回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
或る時、近江守(あふみのかみ)の臣下らが揃って「基(ご)・双六(すぐろく)」など「万(よろづ)ノ遊(あそび)」に打ち興じ、「物食(くひ)酒飲(のみ)」ながら盛大な宴(うたげ)を張っていた。各自持ち寄った物語を披露いていると、誰かれとなく「安義(あき)ノ橋」について知っているかと言い出した。何でも、古くから人々が普通に通っていた橋なのだが昨今は誰一人として渡る人もない。妖怪〔鬼・ものの怪〕絡みの怪しい噂になっているらしいと。予備知識を少し。
「安義(あき)ノ橋」。かつて近江国蒲生(がもう)郡安吉(あき)郷安吉(あき)川(現・日野川)に架かっていた橋。新調された後も場所は変わっておらず、日野川を挟んで滋賀県近江八幡市倉橋部町(くらはしべちょう)と蒲生郡竜王町弓削(ゆげ)・信濃(しなの)・庄(しょう)付近とを結ぶ。県道14号(近江八幡竜王線)を車で渡ればあっという間なので何だかわからなくなってしまいがちだが「安吉橋」は今なお残る。
さらに後白河院「梁塵秘抄」では近江関連の歌枕として登場する。
「近江(あふみ)にをかしき歌枕 老曾(おいそ) 轟(とどろき) 布施(ふせ)の池 安吉(あき)の橋」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三二五・P.138」新潮社)
この「今昔物語」の説話では琵琶湖の東側・中山道が舞台となっているので「梁塵秘抄」の該当箇所で湖東について書かれた地名を追ってみよう。
まず「老曾(おいそ)」。今の「滋賀県近江八幡市安土町東老蘇」周辺の「老蘇(おいそ)の森(もり)」を指す。古代から歌枕として有名。藤原定家や兼好も和歌に詠んでいる。
「世やはうき霜より霜に結びおくおいその杜のもとのくち葉は」(「藤原定家歌集・拾遺愚草・下・P.179」岩波文庫)
「のがれえぬ老(おい)その杜(もり)のもみぢばは散(ち)りかひくもるかひなかりけり」(新日本古典文学体系「兼好法師集・二八三」『中世和歌集・室町編・P.60』岩波書店)
さらに「轟(とどろき)」は「安義(あき)」と同様、橋の名。今の滋賀県近江八幡市安土町東老蘇(ひがしおいそ)にある「轟(とどろき)橋」。
そして「布施(ふせ)の池」。滋賀県東近江市布施町にかってあった「布施(ふせ)の溜池(ためいけ)」。今も布施公園内に整備されており主として野鳥観察の名所になっている。ちなみに熊楠の好きそうな珍しい植物も多く見られる。
さて、鬼か何か知らないがおれが正体を暴いて見せようと一人の武士が名乗り出る。準備を怠ることなく近江守(あふみのかみ)の役所にいる馬の中で最も優れた名馬を借り受け、手に鞭を頑丈に巻き付け、馬の尻には油を十分塗り込んで例の橋へと出かけた。だんだん人影はまばらになり人里はすでに遠い。威勢よく出かけはしたものの気味悪さは増してくるばかり。ようやく橋のたもとに着いた。渡らなければ無意味である。引き返すという選択肢はない。と、それほど明瞭ではないが橋の半ば辺りに人の姿が見える。武士は「もしや鬼か」と思いながら歩を進め、どきどきしつつもよく観察してみる。女性のようだ。薄い紫のような藍のような色の衣に濃い紫色か紅色の袴を艶っぽく流した服装。口元を手や袖で覆い隠して恥じらっている様子が何ともいじらしく見える。橋の高欄に身を任せ遠くを打ち眺めているかのような風情に哀愁が漂う。ふと武士の姿を認めると恥ずかしながらも人の姿が見えたのでうれしげな様子を見せた。
「薄色(うすいろ)ノ衣(きぬ)ノナヨヨカナルニ、濃キ単(ひとへ)、紅(くれなゐ)ノ袴長ヤカニテ、口覆(くちおほひ)シテ、破無(わりな)ク心苦気(こころぐるしげ)ナル眼見(まみ)ニテ、女居タリ。打長(うちなが)メタル気色(けしき)モ哀気(あはれげ)也。我レニモ非(あら)ズ、人ノ落シ置タル気色ニテ、橋ノ高欄(かうらん)ニ押懸(おしかかり)テ居タルガ、人ヲ見テ、恥カシ気ナル物カラ喜(うれし)ト思ヘル様(さま)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・110」岩波書店)
武士は実をいうと「落懸(おちかかり)ヌベク哀レニ」思う。誰も見ていないことだ。今すぐにでも馬から飛び降りて女性の体にむしゃぶりつきたいと考える。しかしもし万が一本当に鬼が化けているとすれば取って喰われるのは武士の側だ。悩ましく湧き起こる性欲をぐっとこらえて無視し、無言でその場を立ち去ろうとした。すると女性はいう。あの、あなた様。どのような方か存じませんけれど、こんなところで一人でどうしようかと思いあぐねている女を見て、なのに見棄てて行かれるご様子。人里まで一緒に連れて行って下さいませんか。
「耶(や)、彼(あ)ノ主(ぬし)、何(な)ドカ糸情無(いとなさけな)クテハ過ギ給フ。奇異(あさまし)ク不思懸(おもひかけ)ヌ所ニ、人ノ棄(すて)テ行タル也。人郷(ひとざと)マデ将御(ゐておは)セ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・111」岩波書店)
しかしなお武士は無視して通り過ぎようとした。すると女性は「なんて思いやりのない人」と地面を轟かせんばかりの唸り声を上げて武士の後を猛然と走りながら追いかけてくる。
「此ノ女、『穴情無(あななさけな)』ト云フ音(こゑ)、地(ぢ)ヲ響カス許(ばかり)也。立走(たちはしり)テ来(く)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・111」岩波書店)
武士は馬に鞭を当てて一目散に逃げようとする。観音に祈りもする。だがもはや鬼と化した女性は馬に追いついた。しかしあらかじめ馬の尻にたっぷり油を塗り込んでおいたため、女性の手は上手く馬の尻を捉えることができない。武士は振り返って相手の姿を見る。ついさっきまでとても健気そうな女性姿だったはずが、次のように変貌している。
「面(おもて)ハ朱(しゆ)ノ色ニテ円座(わらふだ)ノ如ク広クシテ、目一ツ有リ。長(たけ)ハ九尺許(ばかり)ニテ、手ノ指(および)三ツ有リ。爪ハ五寸許ニテ刀ノ様(やう)也。色ハ禄青(ろくしやう)ノ色ニテ、目ハ琥珀(こはく)ノ様也。頭(かしら)ノ髪ハ蓬(よもぎ)ノ如ク乱レテ、見ルニ心肝迷(ここちきもまど)ヒ、怖シキ事無限(かぎりな)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・111」岩波書店)
ここで重要なのは、「目一ツ、長(たけ)ハ九尺許(ばかり)、手ノ指(および)三ツ、爪ハ五寸許ニテ刀ノ様(やう)、色ハ禄青(ろくしやう)、目ハ琥珀(こはく)、髪ハ蓬(よもぎ)ノ如ク乱レ」、と書かれていること。柳田國男から何度か引用しているように「目一ツ」は「鬼」とばかりは限らない。「神」でもある。
「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画をかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明(せんみょう)することを得たので勢力が生じ、しかも多分は本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれが罷(や)んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬(いが)や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。目を一つにする手続もおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向っては大分後代までなお行われ、一方にはまた以前の御霊の片目であったことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかったのである」(柳田國男「一目小僧その他・二十一」『柳田國男全集6・P.267~268』ちくま文庫)
また「古語拾遺」にこうある。
「斎部氏をして石凝姥神(いしこりどめのかみ)が裔(すゑ)・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が裔の二氏を率て、更に鏡を鋳(い)、剣を造らしめて、護(まもり)の御璽(みしるし)と為す。是、今践祚(あまつひつぎしろしめ)す日に、献る神璽(みしるし)の鏡・剣なり」(「古語拾遺・P.31」岩波文庫)
「一つ目・三つ目」あるいは古代ギリシア神話のメデューサ(蛇と化した無数の頭髪)。その過剰=逸脱にこそ妖怪〔鬼・ものの怪〕の資格は宿る。
「祝祭の風聞は陸路と海路とを問わずあらゆる道からギリシャ人に伝えられたのであるが、その熱狂的な激情にたいして彼らは、ここに防ぎ守られているかに見えた、しかしこのアポロンにしても、そのメデュサの頭を以って対抗し得る相手として、醜悪奇形なディオニュソス的な力にもまして危険な力はなかったのである。アポロンのこの威風堂々人を寄せつけぬ儀容を永遠化したものが、すなわちかのドリス式芸術である」(ニーチェ「悲劇の誕生・P.40」ちくま学芸文庫)
武士はやっとの思いで橋を渡り人里に入る。鬼はいう。いいだろう、そのうちまた会わないわけにはいかないのだから、と。一方、武士はいったん役所に顔を出して昨夜のいきさつを同僚らに語って聞かせる。家に帰ると家族や使用人らにも語った。しばらくすると、家の中で意味不明の怪異な出来事が発生するようになった。何かの前兆かもしれないと陰陽師を呼んで占わせると或る決まった日に厳重に物忌みするようにとのこと。そしてその日がやって来た。武士が物忌みして家内に籠っていたその日、陸奥守(みちのくのかみ)に付き従って東北に赴任していた弟が帰ってきた。余りに厳重な物忌みのために中に入れない。そこで弟は家の外から声を上げて兄に言った。もう日暮れだし、自分一人だけでなくたくさんの荷物もあります。良き日を選んで帰ってきたわけですが、それ以上に老人なので共に陸奥国へ連れて行った母上が亡くなったのです。その話もしなくてはいけないと思っているのですが。
「糸破無(いとわりな)キ事也。日モ暮(くれ)ニタリ。己(おのれ)一人コソ外(ほか)ニモ罷(まか)ラメ、若干(そこばく)ノ物共ヲバ何(いか)ガセム。日次(ひつい)デノ悪(あし)ク侍レバ、今日ハ態(わざ)ト詣来(まうでき)ツル也。彼(か)ノ老人(おいびと)ハ早(はや)ウ失給(うせたま)ヒニシカバ、其ノ事モ自(みづか)ラ申サム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・112」岩波書店)
しばらく顔を見なかった母が死んだと聞かされた兄は胸の潰れる衝撃を受けた。そしてまた、家の中で何か奇異な現象が起こるので心配していたが、その理由は鬼ではなく母が死んでいたことの虫の知らせだったのかも知れないと兄は考えた。そこで弟を迎え入れ、東北での話など色々とし合いながら二人で食事を取った。兄も弟も泣いている様子。しばらくして兄の妻が簾越しに見ると兄弟が突然取っ組み合いの喧嘩を始めた。兄は妻に言う。枕元の大刀(たち)を取ってきてほしいと。普段身に付ける刀とは違い、枕元に置く大刀は魔除けの意味を持つとされていた。
「其ノ枕ナル大刀(たち)取テ遣(おこ)セヨ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・112」岩波書店)
妻は現場を見て余りの不可解さに、夫が狂ってしまったようにしか思われない。しかしなお、早く大刀(たち)を取って来て寄越せ、でなければおれに死ねというのかと。
「尚(なほ)遣(おこ)セヨ。我レ死ネトヤ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・112」岩波書店)
その間、組み敷かれていた弟が今度は兄の上に馬乗りになったかと思うとすかさず兄の首に喰い付いて切り落としてしまった。あっけに取られている妻を振り返ったその顔は、夫が橋の上で逃げ切ったはずの鬼の容貌をしている。鬼はにやりと笑ったかと思うと、ふいに消え失せた。
「下ナル弟押返(おしかへ)シテ、兄ヲ下ニ押成(おしな)シテ、頸(くび)ヲフツト咋切落(くひきりおと)シテ、踊下(をどりおり)テ行クトテ、妻ノ方ニ見返リ向(むかひ)テ、『喜(うれし)ク』ト云フ顔ヲ見レバ、彼ノ『橋ニテ被追(おはれ)タリキ』ト語リシ鬼ノ顔ニテ有リ。掻消(かきけ)ツ様(やう)ニ失(うせ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・112~113」岩波書店)
また、陸奥国(みちのくのくに)は有名な良馬の産地であり、土産として連れ帰ってきた中にあったと考えられる。けれども鬼が消え失せるとともにそれら財宝も雑多な物の頭蓋骨や何でもない破片を残すばかりとなっていた。
「若干(そこば)ク取置とりおき)ケル物共、馬ナドト見ケルハ、万(よろづ)ノ物ノ骨頭(かしら)ナドニテゾ有ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・113」岩波書店)
鬼の逆襲があったという話は周辺を駆け巡り、遂に「安義(あき)ノ橋」でミソギの祭祀が挙行された。その後、鬼は出現することはなくなったという。だがもう少し考えてみたい。
まず第一に「安義(あき)ノ橋」には鬼が出るという話がある。第二にそれが本当だということが明らかになり武勇を誇る武士までが首を噉(くら)われ引き千切(ちぎ)られて殺される。ここまではまだ、橋の一方のたもとからもう一方のたもとまでは鬼の領域である。ところが第三に朝廷軍側自ら祭祀を挙行する。それ以降、鬼は橋から消える。要するにこの橋は、正式に行われた祭祀を以って遂に朝廷軍の傘下に入ったということを意味する。「安義(あき)ノ橋」の鬼はとうとう、何にでも変身可能な貨幣として振る舞う力を譲り渡すこととなった。
再び「梁塵秘抄」に戻ってみよう。先に述べたように歌枕として上げられたどの土地も古くから「水と森と」に深く関係している。太古の熊野の森がそうだったように。平安時代の近江国を通り過ぎる中山道の場合、東国へ下る際あるいは東国から京へ上る際、避けて通れない一つの賭けとして「安義(あき)ノ橋」は機能したのである。
BGM1
BGM2
BGM3
或る時、近江守(あふみのかみ)の臣下らが揃って「基(ご)・双六(すぐろく)」など「万(よろづ)ノ遊(あそび)」に打ち興じ、「物食(くひ)酒飲(のみ)」ながら盛大な宴(うたげ)を張っていた。各自持ち寄った物語を披露いていると、誰かれとなく「安義(あき)ノ橋」について知っているかと言い出した。何でも、古くから人々が普通に通っていた橋なのだが昨今は誰一人として渡る人もない。妖怪〔鬼・ものの怪〕絡みの怪しい噂になっているらしいと。予備知識を少し。
「安義(あき)ノ橋」。かつて近江国蒲生(がもう)郡安吉(あき)郷安吉(あき)川(現・日野川)に架かっていた橋。新調された後も場所は変わっておらず、日野川を挟んで滋賀県近江八幡市倉橋部町(くらはしべちょう)と蒲生郡竜王町弓削(ゆげ)・信濃(しなの)・庄(しょう)付近とを結ぶ。県道14号(近江八幡竜王線)を車で渡ればあっという間なので何だかわからなくなってしまいがちだが「安吉橋」は今なお残る。
さらに後白河院「梁塵秘抄」では近江関連の歌枕として登場する。
「近江(あふみ)にをかしき歌枕 老曾(おいそ) 轟(とどろき) 布施(ふせ)の池 安吉(あき)の橋」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三二五・P.138」新潮社)
この「今昔物語」の説話では琵琶湖の東側・中山道が舞台となっているので「梁塵秘抄」の該当箇所で湖東について書かれた地名を追ってみよう。
まず「老曾(おいそ)」。今の「滋賀県近江八幡市安土町東老蘇」周辺の「老蘇(おいそ)の森(もり)」を指す。古代から歌枕として有名。藤原定家や兼好も和歌に詠んでいる。
「世やはうき霜より霜に結びおくおいその杜のもとのくち葉は」(「藤原定家歌集・拾遺愚草・下・P.179」岩波文庫)
「のがれえぬ老(おい)その杜(もり)のもみぢばは散(ち)りかひくもるかひなかりけり」(新日本古典文学体系「兼好法師集・二八三」『中世和歌集・室町編・P.60』岩波書店)
さらに「轟(とどろき)」は「安義(あき)」と同様、橋の名。今の滋賀県近江八幡市安土町東老蘇(ひがしおいそ)にある「轟(とどろき)橋」。
そして「布施(ふせ)の池」。滋賀県東近江市布施町にかってあった「布施(ふせ)の溜池(ためいけ)」。今も布施公園内に整備されており主として野鳥観察の名所になっている。ちなみに熊楠の好きそうな珍しい植物も多く見られる。
さて、鬼か何か知らないがおれが正体を暴いて見せようと一人の武士が名乗り出る。準備を怠ることなく近江守(あふみのかみ)の役所にいる馬の中で最も優れた名馬を借り受け、手に鞭を頑丈に巻き付け、馬の尻には油を十分塗り込んで例の橋へと出かけた。だんだん人影はまばらになり人里はすでに遠い。威勢よく出かけはしたものの気味悪さは増してくるばかり。ようやく橋のたもとに着いた。渡らなければ無意味である。引き返すという選択肢はない。と、それほど明瞭ではないが橋の半ば辺りに人の姿が見える。武士は「もしや鬼か」と思いながら歩を進め、どきどきしつつもよく観察してみる。女性のようだ。薄い紫のような藍のような色の衣に濃い紫色か紅色の袴を艶っぽく流した服装。口元を手や袖で覆い隠して恥じらっている様子が何ともいじらしく見える。橋の高欄に身を任せ遠くを打ち眺めているかのような風情に哀愁が漂う。ふと武士の姿を認めると恥ずかしながらも人の姿が見えたのでうれしげな様子を見せた。
「薄色(うすいろ)ノ衣(きぬ)ノナヨヨカナルニ、濃キ単(ひとへ)、紅(くれなゐ)ノ袴長ヤカニテ、口覆(くちおほひ)シテ、破無(わりな)ク心苦気(こころぐるしげ)ナル眼見(まみ)ニテ、女居タリ。打長(うちなが)メタル気色(けしき)モ哀気(あはれげ)也。我レニモ非(あら)ズ、人ノ落シ置タル気色ニテ、橋ノ高欄(かうらん)ニ押懸(おしかかり)テ居タルガ、人ヲ見テ、恥カシ気ナル物カラ喜(うれし)ト思ヘル様(さま)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・110」岩波書店)
武士は実をいうと「落懸(おちかかり)ヌベク哀レニ」思う。誰も見ていないことだ。今すぐにでも馬から飛び降りて女性の体にむしゃぶりつきたいと考える。しかしもし万が一本当に鬼が化けているとすれば取って喰われるのは武士の側だ。悩ましく湧き起こる性欲をぐっとこらえて無視し、無言でその場を立ち去ろうとした。すると女性はいう。あの、あなた様。どのような方か存じませんけれど、こんなところで一人でどうしようかと思いあぐねている女を見て、なのに見棄てて行かれるご様子。人里まで一緒に連れて行って下さいませんか。
「耶(や)、彼(あ)ノ主(ぬし)、何(な)ドカ糸情無(いとなさけな)クテハ過ギ給フ。奇異(あさまし)ク不思懸(おもひかけ)ヌ所ニ、人ノ棄(すて)テ行タル也。人郷(ひとざと)マデ将御(ゐておは)セ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・111」岩波書店)
しかしなお武士は無視して通り過ぎようとした。すると女性は「なんて思いやりのない人」と地面を轟かせんばかりの唸り声を上げて武士の後を猛然と走りながら追いかけてくる。
「此ノ女、『穴情無(あななさけな)』ト云フ音(こゑ)、地(ぢ)ヲ響カス許(ばかり)也。立走(たちはしり)テ来(く)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・111」岩波書店)
武士は馬に鞭を当てて一目散に逃げようとする。観音に祈りもする。だがもはや鬼と化した女性は馬に追いついた。しかしあらかじめ馬の尻にたっぷり油を塗り込んでおいたため、女性の手は上手く馬の尻を捉えることができない。武士は振り返って相手の姿を見る。ついさっきまでとても健気そうな女性姿だったはずが、次のように変貌している。
「面(おもて)ハ朱(しゆ)ノ色ニテ円座(わらふだ)ノ如ク広クシテ、目一ツ有リ。長(たけ)ハ九尺許(ばかり)ニテ、手ノ指(および)三ツ有リ。爪ハ五寸許ニテ刀ノ様(やう)也。色ハ禄青(ろくしやう)ノ色ニテ、目ハ琥珀(こはく)ノ様也。頭(かしら)ノ髪ハ蓬(よもぎ)ノ如ク乱レテ、見ルニ心肝迷(ここちきもまど)ヒ、怖シキ事無限(かぎりな)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・111」岩波書店)
ここで重要なのは、「目一ツ、長(たけ)ハ九尺許(ばかり)、手ノ指(および)三ツ、爪ハ五寸許ニテ刀ノ様(やう)、色ハ禄青(ろくしやう)、目ハ琥珀(こはく)、髪ハ蓬(よもぎ)ノ如ク乱レ」、と書かれていること。柳田國男から何度か引用しているように「目一ツ」は「鬼」とばかりは限らない。「神」でもある。
「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画をかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明(せんみょう)することを得たので勢力が生じ、しかも多分は本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれが罷(や)んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬(いが)や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。目を一つにする手続もおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向っては大分後代までなお行われ、一方にはまた以前の御霊の片目であったことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかったのである」(柳田國男「一目小僧その他・二十一」『柳田國男全集6・P.267~268』ちくま文庫)
また「古語拾遺」にこうある。
「斎部氏をして石凝姥神(いしこりどめのかみ)が裔(すゑ)・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が裔の二氏を率て、更に鏡を鋳(い)、剣を造らしめて、護(まもり)の御璽(みしるし)と為す。是、今践祚(あまつひつぎしろしめ)す日に、献る神璽(みしるし)の鏡・剣なり」(「古語拾遺・P.31」岩波文庫)
「一つ目・三つ目」あるいは古代ギリシア神話のメデューサ(蛇と化した無数の頭髪)。その過剰=逸脱にこそ妖怪〔鬼・ものの怪〕の資格は宿る。
「祝祭の風聞は陸路と海路とを問わずあらゆる道からギリシャ人に伝えられたのであるが、その熱狂的な激情にたいして彼らは、ここに防ぎ守られているかに見えた、しかしこのアポロンにしても、そのメデュサの頭を以って対抗し得る相手として、醜悪奇形なディオニュソス的な力にもまして危険な力はなかったのである。アポロンのこの威風堂々人を寄せつけぬ儀容を永遠化したものが、すなわちかのドリス式芸術である」(ニーチェ「悲劇の誕生・P.40」ちくま学芸文庫)
武士はやっとの思いで橋を渡り人里に入る。鬼はいう。いいだろう、そのうちまた会わないわけにはいかないのだから、と。一方、武士はいったん役所に顔を出して昨夜のいきさつを同僚らに語って聞かせる。家に帰ると家族や使用人らにも語った。しばらくすると、家の中で意味不明の怪異な出来事が発生するようになった。何かの前兆かもしれないと陰陽師を呼んで占わせると或る決まった日に厳重に物忌みするようにとのこと。そしてその日がやって来た。武士が物忌みして家内に籠っていたその日、陸奥守(みちのくのかみ)に付き従って東北に赴任していた弟が帰ってきた。余りに厳重な物忌みのために中に入れない。そこで弟は家の外から声を上げて兄に言った。もう日暮れだし、自分一人だけでなくたくさんの荷物もあります。良き日を選んで帰ってきたわけですが、それ以上に老人なので共に陸奥国へ連れて行った母上が亡くなったのです。その話もしなくてはいけないと思っているのですが。
「糸破無(いとわりな)キ事也。日モ暮(くれ)ニタリ。己(おのれ)一人コソ外(ほか)ニモ罷(まか)ラメ、若干(そこばく)ノ物共ヲバ何(いか)ガセム。日次(ひつい)デノ悪(あし)ク侍レバ、今日ハ態(わざ)ト詣来(まうでき)ツル也。彼(か)ノ老人(おいびと)ハ早(はや)ウ失給(うせたま)ヒニシカバ、其ノ事モ自(みづか)ラ申サム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・112」岩波書店)
しばらく顔を見なかった母が死んだと聞かされた兄は胸の潰れる衝撃を受けた。そしてまた、家の中で何か奇異な現象が起こるので心配していたが、その理由は鬼ではなく母が死んでいたことの虫の知らせだったのかも知れないと兄は考えた。そこで弟を迎え入れ、東北での話など色々とし合いながら二人で食事を取った。兄も弟も泣いている様子。しばらくして兄の妻が簾越しに見ると兄弟が突然取っ組み合いの喧嘩を始めた。兄は妻に言う。枕元の大刀(たち)を取ってきてほしいと。普段身に付ける刀とは違い、枕元に置く大刀は魔除けの意味を持つとされていた。
「其ノ枕ナル大刀(たち)取テ遣(おこ)セヨ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・112」岩波書店)
妻は現場を見て余りの不可解さに、夫が狂ってしまったようにしか思われない。しかしなお、早く大刀(たち)を取って来て寄越せ、でなければおれに死ねというのかと。
「尚(なほ)遣(おこ)セヨ。我レ死ネトヤ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・112」岩波書店)
その間、組み敷かれていた弟が今度は兄の上に馬乗りになったかと思うとすかさず兄の首に喰い付いて切り落としてしまった。あっけに取られている妻を振り返ったその顔は、夫が橋の上で逃げ切ったはずの鬼の容貌をしている。鬼はにやりと笑ったかと思うと、ふいに消え失せた。
「下ナル弟押返(おしかへ)シテ、兄ヲ下ニ押成(おしな)シテ、頸(くび)ヲフツト咋切落(くひきりおと)シテ、踊下(をどりおり)テ行クトテ、妻ノ方ニ見返リ向(むかひ)テ、『喜(うれし)ク』ト云フ顔ヲ見レバ、彼ノ『橋ニテ被追(おはれ)タリキ』ト語リシ鬼ノ顔ニテ有リ。掻消(かきけ)ツ様(やう)ニ失(うせ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・112~113」岩波書店)
また、陸奥国(みちのくのくに)は有名な良馬の産地であり、土産として連れ帰ってきた中にあったと考えられる。けれども鬼が消え失せるとともにそれら財宝も雑多な物の頭蓋骨や何でもない破片を残すばかりとなっていた。
「若干(そこば)ク取置とりおき)ケル物共、馬ナドト見ケルハ、万(よろづ)ノ物ノ骨頭(かしら)ナドニテゾ有ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十三・113」岩波書店)
鬼の逆襲があったという話は周辺を駆け巡り、遂に「安義(あき)ノ橋」でミソギの祭祀が挙行された。その後、鬼は出現することはなくなったという。だがもう少し考えてみたい。
まず第一に「安義(あき)ノ橋」には鬼が出るという話がある。第二にそれが本当だということが明らかになり武勇を誇る武士までが首を噉(くら)われ引き千切(ちぎ)られて殺される。ここまではまだ、橋の一方のたもとからもう一方のたもとまでは鬼の領域である。ところが第三に朝廷軍側自ら祭祀を挙行する。それ以降、鬼は橋から消える。要するにこの橋は、正式に行われた祭祀を以って遂に朝廷軍の傘下に入ったということを意味する。「安義(あき)ノ橋」の鬼はとうとう、何にでも変身可能な貨幣として振る舞う力を譲り渡すこととなった。
再び「梁塵秘抄」に戻ってみよう。先に述べたように歌枕として上げられたどの土地も古くから「水と森と」に深く関係している。太古の熊野の森がそうだったように。平安時代の近江国を通り過ぎる中山道の場合、東国へ下る際あるいは東国から京へ上る際、避けて通れない一つの賭けとして「安義(あき)ノ橋」は機能したのである。
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