白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/愛の居場所あるいは死んだ人妻の廃屋

2021年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

身分は侍。だから都の貴人とまったく何一つ縁がないというわけではない。だがしかし、侍といってもただ単に身分がそうだというに過ぎない。大半の場合、これといえるほど確かな職を任され安定した生活を送り続けるという最低条件からはずっと切り離されたまま貧乏のうちに生涯を終える。逆に出世などという事態は異例どころかほとんど神話に近い。ゆえに長く語り継がれもしたのである。地獄絵巻の「絵解き」=「語り」は《職業として見る限り》熊野比丘尼の専売特許だったが、地獄そのものはごく普通の生活の根幹をなしているありふれた現実だった。さて次の説話は、そんなありふれた貧乏暮らしを決定付けられた或る貧乏侍の身に突然降りかかった、意外な消息に関する。

或る時、京の都で暮らしている知り合いの官僚が思いがけず拝領の命を受け、任地に下ることになった。その官僚もただ単に名ばかりの官僚であって実情は大変貧乏していたわけだが、地方長官として改めて任官することが決まった。そこで俄かに貧乏侍にも声が掛かる。これまで互いに貧乏してきたことだし、お前さんも配下としてで良ければ一緒に行かないかと誘ってくれた。瞬間、貧乏侍の頭の中で何かが転倒した。

貧乏侍には何年間か連れ添ってきた妻がいた。世帯はなるほど貧乏続きで耐えがたい。けれども妻は特に愚痴をこぼすわけでなく、むしろ依然として若い容姿はけっして悪いと思えないし、何よりその心持ちが健気で愛しく感じる。なのでもはや別れることはないだろうと思って疑っていなかった。しかし事情が急転した。地方とはいえ新天地である。自分の領地も持てる。貧乏侍は貧乏でなくなる。そう思うやこれまで連れ添ってきた妻と離縁し、新しく財力のある家から新妻を娶った。富裕層の中で育った女性は富裕層なりに夫の身分に見合った下向の準備を夫の分と合わせて二人分、手っ取り早く済ませた。そして侍は新妻を連れて任地へ下っていった。

「侍、年来棲(すみ)ケル妻(め)ノ有(あり)ケルガ、不合(ふがぐ)ハ難堪(かへがた)カリケレドモ、年モ若ク、形(かた)チ・有様モ宜(よろし)ク、心様(こころざま)ナドモ労(らう)タカリケレバ、身ノ貧(まづし)サヲモ不顧(かへりみ)ズシテ、互(たがひ)ニ難去(さりがた)ク思ヒ渡(わたり)ケルニ、男、遠キ国ヘ下(くだり)ナムト為(す)ルニ、此ノ妻ヲ去(さり)テ、忽ち(たちまち)ニ便(たよ)リ有ル他(ほか)ノ妻ヲ儲(まうけ)テケリ。其ノ妻、万(よろづ)ノ事ヲ繚(あつかひ)テ出(いだ)シ立(たて)ケレバ、其ノ妻ヲ具(ぐ)シテ国ニ下(くだり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十四・P.135」岩波書店)

任地に到着するとしばらく忙しい日々が続くのは今でもそうだ。当時は常識。しかし或る程度仕事をこなして数年もするとそれなりに富裕にはなってくるし実際そうなってきた。するとかつて棄て去るがごとくに離縁した前の妻のことが思い出されてくる。あの忌まわしい貧乏生活に耐え、いつもの愛嬌で夫を出迎え、甲斐々々しく立ち働いてくれていた妻。思えば貧乏から抜け出せなかったのは妻の責任ではまったくない。むしろ不甲斐ないのはこれといった定職に付けない夫の側であり、さらにその背後に聳え立つ梃子(てこ)でも動かぬ平安京の鉄の身分制という社会制度の壁が強大な軍事力と共にのしかかっていたからである。前妻は今頃どうしているだろうかと頭をよぎる。一度思い出すともう頭にこびりついて離れない。自分の側から離縁したにもかかわらず富裕になってから先妻のことを懐かしく思い出すとは、しかしこれまた、たわけ切った思い上がりではある。だからといって、簡単に自分で自分自身の精神状態を上手くコントロールできる人間などそういるわけでもない。とうとう「肝(きも)・身ヲ剥(は)グ如ク也ケレバ、万(よろ)ヅ心スゴクテ過(すぐし)ケル」というふうに、五臓六腑が引き裂かれ殺伐たる心境に陥る。心の中を覗くとそこにはただただ殺風景に荒れ果て、白々しく乾ききった砂漠が埃を舞い上げながら茫々と広がっているばかりだ。

何年経っただろうか。やるせない虚しさのうちにようやく遠国での任務を終えて京へ戻ることになった。都へ入るや旅装束のまま前に住んでいた家の門を開いて転がり込んだ。月明かりが周囲を照らし出している。ところがかつて住んでいた家の庭は言葉もないほど荒れ果て様変わりしている。季節は夜寒(よさむ)。日が落ちれば途端に寒さが身に迫ってくる頃だ。侍は帰ってきたけれども、物音一つしない庭にぽつりと胸が締め付けられる思いに駆られる。絶望的になりながらも家の中に入って様子を探ってみる。と、かつて妻が座っていた定位置に、同じようにして妻が座っているではないか。気付いたのか、「あら、いつ帰ってこられたのです」、とうれしそうな顔で迎えてくれた。二人とも積もる話がたくさんあったのだろう、たちまち夜更けになった。侍はもうこんな時間、さあ寝ようと言い、妻と共にいつも使っていた床で骨が折れるほど抱き合い始めた。侍が誰か他に人はいるかと聞くと先妻はこれほど貧乏暮らしが続いたので下男も下女も一人もいませんと答えた。誰も見ていないと知った侍は夜通し先妻の体を抱きながら悲しいほど何度も何度も契りを交わし合った。

「夜モ更深(ふけ)ヌレバ、『今ハ、去来(いざ)寝(ね)ナム』トテ、南面(みなみおもて)ノ方ニ行(ゆき)テ、二人掻抱(かきいだき)テ臥(ふ)シヌ。男、『此(ここ)ニハ人ハ無キカ』ト問ヘバ、女、『破無(わりな)キ有様ニテ過(すぐし)ツレバ、被仕(つかはる)ル者モ無シ』ト云(いひ)テ、長キ夜ニ終夜(よもすがら)語(かたら)フ程ニ、例(れい)ヨリハ身ニ染(し)ム様(やう)ニ哀レニ思(おぼ)ユ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十四・P.136」岩波書店)

なお、「終夜(よもすがら)語(かたら)フ」とあるのは言うまでもなく一晩中「よもやま話に惚ける」という意味ではない。両者とも待ち望んでいた男女の「語(かたら)ひ」という観点から「源氏物語」を参照。

「そのころは夜離(よが)れなく語(かた)らひ給(たまう)」(新日本古典文学大系「明石」『源氏物語2・P.81」岩波書店)

源氏は一日たりとも間を置かず明石君(あかしのきみ)のもとに通い詰めていた。さらにだめ押し的だがほぼ同時に明石君の妊娠が判明するのでそれとわかる。

またこうも。

「ただ、あだにうち見(み)る人のあさはかなる語(かた)らひだに、見馴(みな)れそなれて、別(わか)るるほどはただならざめるを」(新日本古典文学大系「松風」『源氏物語2・P.194」岩波書店)

よくある遊びのような単なるかりそめの一夜でさえ慣れ親しんでくると普段通りに振る舞ってばかりもいられなくなるというのに、まさか別れるなんて、尋常一様でいられましょうか。という意味。「源氏物語」を開く。と、しばしば「狂気」の影がふっとよぎって見えるのはこういう時だ。

それはさておき。何年かぶりに再会した二人は疲れてへとへとになるまで性行為に耽った。長い秋の夜も少しずつ白み始めた頃ようやく眠りについた。先に目を覚ました侍は人手の入っていない窓に気づく。そしてその下部分を立て、上から陽の光が差し込むように開いた。「鑭々(きらきら)ト指入(さしいり)タル」朝日に照らし出された光景。侍の目の前には二人して夜通し性愛に耽り込んでいたはずの先妻が、廃屋の隅で枯れ果てて骨と皮ばかりの死体姿で横たわっていた。

「夜前(よべ)人モ無(なかり)シカバ、蔀(しとみ)ノ本(もと)ヲバ立(たて)テ、上(うへ)ヲバ不下(おろさ)ザリケルニ、日ノ鑭々(きらきら)ト指入(さしいり)タルニ、男打驚(うちおどろき)テ見レバ、掻抱(かきいだき)テ寝タル人ハ、枯々(かれかれ)ト干(かれ)テ骨ト皮ト許(ばかり)ナル死人(しにん)也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十四・P.136~137」岩波書店)

たまげた侍は慌てて水干袴(すいかんばかま)を身に付け、隣の家に事情を尋ねに走った。長年家を空けていたものだから今始めて会ったかのような挨拶なのだがそれもそこそこに、隣の家の人はどうなったとか、もしや聞いてなさらないかと。

「此ノ隣ナリシ人ハ何(いづ)コニ侍ル、トカ聞給(ききたま)フ。其ノ家ニハ人モ無キカ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十四・P.137」岩波書店)

隣家の人はいう。長年一緒だった男性が地方のお役人になられたとかで奥さんと離縁して、赴任先へ出かけたきり音沙汰一つなかったようです。しばらくのあいだ残された奥さんは大変思い詰めた様子でした。それがとうとう体調を崩してしまい、世話をする類縁の人たちもなかったらしくこの夏に亡くなりました。だから家の中には死体が放置されたまま。怖くて誰も近づかない状態でもはや荒れ放題になっているはずですよ。

「其ノ人ハ、年来(としごろ)ノ男ノ去(さり)テ遠国(をんごく)ニ下(くだり)ニシカバ、其レヲ思ヒ入(いり)テ嘆キシ程ニ、病付(やまひつき)テ有(あり)シヲ、繚(あつか)フ人モ無クテ、此ノ夏失(うせ)ニシヲ、取(とり)テ棄(す)ツル人モ無ケレバ、未(いま)ダ然(さ)テ有ルヲ、恐(おぢ)テ寄ル人モ無クテ、家ハ徒(いたづら)ニテ侍ル也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十四・P.137」岩波書店)

とはいえ、この説話では妻は鬼になっていない。鬼に喰われたわけでもない。妻がもし鬼と化していたなら半ば強引とも言える方法で自分を棄て去った夫が帰ってくるのを待って、隙を見て喰い殺していただろう。しかし話はそうなっていない。むしろ安易な形であれ自分を棄て去った夫が帰ってくるのを廃屋で待っており、死んだ後もなおかつ待っている。死んでなおみずみずしい体で出現し、二人で共に最後の一夜を堪能した後、遂に本当に死に果てる。この場合、女性は二度死ぬ。一度目は実在する人間として。二度目は幽霊として。だからこの説話のどこにも鬼はいない。ただ、事情をまとめて説明するために登場する隣人を除けば、四名の「正直者」だけが出てきてその誰もがひたすら正直に振る舞ったというに過ぎない。随分後の出版になるが、有名な類話がある。

「熟(つらつら)おもふに、妻は既(すで)に死(まかり)て、今は狐狸の住(み)かはりて、かく野らなる宿となりたれば、怪(あや)しき鬼(もの)の化(け)してありし形(かたち)を見せつるにてぞあるべき。若(もし)又我を慕(した)ふ魂(たま)のかへり来りてかたりぬるものか」(日本古典文学体系「浅茅が宿」『上田秋成集・雨月物語・巻之二・P.66』岩波書店)

なお、「野らなる宿」の「野ら」について次を参照。

「里はあれて人はふりにしやどなれや庭もまがきも秋の野らなる」(「古今和歌集・巻第四・二四八・僧正遍昭・P.73」岩波文庫)

また「魂(たま)」について、熊楠によれば次のケースに近い。

「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)自殺して三日なるに、みずから髪を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果たして薨じたまえる由を載す。ただし、魂を結び留めしこと見えず」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.264』河出文庫)

さらに。自分の体はそのままだが、かつての家は荒れ果てて廃屋となり妻も死んでしまい世情も随分変わったものだ、と「伊勢物語」にある。

「月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」(新潮日本古典集成「伊勢物語・四・在原業平・P.16」新潮社)

秋成の場合は小説の進行上、当然のことながら「かたりぬる」=「一夜限りの性行為」である。そして亡き妻の墓標として塚が築かれるわけだが、その場所は家の中で夫婦がずっと「閨房(ふしど)」=「ベッド」に使っていた箇所。また鬼かどうかという点について、「怪(あや)しき鬼(もの)の化(け)」としており、明確に正体が明かされているわけではない。それにしても「今昔物語・巻第二十七・人妻(ひとのめ)、死後会旧夫語(しにてのちもとのをうとにあふこと)・第二十四」に登場する「妻」の場合、もし妖怪〔鬼・ものの怪〕でないとしたらまるで観音にも等しい。なお、性欲の対象として屍体にしか関心を持たない人々は少数ながら今なおいるということも書き添えておくべきだろう。というのも逆に、ありとあらゆる性的接触を拒絶・回避する人々もいるのだから。だとしても熊楠がいうようにその原因は唯一ではない。

「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫)

人間は今なお高度テクノロジーと共に夢と現との境界を彷徨い歩いているに過ぎないのだろうか。とすれば「高度テクノロジー」とは何か。それもまたつい最近になって現われたばかりの新しい「信仰」にほかならないのかも知れない。

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