜ)で祭祀を執り行う。銃殺されるのは人形である。その後、穴だらけになった人形は海中に投げ込まれ打ち棄てられる。だがその人形に背負わされたものは一体何なのか。ニーチェはいう。
「今日では科学は何とすべてを蔽い隠していることか!何と多くのものを少なくとも蔽い隠さ《なくてはならない》ことか!」(ニーチェ「道徳の系譜・第三論文・二三・P.190」岩波文庫)
一つの科学がその役割を終えるや次の科学が全盛期へ上り詰める。そしてさらに第三第四の科学が次々に登場してきては消え去っていく。これまで世界はそのような歴史を何度も繰り返してきた。今後も繰り返していくだろう。ゆえに科学もまた、或る種の「道徳」たることを免れることはできない。
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「狗山(いぬやま)」については前回述べた。普段から何頭かの犬〔狗〕を飼っておき、訓練し、猟師は山の奥深くに入る。鹿や猪を見つけると、連れて来た猟犬を巧みに操り獲物を咋殺(くひころ)させて生業にする猟法(または猟師)のこと。数日間も深い山間部に入ることが稀でない経験から、山岳地帯で発生する危険に関してはかなりの専門知識を持ち合わせている。そんな狗山であってなお思いがけない事態に遭遇することがしばしばあった。次の説話は前回取り上げたものとは趣きが違い、狗山とその飼い犬との信頼関係に関する。
或る時、「陸奥(みちのく)ノ国」(今の青森県、秋田県、宮城県、福島県)で暮らしている狗山が、いつものように猟に出かけ山に入った。何匹か連れている猟犬たちも主人の前に立ち、あるいは後ろに従い、とてもうれしそうだ。そのうち日が落ち始めた。寝ぐらを探していると「大(おほ)キナル木ノ空(うつほ)」を見つけた。今夜はこの空洞の中で休むことにしようと、粗末ながらも持ってきた胡録(やなぐひ)・弓・大刀(たち)などの武具類を大木の周囲に立てて置き、さらに火を焚いて怠らず警戒することにした。ちなみに大木の根元辺りにできる空洞は狐や山猫が棲み付いたりする一方、修験者や旅人や猟師らが一時の寝ぐらとして利用することも多かった。とりわけ天候が急変した際の雨宿りの場としてよく使われた。
さて、夜も更けて真夜中になった。数匹連れてきた狗どもはすっかり眠っている。ただ、他の狗より突出して聡明な狗がいて、常から主人は大切に可愛がって育てていた。その狗だけが突然起き出したかと思うと、主人が休んでいる大木の空(うつほ)に向けてけたたましく吠え出した。主人自身が吠えられている格好なので「なぜこちらに向かって吠えるのか」と訝しみながらすぐ傍を見渡してみたが狗が大声で吠えなければならないようなものは何一つ見当たらない。
「『此(こ)ハ何ヲ吠(ほゆ)ルニカ有ラム』ト怪ク思テ、喬平(そばひら)ヲ見レドモ、可吠(ほゆべ)キ物モ無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十二・P.368」岩波書店)
不審な物は何らないというのにこれほど吠えるのはどうしてだろうと思っていると、狗は吠えながら遂に主人の体に踊りかかってきた。数年来の愛犬ではあるものの、遂に主人のことを忘れてしまったかと、持ってきた大刀(たち)を抜いて脅してみた。けれども狗は一向に態度を変えない。こうなっては狗を斬り殺すほかないと考えた主人はいったん、休んでいた大木の狭い空(うつほ)から飛び出した。主人が大木の狭い空(うつほ)から外へ出るや狗は主人の頭上を飛び越え、空(うつほ)のさらに上へ踊り上がり、何物かに喰い付いた。
「『此(かか)ル狭(せば)キ空(うつほ)ニテ此ノ奴(やつ)咋付(くひつき)ナバ悪(あし)カリナム』ト思テ、木ノ空(うつほ)ヨリ外(と)ニ踊出(をどりいづ)ル時ニ、此ノ狗、我ガ居タリツル空(うつほ)ノ上ノ方ニ踊上(をどりあがり)テ、物ニ咋付(くひつき)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十二・P.369」岩波書店)
それを見た主人はようやく気付く。狗はおれを喰おうとしていたわけではない。とすれば一体何に、と思って見ていると、大木の空洞の上から異様な圧力を発する何か巨大なものがどしんと落ちてきた。
「主、『我レヲ咋(く)ハムトテ吠ケルニ非(あら)ザリケリ』ト思テ、『此奴(こやつ)ハ何(なに)ニ咋付(くひつき)タルニカ有ラム』ト見ル程ニ、空(うつほ)ノ上ヨリ器量(いかめし)キ物落ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十二・P.369」岩波書店)
狗が喰い付いた何物かの姿をよく見ると大蛇だ。胴の幅2メートルばかり、全長20メートル以上はあろうかと思われる。主人は戦慄した。それでもなお狗は大蛇の頭部に噛み付いて離さない。その間に主人は恐る恐る近づき大刀(たち)で大蛇を斬り殺した。そこでようやく狗は大蛇から退き離れた。主人は、何とそういうことだったのかと驚きながらも、次第に腑に落ちたようだ。巨木に出来た空(うつほ)にはしばしば何物かが宿るというが、そのような場合、通例は人間の目に見えない。ところがこの場合は大蛇だが、物音一つ立てず主人の頭上へすうっと降りてくる姿が、この狗だけには見えた。そこで猛然と吠え立てたというわけだ。もし主人が狗の本意に気づかず逆に狗を斬り殺していたとしたら主人は大蛇の側に喰い殺され、二度と家に帰ることはできなくなっていたに違いない。
「早(はや)ウ、木末(こずゑ)遥(はるか)ニ高キ大キナル木ノ空(うつほ)ノ中ニ、大キナル蛇ノ住ケルヲ不知(しら)ズシテ、寄臥(よりふし)タリケルヲ、呑(のま)ムト思テ蛇ノ下(おり)ケルガ頭(かしら)ヲ見テ、此ノ狗ハ踊懸リツツ吠ケル也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第三十二・P.369」岩波書店)
ところでこの説話がただ単なる「忠犬譚」でないことはもはや明らか。長年大切に育てられた狗だというばかりでなく、山間部での狩猟を生業とする狗山のような専門的技術者でさえ見えない妖怪〔鬼・ものの怪〕の姿がこの狗には見えたという点について少し考えよう。この狗について本文では、「数(あまた)ノ狗ノ中ニ、殊(こと)ニ勝(すぐ)レテ賢カリケル狗」、とある。猟犬としては同じでも感受性が他の猟犬とは比較にならないほどずば抜けていることを意味している。言い換えれば、この狗もまた妖怪〔鬼・ものの怪〕の一種だと考えられるわけだ。ゆえに大蛇と化して大木の空洞に棲み付いていた妖怪〔鬼・ものの怪〕の姿が見えた。
類話について、以前、熊楠が俵藤太(たわらのとうた)伝説に関して述べた巨大蜈蚣(むかで)と大蛇との闘争を描いた「今昔物語集・巻第二十六・加賀国諍蛇蜈島行人(かがのくにのへみとむかでとあらそふしまにゆきたるひと)、助蛇住島語(へみをたすけてしまにすむこと)・第九」を参照したい。そこで描かれているのは一方の妖怪〔鬼・ものの怪〕ともう一方の妖怪〔鬼・ものの怪〕との闘争であり、助けを乞うために人間姿に化けて出てきた大蛇の側を支援した船乗りたちが、勝利の後、得難い豊穣の土地を譲り受けられるという「蛇の恩返し」だった。下をクリック↓
「熊楠による熊野案内/蛇神と稲作文化圏」
さて。熊楠は「人柱の話」の中で「甲子夜話」を引き、姫路城に出現する「ヲサカベ」と呼ばれる妖魅について触れている。これもまた江戸時代になってなお「人柱」の風習が残っていた痕跡ではないかと。
「世に云ふ。姫路の城中にヲサカベと云妖魅あり。城中に年久く住りと云ふ。或云(あるひはいふ)。天守櫓(やぐら)の上層に居て、常に人の入ることを嫌ふ。年に一度、其城主のみこれに対面す。其余は人怯(おそ)れて不登。城主対面する時、妖其形を現すに老婆なりと云ふ。予過し年、雅楽頭忠以朝臣に此事を問たれば、成程世には然云(しかいう)なれど、天守の上別に替ることなし。常に上る者も有り。然れども、器物を置に不便なれば何も入れず。しかる間、常に行く人も稀なり。上層に昔より日丸の付たる胴丸壱つあり。是のみなりと語られき。其後己酉の東覲、姫路に一宿せし時、宿主に又このこと問(とは)せければ、城中に左様のことも侍り。此処にてはヲサカベとは不言、ハツテンドウと申す。天守櫓の脇に此祠有り。社僧ありて其神に事(つか)ふ。城主も尊仰せらるるとぞ」(「甲子夜話2・巻三十・二十・P.247~248」東洋文庫)
生身の人間を犠牲にしていた風習は熊楠のいうように世界中どこにでもあった。
「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)
近代になって徐々に世界は様変わりした。しかし自然災害はいつどこで発生するか予測がつかない。折衷案が提出されてくるようになる。農耕地域で発展した方法では、以前の生き埋めに代わり「人形」で代用される。次のように。
「田蟲は稼を害すること甚し、予が領内にて田の蟲づきたるときは、これを逐(おふ)に、芻(わら)を束て人形を造り、逐者これを捧げて田畔を巡行す。従ふ者は金鼓を鳴し、衆音に念仏を唱へ、鳥銃を放て勢を助く。この偶人を実盛と呼ぶ。曰。昔実盛田の辺に戦死す。その屍田中に朽て、皆蟲となると。その説笑ふべし。此如くして終は人形を田畔に居置き、銃を以てこれを打(うち)、遂に海に投ず。斯すれば蟲悉く群聚隊を作して散じ去る」(「甲子夜話5・巻八十一・六・P.381」東洋文庫)
田んぼの畔(あぜ)で祭祀を執り行う。銃殺されるのは人形である。その後、穴だらけになった人形は海中に投げ込まれ打ち棄てられる。だがその人形に背負わされたものは一体何なのか。ニーチェはいう。
「今日では科学は何とすべてを蔽い隠していることか!何と多くのものを少なくとも蔽い隠さ《なくてはならない》ことか!」(ニーチェ「道徳の系譜・第三論文・二三・P.190」岩波文庫)
一つの科学がその役割を終えるや次の科学が全盛期へ上り詰める。そしてさらに第三第四の科学が次々に登場してきては消え去っていく。これまで世界はそのような歴史を何度も繰り返してきた。今後も繰り返していくだろう。ゆえに科学もまた、或る種の「道徳」たることを免れることはできない。
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